【六、権力の調印式】
ワシントンからの「融資承認」の報が、電信によって日本の永田町へもたらされたその日、首相官邸の応接室は、静まり返る硝子のような緊張感に包まれていた。
ソファーの正面に座る内閣総理大臣・池田勇人は、調印書類の写しを眼鏡の奥の鋭い目で見つめ、不機米な沈黙を保っていた。
彼の掲げる「所得倍増計画」にとって、世界銀行からの巨額資金は本来、日本経済のエンジンとなるべき至宝である。
しかし、総理としての池田の脳裏を過っていたのは、別の冷徹な計算だった。
「これで……東海道新幹線は、一九六四年の東京オリンピックまでに必ず完成させねばならん『国際公約』になったわけだ、佐藤君」
池田は、隣に座る大蔵大臣・佐藤栄作へ視線を向けた。
その声には、同志への賞賛と、それ以上に強い警戒が混じっていた。
世界銀行と条約を結んだ以上、国内の予算がどれほど破綻していようとも、内閣が代わろうとも、日本政府は国庫から際限なく追加予算を投入して、この鉄の怪物を走らせる義務が生じる。
国会で新幹線を「世界の四バカ」と叩いていた野党や地方選出の代議士たちも、国際社会への信義という大義名分の前には、もう一本の指すら差すことはできない。
政権の退路を完璧に断つ、佐藤栄作の仕掛けた壮大な「ハメ技」が、ここに完成したのだ。
「ええ、総理。これで我が国の戦後脱却は、世界の誰も止めることはできません」
佐藤はトレードマークのパイプを燻らせ、完璧なチェスプレイヤーの微笑を浮かべた。
その視線は、池田の向こう側――ソファーの端で、怒りを押し殺した顔で煙草の灰を落としている農林大臣・河野一郎を捉えていた。
河野は、完全に敗北していた。
陣内厳という極道の猟犬を使い、国鉄の裏帳簿を世銀に流して計画ごと十河信二と佐藤栄作を圧殺するはずだった謀略は、陣内の「裏切り(二重スパイ)」によって、逆に自らの派閥の闇献金帳簿を佐藤の手に握られるという致命傷に終わった。
「見事な泥縄式の大芝居だな、佐藤」
河野は低く、野太い声で吐き捨てた。
「予算の過少申告という『国家への大嘘』を世界銀行の看板で隠し、日本中のローカル線の予算を凍結して東海道へ注ぎ込む。
……これでお前が次の主流派へ一歩近づいたというわけだ」
「人聞きが悪いな、河野君。
私はただ、十河総裁の熱意と、我が国の技術官僚たちの『美しい真実』を、ワシントンへ仲介したに過ぎんよ」
佐藤は静かに笑い、影のように控える国鉄総裁室主事・鷹見遼へ、顎で短く合図を送った。
鷹見は一礼し、書類の詰まった革の鞄を胸に抱え、静かに応接室を退出した。
背後で閉まる重い扉の奥からは、なおも続く政治的怪物たちの、静かで、しかし骨の髄まで削り合うような権力闘争の残響が聞こえていた。
廊下を歩く鷹見の脳裏には、先ほど総裁室で、融資獲得の報に文字通り男泣きをしていた「オヤジ」こと十河信二の姿があった。
『鷹見、これで新幹線は走る。
国を騙した悪名は、俺がすべて背負って地獄へ行ってやる』
そして、何も知らずに
「世界に日本の技術が認められた」
と、涙を流して喜んでいた後輩・結城樺恋の笑顔。
(走る。もう、止めることはできない……)
国鉄庁舎へ戻る公用車の窓から、鷹見は東京の街を見つめた。
政治家たちの欲望を喰らい、親友の人生を枕木に変え、世界を壮大な騙し絵でハメ殺して得た、八千万ドルの免罪符。
国際公約という鉄の軛をはめられた戦後日本は、今ここから、一日の遅れも許されない「東京オリンピックへの地獄の突貫工事」という、本当の修羅の道へと突き進んでいく。
その鉄路の先に待つ未来が、どれほど冷酷な光に満ちていようとも、鷹見に、もう引き返す選択肢は残されていなかった。




