【八、弾丸の生贄】
川崎の夜の街。
雨を遮る色褪せたネオンの奥で、陣内厳は、子飼いとして動かしている大和新聞のライバル誌、東洋新報の遊軍記者・室井を静かに見つめていた。
「鷹見さんはあの頑固な記者を必死に庇って、情報を濁らせようとしてる。
だが、総裁のオヤジさんはあいつを『消したがってる』ぜ」
陣内は前髪の隙間から、冷たい光を放つ刃の柄を指先でなぞった。
「お前、大和新聞の香坂と同期だったな。
情報交換と称して、あいつを飲みに誘いだせ。……あとは、これだ」
陣内の細い指先から、小さな薬包が記者の手元へ滑り落ちた。
「……どうするかは…分かるよな」
美しくも冷たい微笑みうかべながら、陣内は室井に告げた。
数時間後、新橋の格式高い料亭の奥座敷。
香坂は、信頼している他社の同期記者である室井から
「お前が追ってる国鉄の裏予算の決定的な証言をしてもいいという人物がいる」
と呼び出され、勧められるまま、差し出されたお湯割りのグラスを、一寸の疑いもなく煽っていた。
その人物は遅れているようだが、国家を揺るがすスクープを前に、頼れる頑固者の目には焦燥と使命感が漲っていた。
「……すまない室井、少し、頭が……」
グラスが空になる頃、香坂は猛烈な眩暈に襲われ、そのまま畳の上へと崩れ落ちた。
意識が完全に途切れる寸前、同期記者の顔から一切の感情が消え、冷たい目で見下ろしてきたことだけが、香坂の網膜に焼き付いた。
翌朝。
香坂が国鉄の真の闇を社会へ告発の証拠が揃うはずだったまさにその日、世間のタブロイド紙の紙面に、目を疑うような見出しが躍った。
『大和新聞・香坂記者、新幹線反対派勢力からの巨額の賄賂・接待疑惑』
紙面には、高級料亭の奥で若い女性に抱き抱えられ、意識を失って醜態を晒している香坂の写真が不気味に掲載されていた。
陣内は、
「香坂が新幹線反対派を有利にするために、捏造された四千億の偽数字を掴んで国鉄を強請ろうとし、その見返りに巨額の接待と賄賂を受け取っていた」
という、完璧な収賄の構図へと仕立て上げたのだ。
真実を追っていたはずの香坂は、一瞬にして、世間から最も忌むべき「裏切り者」の悪徳記者へと叩き落とされる。
大和新聞の本社前。
押し寄せるマスコミのフラッシュと罵声の中で、停職処分を言い渡され、トレンチコートの襟を立てて出てきた香坂は、激しい怒りと絶望に顔を歪めて立ち尽くしていた。
「違う! あれは罠だ! 俺の掴んだ四千億が、本物の……!」
どれだけ叫ぼうとも、身内の大和新聞でさえ香坂を見捨て、世間は彼を容赦なく圧殺した。
深夜の川崎にある陣内の事務所へ踏み込んだ鷹見の顔は、鬼のそれだった。
凄まじい足音とともに扉が蹴り開けられ、事務所にいた若いヤクザたちが一斉にドスに手をかける。
だが、大柄な鷹見が放つ殺気に、誰も動くことができない。
鷹見はデスクに座っていた陣内へ一直線に歩み寄ると、その細い胸ぐらを鷲掴みにし、信じられない腕力で壁へと叩きつけた。
「陣内……! 誰の許可を得てこれをやった!」
地響きのような鷹見の怒号が、コンクリートの部屋に響き渡る。
掴まれた陣内の足が床から浮き、襟元が悲鳴をあげる。
しかし、陣内は苦しげに顔を歪めながらも、その色素の薄い瞳で鷹見を真っ直ぐに見つめ返し、不敵に笑った。
「……誰の許可って、兄貴、あんたの許可だよ」
「ふざけるな! 俺は香坂には手を出すなと言ったはずだ!」
「手を出すなと言って、身内を甘やかして、スクープを打たせる気だったのか?」
陣内は喉を鳴らして笑い、壁に押し付けられたまま冷酷な視線を鷹見に突き刺した。
「兄貴、あんたが一番よく分かってるはずだ。
あいつの記事が出れば世界銀行の融資は白紙、新幹線計画はすべて水泡に帰す。
国鉄のオヤジさんだって、あいつを消したがってた。
……あんたが親友を救おうと一瞬日和ったから、俺が代わりに手を汚してやったんだ。
感謝してほしいねぇ」
「黙れ!」
鷹見は陣内を床へと投げ飛ばした。
激しい衝撃音とともに、陣内は床を転がったが、すぐに髪をかき上げながら這い上がってくる。
その瞳には、かつての従順な猟犬の面影はなく、利権の味を覚えた怪物の狂気が宿っていた。
「これで香坂のペンは完璧にへし折られた。
新幹線は守られたんだ。
……兄貴、悪魔になるって決めたのはあんただろ。
今更、綺麗なままでいられると思うなよ」
陣内の嘲笑を背に、鷹見は逃げるように事務所を去った。
「……すまなかった」
散らかった居間で、鷹見は冴子の前に深く頭を下げ、声を震わせた。
大柄な背中が、今は酷く小さく見える。ポケットから取り出したのは、手配した、南米行きの船の切符だった。
「この国にはもう、あいつの居場所は無い。
頼む、冴子。
潤を連れて、遠くへ逃げてくれ。
俺のしたことは、どんなに責められても――」
「頭を上げてください、鷹見くん」
遮る冴子の声には、涙さえ枯れ果てたような、底冷えする冷徹さがあった。
「あなたは最初から、こうなることを知っていて、私を脅しに来たのね」
「違う、俺は……!」
「同じよ」
冴子は鷹見の手にある切符を一瞥すらせず、ただ窓の外の暗闇を見つめた。
その瞳には、かつて向けられていた温かみは一滴も残っていなかった。
「潤は、もうすべてを諦めました。
あの人のジャーナリストとしての命を奪い、心を殺したのは、ヤクザでも、新聞社でもない。あの大嘘の列車を守ろうとした、あなたよ。
……私は、あなたを絶対に許さない。
その切符の泥にまみれた施しを受けるくらいなら、私たちは私たちの意志で、どこへでも消えてみせます」
許しを請うことすら不遜であると突きつける拒絶。
鷹見は差し出した切符を握りしめ、言葉を失った。
奥の薄暗い寝室には、生気を失った目で虚空を見つめ、ただ静かな諦念をまとった香坂の影が横たわっていた。
親友はもう、鷹見と目を合わせることすら拒んでいた。
鷹見にできたのは、引き裂かれるような罪悪感のなか、拒絶された切符を置き去りにして、這うようにしてその家を立ち去ることだけだった。
雲の隙間から冷たい朝日が東京の街を照らし出した数日後。
国鉄庁舎の総裁室に戻った鷹見のもとに、一本の報告が入る。
香坂夫妻は、鷹見が置いていった切符には一切手を触れず、夜が明ける前に小さな荷物だけを持って、静かに横浜の家を引き払ったという。
大和新聞の籍も完全に消え、二人が日本のどこへ向かったのか、あるいは自力で海外へ渡ったのか、その足跡は完全に途絶えていた。
見送ることさえ許されず、親友と最愛の女性は、鷹見の人生から永遠に退場したのだった。
鷹見は、動かしていたペンを静かに置いた。
分厚い胸が、激しく上下する。
自分が香坂を救おうとした一瞬の迷いが、皮肉にも陣内という怪物の手綱を完全に切らし、親友の人生を完璧に狂わせた。
鷹見は何も言わず、ただデスクの上の、島秀雄が引いた「美しい図面」をじっと見つめ、ポケットの中で拳を壊れるほど強く握りしめた。
友の人生を、この世界一綺麗な列車の枕木にする。
鷹見の生真面目な顔から完全に光が消え去り、もう二度と引き返せない、真の影の怪物としての眼光が、暗がりのオフィスで静かに冴え渡っていくのだった。
(第2章・完)
Geminiさんが重くなってきましたよ。
どこまで行けるかなあ。
なんとか最後まで頑張りたい。




