【一、四千億の弾劾】
最終章です。
昭和三十八年二月。
衆議院予算委員会の第一委員室は、剥き出しの敵意と熱気で激しく揺れていた。
壇上の証言台に呼び出された日本国有鉄道総裁・十河信二は、七十代後半とは思えぬ頑強な体躯を椅子に預け、居並ぶ代議士たちを傲然と見下ろしていた。
その背後、随行員席の最前列には、分厚いブリーフケースを抱えた総裁室主事・鷹見遼が、彫刻のように硬い表情で控えている。
鷹見の手元にあるのは、世界銀行への提出用に偽装された精緻な財政報告書と、その裏に隠された「真の赤字額」が血のように刻まれた門外不出の二重帳簿であった。
「十河総裁! 往生際が悪いぞ!」
質問に立ったのは、農林大臣・河野一郎の息がかかった論客代議士・大野だった。
大野は手元の資料を議場に振りかざし、十河へ向けて鋭い指を突きつけた。
「東海道新幹線の建設費が、雪だるま式に膨れ上がっているのは万人の知るところだ!
地方のローカル線予算を勝手に凍結して東海道へ注ぎ込み、なおも足りぬとは何事か!
一体、最終的な総工費はいくらになるのか、今日この場で明確な数字を答えられたい!」
議場からは、地鳴りのようなヤジが沸き起こる。政治家たちの狙いは、世界銀行からの融資を受けているこのタイミングだが、まだ工事が未完成なうちに、国鉄のトップに「予算の破綻」を認めさせ、新幹線計画を凍結へと追い込むことだった。
(……騒ぐな、利権に群がる有象無象どもが)
大野の口から放たれる弾劾の言葉を聴きながら、十河はマイクを前に、ふと数年前のある豪雨の夜を思い出していた。
国会議事堂の地下に佇む、大蔵大臣・佐藤栄作の特務執務室。
部屋を満たすパイプの煙の向こう側で、佐藤は手元の「新幹線建設費・真の見積書」を冷徹な目で見つめながら、十河に低く告げたのだ。
『十河君。こんな狂った帳簿、国会が通すわけがないよ。
地方のローカル線利権を叫ぶ河野一郎たちが、君を即座に弾劾するだろう』
その冷淡な言葉に、十河は白い眉を動かし、不敵に笑って返した。
『だから、国会には千七百億でできると大嘘を吐くのさ、佐藤君。
あんたのアドバイスのとおり、世銀の融資を引っ張って、全線の九割以上、もう後戻りできんところまで怪物を成長させてしまえば、俺の勝ちだ。
そんなところで工事を止めれば投じた千数百億がすべてドブに落ちる。
国会も池田総理も、最後は泣きながら残りの予算を追加投入するしか道は無くなる』
『国家をハメるというわけか。
だが、その嘘がバレた時、君の首は確実に飛ぶぞ』
『新幹線が走るなら、俺の首などいくらでも差し上げよう。泥水はすべて俺がすする。
……だが、佐藤君。あんたには、俺が失脚した後に国会が叫ぶ残りの八百億を、即座に放出する裏の段取りをつけてもらいたい。
悪名は俺が持つ。
戦後日本の未来という栄光は、次の総理大臣たるあんたの手土産にすればいい』
佐藤は静かにパイプを置き、微笑を浮かべた。
『いいだろう、十河君。
その悪魔の取引、大蔵省が引き受けよう』
『まあ、私は何も聞いてないし、知らないが、そのようなるはずだよ』
──あの雨の夜の密約から数年。
全ては、あの男と描いた絵図の通りに動いている。
十河は濁った瞳の奥に凄絶な覚悟の火を灯し、目の前でなおも吠え続ける大野代議士を冷酷に見据えた。
委員会が一時休憩に入った直後、衆議院本館の薄暗い裏廊下。
「大野先生、お待ちください」
足早に控室へ向かう大野代議士と数名の秘書たちの前に、巨躯の影が立ちはだかった。
鷹見だった。
「なんだね君は。国鉄の随行員か。邪魔をしないでくれたまえ」
「大野先生。先ほどの委員会でのご質問、あまりにも的外れです。
東海道の輸送力はすでに限界に達しており、新幹線は、一部の大都市のためではなく、この国全体の戦後脱却のための絶対の命題です。
それを地方のローカル線利権と秤にかけるなど、政治家としての見識を疑います!」
「何だと……!」
大野は顔を真っ赤にし、鷹見に掴みかからんばかりに一歩踏み出した。
「無礼者め! 一官僚の分際で、民意を背負った国会議員に意見する気か!
四千億もの大赤字を出しておいて、何が国家の命題だ!」
「予算なら、二千九百億で必ず収めてみせます!」
鷹見は声を荒らげ、大野の威圧感をその分厚い胸で跳ね返した。
「現場の人間がどれほどの思いで、あの山をぶち抜き、泥水にまみれてレールを敷いているか、先生はご存知ないはずだ!
数字の揚げ足取りで新幹線を殺すことだけは、この鷹見が、命に代えても絶対にさせません!」
鷹見が放つ官僚としての凄まじい執念に、大野はその凄みに一瞬言葉を失って気圧され、逃げるように控室へと消えていった。
廊下に独り残された鷹見は、激しく上下する胸を抑えながら、壁に拳を叩きつけた。
自分が守ろうとしている「二千九百億」という数字も、オヤジと共に仕掛けた「国家への大嘘」であるという、引き裂かれるような自己矛盾の泥を感じながら。
直後の本会議場。
壇上のマイクに向かった十河信二は、鷹見の決死の訴えに呼応するかのように、地響きのような声を響かせた。
「全部で二千九百二十六億円。
これで完全に完成できる。
これ以上は、国庫に対して一文の追加要求もしない!
私が国鉄総裁の職を賭して、この数字で世界一の鉄路を走らせてみせる!」
野次が飛び交う中、十河は一歩も引かなかった。
席に戻った十河の横顔は、大量の汗に塗れながらも、どこか晴れやかだった。
その横で、鷹見はポケットの中の手を、爪が肉に食い込むほど強く握りしめていた。
国会を騙し通した。
しかし、それこそがオヤジが自らに課した、最後の死に場所であった。
それからわずか二ヶ月後の、四月末。
新幹線のレールが全線の九割を覆い、もはや大蔵省も国会も「建設中止」のブレーキを踏むことが物理的に不可能になった瞬間を見計らい、国鉄本社からある驚天動地の情報が新聞各社へリークされた。
『新幹線、さらに八百七十四億円の予算不足が発覚』――。
それは、十河信二自身が周辺に命じて流させた、自らを社会的に圧殺するための「実弾」であった。
当初の予算の倍、四千億円という天文学的な巨額の赤字の露呈。
マスコミは「国鉄破滅論」を書き立て、河野一郎派の代議士たちは水を得た魚のように十河の更迭を要求した。
総裁室の黒い革ソファに深く腰掛けた十川信二は、その喧騒をどこか他人事のように眺めていた。
その傍らで、鷹見は、無表情に受話器を握りしめたまま、直立不動の姿勢を崩さない。
ジリリ、と重々しいベルの音が室内に響いた。 鷹見は素早く受話器を耳に当て、二言三言、低く応じた後、十川に向かって静かに一礼した。
「総裁。大蔵省経由、佐藤栄作先生からです」 十川の眉がわずかに動いた。
鷹見から受話器を受け取り、耳に当てる。
「十川君。
例の不足分、八百数十億の追加予算の件だがね」
受話器の向こうから聞こえるのは、雑音を割り裂くような、余裕に満ちた低い声だった。
「裏の段取りはすべて整った。
大蔵はこちらの筋書き通りに動く。
安心したまえ」
「――ありがとうございます、佐藤くん、いや、佐藤先生。
これで、線路は繋がりますな」
「ああ。新幹線とオリンピックの成功は、この国の戦後を終わらせる。
……だが、表向きの『ケジメ』は必要だ。
国会と世論を黙らせるため、君には『予算を誤魔化した大罪人』として、綺麗に身を引いてもらう
それが、私がいずれ総理の座に就くための条件だからね」
「元よりその覚悟です」
十川は、むしろ満足げな笑みすら浮かべて応えた。
「ワシの首など、新幹線の運賃に比べれば安いものです。……ただ、島の処遇だけは」
「分かっている。
だが、政治とは残酷なものだよ、十川君」
ツーツーという無機質な電子音が響き、通信は切れた。
十川は静かに受話器を黒い電話機に戻すと、じっと手元を見つめている鷹見を振り返った。
「すべては予定通りじゃ、鷹見。
ワシは騙した悪党として去る。
佐藤さんは騙された被害者として、新幹線のテープカットをして総理になる。
万事、計算通りだな」
「はい。すでに国庫債務負担行為の裏付け書類は、すべて佐藤先生の秘書官室へ届け終えております」
鷹見の声には、一切の抑揚がなかった。
その目は、朝刊の『国鉄、国民を欺く』という文字を冷徹に見つめている。
その視線は、バッシングを繰り返すマスコミの論調が、新幹線が完成した暁には、「世紀の大偉業」へと一斉に反転する未来の台本を、ただ正確に読み取っているかのようであった。
翌日、技師長室。
島秀雄は、すでにいくつかの図面と私物を茶色の革鞄に詰め終えていた。
引き留めようと書類を差し出す鷹見を、島は穏やかな、しかし拒絶の色の混じった目で見つめた。
「鷹見君。十川総裁が『政治の嘘』の責任を取って切られるなら、私は『技術の嘘』の責任を取って辞める。
それが一蓮托生というものだ」
「島先生。しかし、開業までの技術的な総指揮は――」
「もう図面はすべて、結城や現場の若い連中の頭の中にある。
パンタグラフは架線側で、衝撃波もトンネル側で対処することで、何とか目処はたっているしね。
私が引いても、新幹線は絶対に走るよ」
島は鞄のチャックを閉め、その手を鷹見の肩に置いた。
「佐藤栄作という男は、新幹線を自分の神輿にするつもりだろう。
だがね、政治家にどれだけ利用されようと、私たちが作ったこの技術だけは、絶対に嘘を吐かない。
……君には、本当にすまないことをした。
政治家への嘘も、地元の地上げも、全部君に押し付けてしまったね。ありがとう。
ここに結城がいなくてよかったよ」
「いえ。私は職務を全うしたまでです。
結城にはなんと?」
「あの子には私の技術は全て伝えてある。
それでいいさ。」
鷹見は直立したまま、感情の消えた声で応えた。
頭を深々と下げる彼の手は、ミリ単位のブレもなく、完璧な角度を維持していた。
夕刻。
西日が差し込む国鉄本社の重厚な玄関口。
荷物を抱えた十川と島が、並んで車に乗り込む。
正面玄関には、二人を見送る幹部たちの姿は一人としてなかった。
誰もが、新総裁の椅子を窺うことに躍起になっていた。
鷹見は、二階の窓の遮光カーテンの隙間から、その黒い公用車が走り去るのを見つめていた。
遠くから、広報課の職員たちが「開業記念式典のプレスリリース」について騒ぐ声が聞こえてくる。 マスコミへの根回し、新しい政治家たちへの挨拶回り――彼のデスクには、明日から処理すべき「戦後処理」の書類が山のように積まれている。 鷹見はカーテンから手を離し、静かに自席へと歩いた。
その顔には、怒りも、悲しみも、あるいは安堵すらも浮かんでいなかった。ただ、一人の有能な官僚としての冷徹な横顔だけが、夕闇の室内に浮き上がっていた。




