【七、影のささやき】
島秀雄の妥協なき技術要求を満たし、他部署の職員まで駆り出した用地交渉を強行すればするほど、国鉄の金庫は目に見えて底を突きかけていた 。
切札である世界銀行からの融資も、未だ国会の承認を得ていない。
もしこのタイミングで、予算の歪みとあの地上げの現場が表に出れば、すべての交渉は白紙に戻る
それは、新幹線という計画そのものの死を意味していた。
その破滅への秒読みを刻むようにして、香坂潤の追及は、日を追うごとに鋭さを増していた。
すでにヤクザの陣内厳が仕掛けた裏の地上げ戦の成果は上がっていたが、それゆえに香坂の掴んだ尻尾は、より太く不気味なものになっていた。
「鷹見、大和新聞の香坂が、川崎の裏の動きや、偽予算ついて決定的な記録を掴んだという噂がある」
深夜の総裁室。
煙草の煙の向こうから、十河信二の低い声が響いた。
豪傑と呼ばれた老総裁の瞳には、戦後日本の未来を背負う者特有の、冷酷な光が宿っていた。
「国鉄の不正融資疑惑としてスクープを打つ構えだそうだ。……鷹見、あの男を止めろ。
国会を騙した大嘘が表に出れば、すべてが水の泡になる。
新幹線を走らせるためなら、俺はどんな悪名でも背負う。
……一人の記者を歴史の闇に消すことになろうともな」
オヤジの言葉の裏にある、一切の容赦のない「怪物の決断」。
しかし、鷹見は、その大きな身体を強張らせ、オヤジの目を真っ直ぐに見返した。
香坂は、かつて同じ焼け跡で未来を誓い合った、生涯にただ一人の親友だ。
「……オヤジ。あいつには、俺から話をします。
手出しはしないでください。
あいつは必ず、俺が止めてみせます」
鷹見の脳裏に浮かんだのは、計画の防衛ではなく、親友の身の安全だった。
このまま香坂が裏の深淵を暴けば、オヤジが、あるいは陣内が、あいつを本当に消し去りかねない。
鷹見は仕立ての悪いスーツの襟を立て、深夜の雨が叩きつける街へと、ひとり庁舎を後にした。
横浜の、閑静な住宅街。
雨を遮るもののない古い一軒家の前で、鷹見はその大きな身体を濡らしたまま立ち尽くしていた。
意を決して押し、静まり返った夜に響いたインターホンの音。
ドアが静かに開いた。
「……鷹見くん?」
そこにいたのは、香坂の妻であり、鷹見の学生時代からの想い人でもある冴子だった。
凛とした芯のある佇まいは昔のままだったが、その白い顔には、夫を支える日々の張り詰めた疲弊がうっすらと影を落としていた。
「連絡もせずにいきなり訪ねてすまない、驚いただろ冴子。潤は……」
「いいえ。もう三日も家に帰っていないわ。
国鉄の、何か大きな仕事を追いかけるんだって言って……」
冴子は不安げに胸元を抑え、大柄な鷹見の濡れた身体を見上げた。
「ねえ、鷹見くん、あなた今国鉄のプロジェクトに関わってるんでしょ、潤は一体、何をしているの? あなたなら、分かっているんでしょ?」
冴子の真っ直ぐな瞳を、鷹見は正面から直視することができなかった。
視線を落つと、玄関の灯りに照らされた彼女の細い肩が、かすかに震えているのが見える。
本当なら、すべてを打ち明けて彼女を安心させたかった。
だが、鷹見の武骨な横顔には、冷徹な国家の影が張り付いたままだった。
「冴子。潤を止めてくれ」
鷹見は低く、押し殺した声で告げた。
「あいつが、大和新聞に書こうとしている記事は、この国の未来を遅らせる。
そして……潤自身の人生も、二度と戻れない場所へ追いやることになる。
頼む、潤に伝えてくれ。ペンを置くように、と」
「鷹見くん、あなた、潤を脅しに来たの……?」
冴子の瞳に、怯えと深い拒絶の色が走った。
かつて誰よりも信頼していたはずの優しい鷹見の背中が、いまや巨大な国家の『非情』そのものに見えている。
その決定的な視線の冷たさに、鷹見はポケットの中で拳を強く握りしめた。
「……すまない」
鷹見はそれだけ言い残すと、冴子に背を向け、暗い雨の中へと歩き出した。
愛する女性にどんな目を向けられようとも、不器用な警告を残すことしか、いまの彼にはできなかった。
ーー鷹見がその場を去るまさにその瞬間、住宅街の暗がりに停まった黒い高級車の窓が、静かに開いた。
車内からその様子を、陣内巌の色素の薄い瞳が見つめていた。
記者を鷹見が必死に「庇おうとしている」その一瞬の滞りを、鋭利な刃物のような瞳は見逃さなかった。




