【七、夢の代償】
とりあえず第3章終了です。
あとは、クライマックスです。
世界銀行からの融資が決定した瞬間から、東海道新幹線計画は、一日の遅れも許されない「国家の絶対の至上命令」へと変貌を遂げていた。
昭和三十七年。
新幹線の建設現場は、東京から大阪までの五百キロにわたり、昼夜を問わぬ修羅場と化していた。
一九六四年十月の東京オリンピック開幕というタイムリミットへ向けて、山をぶち抜き、谷を跨ぐ壮大な突貫工事の槌音が日本全国に鳴り響く。
しかし、華やかな国際公約の裏側で、計画の骨組みを支える予算の歪みは、最も脆い現場の底辺へと容赦なく襲いかかっていた。
国会を騙した過少申告のしわ寄せにより、国鉄が各建設区間の土木業者に支払う発注費は、限界まで叩き削られていたのである。
「おい! 支保工のボルトが足りねぇぞ! 上は何を考えてやがる!」
熱海区間の不気味に濡れたトンネルの奥底。
剥き出しの岩肌から滴る泥水に塗れながら、飯場の古参の組頭が、国鉄から派遣されてきた若い現場監督の胸ぐらをつかんで怒号を浴びせていた。
「安全対策費が削られた? 舐めるんじゃねぇ! 先週も落盤で二人足の骨を折ったばかりだ。
このままじゃ今に死人が出るぞ! 工期を縮めろ、金は出せないじゃ、俺たちはただの使い捨ての土砂か!」
「工期を縮めろ、だが金は出せない」
――総裁室から下される冷徹な数字の厳命に、現場の安全対策費は真っ先に削ぎ落とされ、そのしわ寄せは全て現場の作業員へと向かっていた。
「鷹見さん、熱海区間のトンネル工事で、今月だけで三件の重傷者が出ています。
崩落対策の補強を、上層部が予算削減のためにケチらせているからです!」
国鉄庁舎の廊下で、結城樺恋は鷹見の前に立ち塞がった。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、激しい怒りと、それ以上に深い悲しみに濡れていた。
東大卒の技術官僚として、純粋に時速二百キロの安全な夢を追ってきた彼女にとって、現在の現場から送られてくる凄惨な事故報告書は、とても直視できるものではなかった。
「島技師長も仰っています! どんなに素晴らしい安全装置(ATC)を車体に積んでも、それを走らせる土台の線路やトンネルが人の血で染まっているなら、それは世界一の鉄道などとは呼べません!
今すぐ、熱海と関ヶ原区間に臨時の安全対策費を補正予算から出してください!」
樺恋の言葉は、技術者として100%正しい、正義の告発だった。
しかし、鷹見の武骨な横顔には、一切の感情が兆さなかった。
彼は樺恋を正面から見ようとせず、淡々と事務書類に目を落としたまま、低く冷たい声で答えた。
「却下だ、結城」
「なぜですか……!」
「補正予算など存在しない。
今ここで工事を止めれば、オリンピックまでの開業という国際社会への誓約は破綻する。
そうなれば国鉄は世界からの信用を失い、計画そのものが空中分解するんだ。
……多少の無理をしてでも、前へ進めるしかない」
「多少の無理、ですか……!」
樺恋は息を呑み、一歩後退りした。
彼女が憧れ、誰よりも真面目で仲間思いだと信じ尊敬していた鷹見主事。
その大柄な背中から、今は人間の温もりが一滴も感じられなかった。
「あそこの現場で泥にまみれて働いている人たちにも、帰りを待つ家族がいるんです!
鷹見さん、あなたは本当に冷酷な官僚になってしまったんですか……!」
「……部屋へ戻れ、結城。
君の仕事は、世界一の図面を引くことだ。
現場の数字は、総裁室が管理する」
取り付く島もない鷹見の拒絶に、樺恋は悔し涙を滲ませながら、踵を返して走り去った。
そのパタパタという足音が遠ざかる中、鷹見はデスクの上で、激しく震える己の拳をじっと見つめていた。
数日後、熱海の崩落現場には、意外な人物の姿があった。
「結城さん、あんた東大出のキャリア官僚だろ。
こんな泥にまみれた穴ぐらに、一体何をしに来やがった」
組頭が、カッパを泥だらけにし、ヘルメットからおくれ毛を濡らした樺恋を睨みつけた。
樺恋は、島技師長と共に徹夜で書き上げた臨時の「補強設計図」を、手すさびの製図板の上に広げた。
「予算が無いなら、知恵を使うしかありません。 島技師長の計算です。
この角度で補強材を噛み合わせれば、現在の半分の資材でも、山からの圧力を完璧に分散できます。
……私は、この新幹線に関わる誰一人として、死なせたくありません!」
細身の身体を震わせ、泥水を浴びながらも、図面を指さす彼女の眼鏡の奥の瞳には、圧倒的な真摯さが宿っていた。
自ら泥まみれの飯場に泊まり込み、職人たちと一緒になって現場の命を守るために指示を出す。
その純白の執念に、頑固な職人たちの目つきが変わっていった。
数日間の突貫補強を終え、次の現場へと向かう樺恋のジープを見送りながら、古参の組頭は、雨に濡れるヘルメットを脱いでポツリと呟いた。
「……国鉄の上にも、まだ本物の人間が残っていやがったな。
あの嬢ちゃんの引いた図面なら、命を賭ける価値はある。
おい野郎ども! 嬢ちゃんに恥ずかしくない線路を敷くぞ!」
技術畑の二人は、総裁室の影の冷徹さに抗うように、自らの知恵と正義だけで、現場の命を守ろうと必死に戦っていた。
その報告を総裁室の窓から聞きながら、鷹見は何も言わず、ただ深く、暗い夜の闇の向こうを見つめていた。
(……ありがとう、結城。
君が綺麗でいてくれるから、俺は悪魔でいられる)
頭上を激しく叩く雨の音は、まるで去っていった親友の呪いのようであり、同時に、これから始まる新時代の、あまりにも巨大な地鳴りのようでもあった。
(第三章・完)




