【五、鴨宮の奇跡、猟犬の凱旋】
世界銀行による帝国ホテルでの一次査察を、結城樺恋の「純白の嘘(貨物新幹線の騙し絵)」で乗り切った国鉄。
しかし、ワシントンの狐たちはまだ確証を掴んではいなかった。
融資契約の最終調印を前に、彼らは新幹線の心臓部である小田原・鴨宮の「モデル線区」へと視察の足を伸ばす。
昭和三十七年秋。
相模湾からの潮風が吹き抜ける鴨宮の仮設ホームに、世界銀行の最高査察官、ハリー・マクミランをはじめとする査察団の一行が立っていた。
周囲には、彼らの動向を一目見ようと、東洋新報をはじめとするマスコミの群れが不気味にカメラを構えている。
「ミスター島。本当にこの短い線区で、あの巨大な鉄の塊が時速二百キロで走るのかね?
我々には、まだ日本のナショナリズムが見せる白昼夢に思えるのだが」
マクミランが懐疑的な目を向ける。
その緊迫した空気のなか、信号所の電子鐘が鋭く鳴り響いた。
「――来ます!」
結城樺恋が、ヘルメットの鍔を抑えながら声を弾ませた。
その瞬間、遠くの地平線から、これまでの日本の鉄道史には存在し得なかった、凄まじい地鳴りのような重低音が響いてきた。
地を這う轟音と共に姿を現したのは、青と白の鮮烈な流線型をまとった試作車両「B編成」だった。
島秀雄が引き、樺恋たちが一点の妥協もなく形にした「世界一安全な怪物の雛形」。
それが、新設計の超軽量台車としなやかな架線を火花を散らせて噛み合わせながら、査察団の目の前へと猛烈な速度で突っ込んできた。
風圧が仮設ホームを激しく叩き、マスコミの帽子が宙を舞う。
車体がホームを通過するまさにその瞬間、速度計の針は、日本の、いや世界の広軌鉄道の常識を覆す「時速二百キロ」の領域へと、ついに突入した。
時速二百キロの暴風が、マクミランたちの衣服を激しく引き裂くように吹き抜けていく。
あまりのスピードと、それを完全に制御する自動列車制御装置(ATC)の正確さに、世銀の査察官たちは言葉を失い、やがて一人が、叫ぶように拍手を始めた。
「ワンダフル……! これは夢じゃない、本物だ!」
マクミランもまた、銀髪を激しく揺らしながら、驚愕を感動へと変えて島秀雄の手を強く握りしめていた。
マスコミのフラッシュが、その「奇跡の瞬間」を遮二無二に焼き付けていく。
「やりました……! やりました、島技師長、鷹見さん!」
樺恋は眼鏡の奥の瞳に涙を浮かべ、歓喜の声をあげた。
技術の「光」が、その圧倒的な実力によって、世界の裁判官たちを完全にハメ殺した瞬間だった。
だが、その歓声が響く仮設ホームの裏側、錆びついた貨物用の倉庫の影で、もう一つの、より陰惨な暗闘が終局を迎えようとしていた。
数日前、川崎の陣内厳の元に、農林大臣・河野一郎の秘書から密かな接触があった。
銀座の格式高い一力茶屋の奥座敷でもたらされたのは、目も眩むような「寝返り」の条件だった。
「陣内君。国鉄の十河や大蔵省の佐藤栄作に付き従うのはもうやめなさい。
世界銀行の査察官に、川崎の強引な地上げの証拠と国鉄の不正融資の書類を流してくれ。
新幹線計画さえ潰せば、河野大臣が次の内閣で君に『地方の高速道路建設』の全利権を保証する。
ヤクザから、本物の土建の巨頭へ引き上げてやる。
悪い話ではなかろう」
地方の公共事業を牛耳る河野派からの、破格の調略。
普通の極道であれば、泣いて飛びつく名誉と金の提案だった。
「なるほど。高速道路ねぇ……」
陣内は前髪の隙間から、色素の薄い瞳で相手を見つめ、不気味に微笑んだ。
そして今――。
鴨宮の仮設ホームから少し離れた地下駐車場。
鷹見遼は、国鉄の公用車の中で、ハザードランプの点滅を見つめていた。
ドアが開き、上質な三つ揃えのスーツをまとった陣内が、ふらりと後部座席に滑り込んできた。
その顔には、獲物を仕留めたばかりの獣の残虐な笑みが浮かんでいた。
「……陣内。河野の秘書と会っていたそうだな」
鷹見の低く、地響きのような声が車内に響く。
鷹見の手元には、公安から回ってきた陣内の密会の報告書があった。
「俺を裏切って、新幹線を河野に売り渡すつもりか」
「兄貴、人聞きが悪いな」
陣内はふっと息を漏らして笑うと、懐から分厚い革のセカンドバッグを取り出し、鷹見の膝の上に放り出した。
「そいつを開けてみな。
河野のバカどもが、俺を抱き込もうとして提示してきた『地方高速道路の裏割当表』と、彼らがこれまで建設業界から吸い上げてきた闇献金の正確な帳簿だ。
本物の、一級品のスキャンダルだぜ」
鷹見が驚愕してバッグの中の書類をめくる。
そこには、池田内閣を揺るがしかねない、河野派の決定的な不正の証拠が並んでいた。
陣内は調略に応じるフリをして敵の本丸へ潜り込み、彼らの機密を完璧に食い破って、大ダメージを与えて戻ってきたのだ。
「なぜだ……」
鷹見は帳簿を見つめたまま、呟いた。
「河野の誘いに乗れば、お前はヤクザの枠を超えて、本物の政商になれたはずだ。
なぜ、その話を蹴って、破綻しかけている国鉄に付く?」
陣内はゆっくりと煙草に火をつけ、窓の外に広がる東京の夜景を、飢えた瞳で見つめた。
「兄貴。俺は自分の欲にだけは、いつでも忠実なんだよ」
その声には、冷徹な狂気が宿っていた。
「河野のオヤジが言っている高速道路なんてなぁ、ただのアスファルトの板だ。
どこにでもある、戦前の延長線上の利権だ。
だがな、新幹線は違う」
陣内は身を乗り出し、鷹見の真面目な顔を覗き込んだ。
「時速二百キロでこの狭い日本をぶち抜く鉄の怪物だぜ? 誰も見たことのない、戦後日本のすべてをひっくり返す巨大なバケモノだ。
その心臓の利権を、国鉄の総裁室と大蔵省の佐藤栄作、そしてあんたが握っている。
この怪物のゆりかごに寄り添っていれば、俺たちの手に入る金と権力は、地方の道路なんかとは桁が違う。
新幹線という夢に群がる利権こそが、俺が命を懸けるに値する本当の希望だ」
陣内は、新幹線という国家の大業の中に、自分の野望を無限に増殖させる「終わらない闇」を見出していたのだ。
だからこそ、新幹線を潰そうとする河野一郎のような古い政治家は、陣内にとっても排除すべき「敵」に過ぎなかった。
「これで河野のバカどもは、身内のスキャンダルを揉み消すために、世銀の邪魔どころじゃなくなる。
十河のオヤジさんも、佐藤の大臣も、これで完璧にシロを貫ける。
……新幹線は、守られたんだよ、兄貴」
陣内は色素の薄い目を細め、くつくつと笑った。
「これでまた、俺への『貸し』が増えたな。
もっと広く地上げをさせてもらうぜ」
鷹見は何も言えず、手の中の汚れた帳簿を握りしめた。
陣内を「猟犬」として飼い慣らしたつもりが、今やこの怪物こそが、新幹線を前進させるための最も強力な、そして最も切り離せない「エンジン」になってしまっている。
翌日、世界銀行は「東海道新幹線プロジェクト」への八千万ドルの融資を正式に承認。
調印式の万雷の拍手の中、結城樺恋たちが涙を流して喜ぶ姿を、鷹見は総裁室の窓から見つめていた。
国家の退路を断つための、国際公約という名の絶対の盾が手に入った。
しかしその盾は、親友の骸と、肥大化を続けるヤクザの怪物の血肉によって磨かれたものだった。
鷹見の眼光は、もう二度と夜明けを見ることのない深淵の黒へと、さらに深く染まっていくのだった。
史実では、在来線で160キロくらい。そのため、カーブの少ない新線なら200キロは可能だと判断されたらしい。
まだ、パンタグラフ問題は解決しておらず、ほんとは衝撃波問題は認知されてなかったらしい。




