【ニ、瓦解の跡】
島秀雄が国鉄を去った翌週。
技術局の一角にある設計室は、まるで主を失った巣のように静まり返っていた。
鷹見は、十川と島が去った後の「新総裁への引き継ぎ書類」を抱え、技術局長室へと向かう廊下を歩いていた。
その足を止めたのは、鋭い声だった。
「鷹見さん!」
声をかけたのは、技術局設計課の結城だった。 端正な顔立ちを真面目くさった銀縁眼鏡で引き締め、黙々と図面に向かっている島の愛弟子である。
休暇中だった彼女は、島が国鉄を辞したという報せを今朝知ったばかりだった。
その息は荒く、手にはまだ私物の鞄が握られている。
「島先生が辞められたというのは、本当ですか」
「事実だ」
鷹見は足を止めず、視線だけを結城に向けた。
「先週、島技師長は辞表を提出し、受理された。 すでに国鉄本社にはおられない」
「どうしてですか!」
結城は鷹見の前に回り込み、その行く手を遮った。
眼鏡の奥の瞳が、怒りと困惑で激しく揺れている。
「先生がどれだけの思いでこの新幹線を作ってきたか、あなたなら一番よく知っているはずです!
なぜ止めなかったんですか。
それとも、上層部の政治闘争に、先生を巻き込んで追い出したんですか!」
「予算超過の責任だ。
表向きはそうなっている」
鷹見の声には高低がなかった。
抱えた書類の束を見つめたまま、淡々と応じる。
「国会と世論を納得させるには、トップの首が必要だった。それだけのことだ」
「それだけのこと、ですか……」
結城は、裏切られたような目で鷹見を見つめた。
「変わってしまいましたね、鷹見さん」
その言葉に、鷹見の指先がわずかに書類を強く握りしめた。
「私はあなたのことを尊敬していました。島先生の突飛な設計を、役所の壁をぶち抜いて予算に変えてくれる、頼もしい人だと。
……でも、最近のあなたは異常です。工事の現場から上がってくる安全対策の予算要求を、あなたは『これ以上は一銭も出せない』と、突っぱねた。
そのせいで、何人もの犠牲があったんですよ。
世界一の鉄道を作るという夢は、そんなやり方でしか叶えられないものなんですか!」
結城の言葉は、純粋だった。
彼女は、予算の嘘も、鷹見が泥をかぶり、地主を脅し、すべてを泥水に沈めて線路を繋いできたことも、何も知らない。
ただ純粋に、新幹線という未来の光だけを追いかけてきた。
「結城」
鷹見は初めて、結城の目を真っ向から見据えた。
その瞳には、光が一切宿っていない。
「島先生は、図面は、すべて君たちの頭の中にあると言っていた。
先生の技術を証明したければ、十月一日に、あの列車を完璧に走らせることだ。
君の仕事は、それだけだ」
それだけを言い残し、鷹見は結城の脇をすり抜けて歩き出した。
「鷹見さん!」
背後から結城の鋭い声が追ってくる。
だが、鷹見は振り返らなかった。
技術局長室への扉を開ける直前、鷹見は静かに息を吐いた。
彼女の激しい弾劾は、今の鷹見の凍りついた胸を切り裂く刃だった。
しかし同時に、その
「何も知らず、ただ純粋に夢を追う人間がまだこの国鉄に残っている」
という事実だけが、すべての感情を失いかけた鷹見の魂にとって、唯一の、そして最後の救いであった。




