【五、漆黒の切札】
昭和三十五年の冬。
激しい夜雨が永田町の街灯を濡らすなか、大和新聞社会部記者・香坂潤は、参議院議員会館の裏口に停まった一台の黒塗りの車の後部座席に滑り込んだ。
座席の暗がりにいたのは、池田内閣の主流派を激しく揺るがそうと画策する、河野一郎派の論客代議士・大野であった。
「香坂君、大和新聞の社会部エースたる君に、国を揺るがす特級のネタを差し上げよう」
大野は不敵な笑みを浮かべ、コートの内側から一通の分厚い茶封筒を差し出した。
「国鉄の十河信二が国会に提出した新幹線の千七百億という予算、あれは真っ赤な大嘘だ。大蔵省の佐藤栄作と結託し、実際にはその倍の四千億がかかることを知りながら、過少申告の偽帳簿で国会をハメた。封筒の中身は、国鉄経理局の内部告発者が命がけで持ち出した『二重帳簿』の写しだ」
香坂は息を呑み、受け取った書類の数字を鋭い目で見つめた。
「国家が国会をハメて、四千億のギャンブルに血税を投じている……。大野先生、これだけのアキレス腱、なぜご自身の国会質問で使われないのですか」
「世界銀行の融資査察が近いからさ」
大野は色素の薄い目を細めて冷酷に笑った。
「政治家が表で騒げば、佐藤栄作の身内のスキャンダル揉み消しに潰される。
だが、大和新聞が朝刊の一面でぶち抜けば、ワシントンの査察団の耳に嫌でも入る。
世銀の融資が白紙になれば新幹線は頓挫、十河も佐藤も一発で失脚だ。……正義のペンで、この国家の詐欺を告発してくれたまえ」
それが、権力闘争の道具として自分に回ってきた泥まみれの切札であることは百も承知だった。
しかし、香坂のジャーナリストとしての背骨は、この国家規模の欺瞞を黙過することを許さなかった。
大蔵省の裏帳簿という「頭脳」を掴んだ香坂が次に向かったのは、ヤクザの陣内厳が血の地上げを進める、川崎の「肉体」の現場だった。
寒風が吹き荒れる川崎の泥濘む路地。
新駅予定地とされる古びた集落の一角で、香坂は煤けたトタン屋根の長屋に身を潜める、初老の職人から話を聞いていた。
男の額には、生々しい裂傷の痕が残っている。
「国鉄の人間が『国家のインフラのためだ、立ち退け』って言ってきた翌日からだよ、あの若いヤクザ(陣内組)どもが毎日毎日、夜中に押し寄せてくるようになったのは……」
男は震える手で吸い殻を灰皿に押し付けた。
「断ったら、夜中にガラス窓を叩き割られて、犬の死体を投げ込まれた。
警察に泣きついたって、『土地の売買交渉のもつれだろ』って相手にしてくれねぇ。
香坂さん、国鉄の偉い人たちが敷くあの綺麗なレールの下にはな、俺たちみたいな持たざる者の血と涙が、泥と一緒に固められてるんだよ……!」
国家の大義という「ひかり」の裏で、個人の尊厳がシステムと暴力によって圧殺されていく現実。
香坂は、取材メモを握りしめる指が怒りで白くなるのを感じていた。
そして、その利権の濁流の真ん中で、国鉄の「全権影の主事」としてすべての泥糸を引いているのが、誰あろう――生涯にただ一人、同じ焼け跡で未来を誓い合った親友の、鷹見遼なのだ。




