【三、ワシントンからの黒船】
昭和三十六年の春、東京の桜が墨色の雨に濡れて散る頃、国鉄総裁室主事・鷹見遼の心から、本当の笑顔というものが完全に消え去っていた。
あの大和新聞の一大スキャンダルで、親友であった香坂潤は言論界から文字通り抹殺され、最愛の女性であった冴子と共に、足跡を完全に絶ってどこかへと消えた。
彼らの人生を、世界一綺麗な列車の枕木にする――その犠牲と引き換えに、新幹線計画の「影の防衛」はひとまず果たされたかに見えた。
世界銀行からの融資についても、なんとか国会の承認を得た。
しかし、国家の大嘘の上に築かれつつある鉄路は、深刻な失血死の危機に瀕していた。
深夜の総裁室。
「予算が、もう来月までもたん」
十河信二は、朱書きの並ぶ国鉄の資金繰り表をデスクに叩きつけ、苦り切った顔で煙草の煙を吐き出した。
東京―大阪間の全線にわたる用地買収、島秀雄が要求する妥協なき最新鋭の技術開発。
そのすべてを、国会を騙した「過少申告の偽予算」だけで賄えるはずがなかった 。
国庫からの追加融資は、大蔵大臣・佐藤栄作の冷徹な政治的コントロールによって、蛇口を絞るように制限されている。
国鉄の金庫は完全に底を突きかけていた。
計画の瓦解を防ぎ、この巨大な怪物を前進させるための残された唯一の命綱。
それこそが、ワシントンに本拠を置く世界銀行からの「八千万ドル」という、天文学的な巨額融資だった。
だが、世界銀行は慈善団体ではない。
冷徹な国際金融のチェスプレイヤーたちは、敗戦から急速な復興を遂げつつある日本が、本当にその巨費を償還できるのか、その目を鷹のように鋭く光らせていた。
「ワシントンから、実務査察団が派遣される。
チーフは、あの辣腕で知られるマクミランだ」
十河の言葉に、鷹見の背筋に冷たい緊張が走った。
世界銀行には、鉄の如き絶対の融資ルールが存在する。
「未完成の、ギャンブルのような夢の新技術には一ドルも貸さない」
実用化されていない時速二百キロの世界初の大強行軍など、世銀の査察官たちから見れば、言語道断の危険な博打に過ぎなかった。
もし、この査察で国鉄の「予算の嘘」や「技術的な危うさ」、あるいは川崎をはじめとする用地買収のドロドロとした裏が看破されれば、融資は即座に白紙となる。
それは即ち、新幹線という計画そのものの死を意味していた。
「鷹見、舞台を整えろ」
十河は濁った瞳で、影の中に立つ主事を見つめた。
「世銀の奴らに、俺たちの『大嘘』を見破らせるな。
だが、島や結城たち技術畑の連中には、裏のことは一言も漏らすな。
あの連中の、一ミリの曇りもない『純白の真実』こそが、ワシントンの狐どもを騙す最大の武器になる」
「……」
鷹見は低く応じ、ポケットの中で傷だらけの手を固く握りしめた。
翌朝、国鉄庁舎の技術局設計課。
そこには、少ない予算であるにも関わらず、総裁室の重苦しい政治の泥など一滴も届かない、
「技術を信じる光」
の空間が広がっていた。
「見てください、鷹見さん! 鴨宮のモデル線区に搬入される、試作車の超軽量台車の図面です!」
「予算の壁なんて、知恵と技術で突破してみせます!」
東大卒の女性技術官僚・結城樺恋は、銀縁眼鏡の奥の瞳を輝かせ、大きな製図板の上に広げられた青写真を指し示した。
細身で色白の彼女の指先は、徹夜の連続であるはずなのに、一点の澱みもなく生き生きと動いている。
「島技師長の計算通り、バネ下の重量をここまで削れば、時速二百キロの世界でもレールへの衝撃を完璧に抑え込めます。
世界一安全な、夢の超特急が本当に形になるんです!」
その純真な熱意と、一切の邪気のない笑顔。
香坂を救えなかったことで、自らを陰惨な怪物だと自覚している鷹見にとって、彼女の眩しさは胸を切り裂かれるほどに痛かった。
「見事な図面だ、結城。
……だが、明後日から始まる世界銀行の査察に向けて、総裁室から君たち技術局に、一つだけ重要な方針を伝えておく」
鷹見は感情を完璧に押し殺した、冷徹な事務官僚の顔で言った。
「世銀の査察官たちの前では、この列車を『世界最速の旅客超特急』としてアピールしてはならない」
「え……?」
樺恋は、呆然としたように眼鏡の位置を直した。
技師長の島秀雄も、デスクから怪訝そうな顔をこちらへ向けた。
鷹見は、二人の純粋な技術者の視線を正面から受け止めながら、十河と共に周到に作り上げた「壮大な騙し絵」の台本を、静かに口にした。
「世界銀行が今、日本の高度経済成長において最も問題視しているのは、旅客の利便性ではない。
東海道本線の『貨物輸送のパンク』、つまり物流の麻痺だ。
……だから結城、君が世銀の前で行う英語のプレゼンでは、こう主張するんだ」
鷹見は、一文字ずつ刻みつけるように告げた。 「この新幹線は、昼は旅客を運び、夜間は大量のコンテナを高速でピストン輸送する『貨物新幹線の大動脈』である、と。
新技術のギャンブルではなく、物流を劇的に改善するため、新しく導入するのは『標準軌(広い線路の幅)』だけであり、それ以外の個々の技術(モーター、ブレーキ、信号システムなど)は、すでに日本の在来線で10年以上運用され、安全性が100%証明されているものである極めて堅実な経済対策なのだと、彼らに信じ込ませるんだ」
「貨物新幹線……」
樺恋はその言葉を口の中で反芻し、やがて、その知的な顔に納得の色を浮かべていった。
「なるほど素晴らしいです、鷹見さん! 昼の高速旅客だけでなく、夜間の貨物輸送まで網羅する複合大動脈……! 流石は総裁室です。
単なるスピードの追求ではなく、この国の経済の根幹を支えるための、これ以上ない合理的な設計ですね。
私、世銀の査察官たちが完全に納得するような、完璧な貨物運行シミュレーションを英語で作り上げます!」
彼女は、走らせる気など最初から毛頭ない「夜間貨物」という政治のポーズを、最先端の画期的なグランドデザインだと、100%純粋に信じ込んでしまったのだ。
「頼むよ、結城。君のその言葉が、この計画のすべてを決める」
鷹見は、心の底から優しい、しかしその実、内側が完璧にひび割れた笑顔で、純白の後輩を激励した。自らの手を血と泥で汚し、何も知らない技術者たちに「美しい真実」を演じさせる。
ワシントンからの黒船が横浜港へと近づく中、影の怪物は、世界を相手にした大博打の舞台の幕を、静かに上げるのだった。




