【四、査察団の襲来】
昭和三十六年五月、世界銀行の最高査察官、ハリー・マクミランをチーフとする総勢八名の実務査察団が羽田空港に降り立った。
彼らは、戦後復興の奇跡と謳われる日本の命運を握る「八千万ドル」の融資の是非を判定する、ワシントンからの絶対的な裁判官であった。
だが、彼らが滞在する帝国ホテルの周囲には、歓迎の空気など一滴もなかった。
当時のマスコミ、とりわけ大和新聞や東洋新報といった大手の論調は、新幹線計画に対して冷酷なまでの批判を浴びせていた。
『世界の四バカ――ピラミッド、万里の長城、戦艦大和、そして東海道新幹線』
高度経済成長の影で、アメリカや欧州が「鉄道は過去の遺物」として高速道路や航空網へシフトするなか、日本が巨額の国家予算を投じて古い鉄路を敷くのは、時代遅れの極みであるという「鉄道斜陽論」が世論を支配していた。
国鉄が国会に提出した予算が、実際の中身を隠した「過少申告の偽帳簿」であるという不穏な噂も、公然の秘密として永田町を駆け巡っている。
「世界銀行が一度でも首を横に振れば、その瞬間に十河を更迭し、新幹線計画は白紙凍結とする。
それが閣議の空気だ」
赤坂の高級料亭の奥座敷。
大蔵大臣・佐藤栄作は、冷え切った目で目の前の男を見つめた。
その視線の先にいるのは、時の内閣総理大臣・池田勇人ではなく、その池田に急速に急接近し、次期総理の座を佐藤と激しく争っている政治的怪物――農林大臣・河野一郎の影だった。
河野は地方の公共事業や建設利権を牛耳る巨頭であり、十河総裁が予算と資材を「東海道」へ一極集中させたことで、地方のローカル線建設をすべて凍結されたことに激怒していた。
河野の狙いは明確だった。
佐藤からの提案のとおり、世界銀行融資の法案に賛成し、国鉄の「予算の嘘」と「用地買収の停滞」を密告し、査察を失敗させる。
そうなれば、新幹線を経済政策の目玉として静観していた池田総理は、即座に十河を切り捨てる。
同時に、佐藤栄作を裏で十河の糸を引いていたと糾弾し、佐藤の政治生命も完全に終わらせるのだ。
河野は自らの勝利を確信していた。
佐藤は鷹見を呼び出し、自分には関係のない話しであるという調子で、鷹見に河野の思惑を伝えた。
「池田総理は『所得倍増』の看板に傷がつくことを何より恐れておられる。
世銀の融資がコケれば、主流派の座は河野に回る。
……鷹見君、君の仕えるオヤジの命も、ここまでになるだろうね。」
さらに、河野の息がかかった野党代議士やマスコミが、世銀の査察団に「国鉄の裏帳簿」を流そうと不気味に蠢いていた。
世界を騙し通す事が出来るのか。
国鉄総裁室主事・鷹見遼の背負う重圧は、すでに限界を超えつつあった。
五月十四日。国鉄本庁舎の特別会議室にて、世界銀行による第一次技術・財政査察会合の幕が上がった。
正面に座るマクミラン査察官は、銀髪の鋭い双眸で国鉄側の幹部を値踏みし、手元の英語の資料を冷酷に指先で叩いた。
「ミスター十河。ワシントンは、貴国が計画している時速二百キロを超えるという『夢の超特急』に、極めて懐疑的だ。
我が世界銀行の規約は、未完成のギャンブルのような新技術には一ドルも貸さないと定めている。
この新幹線とやらは、一体どれほどの経済的合理性があるのか。
ただのナショナリズムの玩具ではないのかね?」
重苦しい沈黙が会議室を支配した。
河野一郎の息がかかった東洋新報の記者が、室内の後方で不敵な笑みを浮かべて控えている。
国鉄側が少しでも数字を濁らせれば、即座に「予算不足のスクープ」が世銀の元へ持ち込まれる手筈になっていた。
その張り詰めた硝子のような空間に進み出たのは、総裁室の鷹見ではなかった。
東大卒の女性技術官僚――結城樺恋だった。
「お答えいたします、ミスターマクミラン」
白地のスーツに銀縁眼鏡をかけた樺恋は、一切の気後れを見せることなく、流暢で美しい英語で語り始めた。
彼女の胸にあるのは、政治の泥でも大嘘の帳簿でもない。
世界一の鉄道を作るという、一ミリの澱みもない純粋な技術者としての誇りだった。
「まず、誤解を解かせてください。
東海道新幹線は、未完成の『新技術』のギャンブルではありません。
私たちがこれまで半世紀にわたり培ってきた広軌軌道、交流電化、そして安全なATC(自動列車制御装置)という、極めて堅実な『既存技術』の最も合理的な組み合わせに過ぎないのです」
彼女の瞳には、一点の曇りもなかった。
島秀雄と共に心血を注いだ図面の正当性を、ただ真っ直ぐに世界へ証明しようとしている。
その張り詰めた、しかし圧倒的に清らかな熱量に、世銀の査察官たちの目がわずかに動いた。
「そして、この計画の真の目的は、スピードの追求による旅客の利便性だけではありません。
我が国の高度経済成長において最も深刻なボトルネックとなっている『東海道本線の貨物輸送のパンク』。
これを根本から解決するための、巨大な物流改革なのです」
樺恋は、背後の大型スクリーンに、精緻極まる運行シミュレーションの図面を映し出した。
「ご覧ください。
この新幹線は、昼間は高速旅客をピストン輸送し、夜間はすべての線路を開放して、大量のコンテナを時速百五十キロで疾駆させる『貨物新幹線の大動脈』として設計されています。
大阪の鳥飼地区には、そのための巨大な貨物専用ターミナルの建設がすでに始まっています」
それは、十河と鷹見が世銀の「物流重視」の姿勢に合わせるために用意した、実際には走らせる気のない壮大な「ポーズ(騙し絵)」であった。
しかし、結城樺恋という「何も知らない純白の光」が、それを世界の最先端を行く画期的なグランドデザインだと100%本気で信じ込み、魂を込めてプレゼンしている。
その真摯な言葉には、どんな熟練の詐欺師も真似できない、圧倒的な「真実の説得力」が宿っていた。
マクミランをはじめとする世銀の面々は、互いに顔を見合わせ、深く頷き始めた。
彼らは、日本の国鉄が提出した数字ではなく、この若き女性技術者の「嘘のない瞳」に、完璧に魅了されていた。
(……見事だ、結城)
会議室の壁際、影の中に佇む鷹見は、ポケットの中で拳を強く握りしめ、心の中で血を吐くような賛辞を送っていた。
彼女が清らかであればあるほど、その光の舞台を維持するために、自分はどこまでも汚れ、政界の怪物たちと泥をすすらなければならない。
会議の休憩時間、廊下に出た鷹見の前に、東洋新報の記者が忌々しげに近寄ってきた。
「鷹見主事、大した演出だな。
だが、川崎の新駅予定地はどうなっている?
陣内組とかいうヤクザが強引に地上げをして、地元の住民と血を見るような沙汰になっているという告発状が、もうすぐ世銀の宿泊先に届く手筈になっているぜ。
河野大臣からの、ちょっとしたプレゼントだ」
記者の卑劣な笑みに、鷹見の生真面目な顔から一切の感情が消え失せた。
香坂を失い、悪魔になると決めた男の、底冷えするような暗い眼光が、記者を正面から射抜く。 「……やれるものなら、やってみろ」
鷹見は低く、地響きのような声で告げた。
「その前に、お前たちの主人が大蔵省からどれだけの裏資金を受け取っているか、佐藤大臣の机の上の『特務ファイル』が火を吹くことになる。
……新幹線を止める者は、国家そのものを敵に回すと思え」
その凄まじい威圧感に、記者は息を呑み、一歩後退りした。
部屋からは、島秀雄と結城樺恋が査察官たちと和やかに握手を交わす、晴れやかな笑い声が聞こえてくる。
世界を相手にした巨大な大嘘の舞台。
その幕は今、豊満な果実を実らせるように、八千万ドルを引き寄せつつあった。
しかし、その鉄路の先にあるのは、栄光か、それとも底なしの破滅か。鷹見の孤独な戦いは、いよいよ熱を帯びていくのだった。




