【ニ、金と知恵と技術】
このパンタグラフ問題は当時からありましたが、衝撃波は全く認知されていませんでした。
パンタグラフは架線の工夫と、パンタグラフの数の力技で解決したらしいのですが、ショートしないだけで、爆音とスパークはしばらくそのままだったそうです。
オリンピック決定後の国鉄本庁舎の技術局設計課。
「これでは走れん。
時速二百キロの世界を、永田町の連中はただの数字の遊びだと思っているのか」
島秀雄は、深夜の製図板の上に広げられた台車のモックアップを前に、苦り切った顔で老眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。
その横では、結城樺恋が幾重にも重なる計算用紙を抱え、痛々しいほどに唇を噛み締め、疲れ果てた目で立ち尽くしている。
当時、新幹線計画に課された技術的ハードルは、世界の鉄道史上、前例のない未知の領域だった。「時速二百キロを超えた瞬間に発生する、パンタグラフと架線の『微小離線(火花現象)』。
これが解決できなければ、モーターの電圧は一瞬でショートし、列車はただの鉄の塊と化す」
島は、武骨な指先で架線のバネ定数のグラフを叩いた。
「おまけに、これほどの巨体がトンネルに突入した際、内部の空気が一気に圧縮されて出口から凄まじい大音響の衝撃波(トンネル微気圧振動)が吹き出す。
周辺の民家の民意を考えれば、トンネルのフード設計を根底から変えねばならん。
……だが、総裁室から回ってくる予算は、私の要求した額の半分にも満たない。
上は、島、知恵で削れ、現場の安全対策を後回しにしろ、とそればかりだ」
「島技師長……、私がもう一度、総裁室の鷹見主事に掛け合ってきます」
樺恋が銀縁眼鏡のブリッジを押し上げ、決然と言いかけた時、部屋の重い扉が静かに開いた。
現れたのは、感情の消えた虚ろな瞳で、分厚い予算統制ファイルを抱えた鷹見遼であった。
「夜遅くまでご苦労様です、島技師長。
……結城、少し冷えたな。
庁舎の食堂で夜食にしないか」
鷹見の低く淡々とした誘いに、樺恋は一度島を見やり、それから鷹見の大きな背中を追って地下の薄暗い食堂へと向かった。
誰もいないガランとした食堂。二人の前に置かれたのは、冷めかけた安物の素うどんだった。
湯気の向こう側で、樺恋は我慢できずにうどんの箸を置き、大柄な先輩の横顔を睨み据えた。
「鷹見さん、なぜ技術局の要求予算をまた削ったんですか。
島技師長がどれほど胃を痛めて、時速二百キロの安全性を一ミリずつ削り出しているか、総裁室は分かっているはずです!
安全をケチるなんて、そんなの、世界一の鉄道を造る人間のすることじゃありません!」
樺恋の瞳には、一点の曇りもない純粋な正義の光が宿っていた。
鷹見は何も言わず、武骨な手で静かにうどんをすすり、それから感情の消えた事務官僚の目で樺恋を一瞥した。
「結城。予算というのは、感情で増減するものではないんだよ」
鷹見の声は低く、どこまでも冷徹だった。
「技術局の言い分はいつも理想論だ。
だが、この国鉄という組織は、国会から与えられた限られた枠組みの中でしか動けない。
島技師長がどれほど優れた技術を持っていようとも、予算の天井を超えた要求は、ただの『我が儘』なんだ。
これ以上の追加予算は、大蔵省の査定が絶対に許さない。
それが組織の現実だ」
「我が儘、ですか……!」
樺恋は息を呑み、一歩後退りした。
「安全対策を『我が儘』だなんて……! 鷹見さん、あなた、以前は誰よりも現場の人間を大事にしていたはずです。
それが、総裁室に上がった途端に、そんな大蔵省の顔色を窺うだけの、冷血な数字の奴隷になってしまったんですか!」
「そうだ」
鷹見は表情一つ変えず、淡々と冷めかけた汁をすすった。
「総裁室の仕事は、夢を見ることではなく、全体の勘定を合わせることだ。
お前たちの技術論だけでこの巨大な組織が回っていると思うなら、それはエリートの驕りだ。
……言いたいことがそれだけなら、部屋に戻って図面を修正しろ。
明日までに削られた予算枠に収まる設計変更書を出してもらう」
「……私は信じません。私たちは、島技師長の知恵だけで、大蔵省の数字の壁なんて超えてみせます。あなたみたいな冷酷な官僚には、絶対に負けません!」
樺恋は激しい侮蔑と落胆の目を鷹見に投げつけると、席を立ち、足早に地下食堂を去っていった。
そのパタパタという足音を背中で聞きながら、鷹見は箸を止め、ポケットの中で爪が肉に食い込むほど強く拳を握りしめた。
(……それでいい、結城。お前は俺を、冷血な出世頭の官僚だと思って、徹底的に軽蔑していろ)




