第四章 異邦人と村
悲鳴の方角に、俺は走った。
走りながら、自分でも何をやっているのか分からなかった。
爆発に巻き込まれて、見知らぬ森にいて、ゴブリンらしきものを倒した直後だ。
もっと冷静に、状況を確認するべきだった。
でも、悲鳴は、女のものだった。
現場で誰かが叫んだら、駆けつける。
それは、もう体に染み付いた習性だ。
樹々の間を抜けると、開けた街道に出た。
一台の幌馬車が横転していた。
車輪が外れている。
馬は逃げ去ったらしく、姿はない。
馬車を取り囲んでいたのは、ゴブリンが三体。
倒れた女性に、剣を振り上げているところだった。
考える前に、俺はハンマーを投げていた。
現場でスパッタを払う動作の癖で、回転が、よく効いた。
ハンマーは弧を描いて飛び、先頭のゴブリンの頭部にめり込んだ。
残りの二体が、こちらを向く。
俺は工具袋から、二本目のハンマー(小さめのもの)を抜き、左手にペンチを構えた。
ゴブリンの動きは速かったが、フォークリフトの真下に体を投げ出した経験がある俺にとっては、見えなくもない速さだった。
一体目の振り下ろしを、足の運びでかわす。
二体目の脇腹に、ペンチを叩き込む。
最後の一体は、こちらの様子に怯んで逃げた。
俺はしばらく、息を整えていた。
心臓が、ばくばく鳴っている。
異世界の戦闘というやつは、思っていたよりずっと、汗をかくものらしい。
「……あの、お礼、を……」
倒れていた女性が、震える声で起き上がろうとしていた。
俺は慌てて駆け寄った。
「動かないで。怪我、見せてください」
「は、はい」
女性は二十歳くらいに見えた。
茶色の髪を一つに束ね、簡素なワンピース。
腕に切り傷があったが、深くはない。
俺は工具袋から救急用の止血ガーゼを取り出した。
現場では、ちょっとした火傷や切り傷は日常茶飯事だ。応急処置の道具は、いつも持ち歩いている。
手早く処置をすると、女性は目を丸くした。
「あ、あなた、神官さま、ですか?」
「いえ、ただの……」
言いかけて、俺は口を結んだ。
ただの溶接工です、と言って通じる相手だろうか。
「ええと、職人です。ものを直す仕事をしています」
女性は深く頭を下げた。
「私はミナと申します。隣村のギルド職員です。商隊から外れて、急いで戻ろうとしていたところで……本当に、ありがとうございました」
「ギルド職員」
俺は鸚鵡返しに繰り返した。
なるほど、と思った。
冒険者ギルド、というやつか。
夜中に読んだ小説の知識が、ここで役に立つことになるとは思わなかった。
ミナは横転した馬車を見て、ため息をついた。
「車輪が、もう、これは……」
俺は屈み込んで、外れた車輪を確認した。
木製の車軸と鉄製の補強帯。継ぎ目はリベット止めだった。
壊れたのは、補強帯のリベットが緩んで、車軸を支えきれなくなったかららしい。
見ているうちに、俺の手は勝手に動いていた。
「これ、直せます。少し時間ください」
工具袋からスパナを取り出し、緩んだリベットを締め直す。
外れた帯を、ハンマーで形を整えながら、車軸に巻き付ける。
本当ならアーク溶接で固定したいところだが、機材がない。仮固定で持たせるしかない。
ミナはぽかんと口を開けて、俺の作業を見ていた。
「……あの、お時間、いいんでしょうか」
「ええ。森に一人で残されても困るので。村まで連れて行ってもらえると、助かります」
俺は手を動かしながら答えた。
車輪をはめ直し、軸の位置を確認し、軽く揺すって安定を見る。
三十分ほどで、馬車は応急で動く状態に戻った。
ミナは何度も瞬きをした。
「あなた、本当に、職人なんですか?」
「ええ、まあ」
「車輪を、その、何の道具もなしに、こんな短時間で……」
「道具はありますよ。最低限ですが」
俺は工具袋を軽く叩いた。
ミナはまだ信じきれない顔で、俺を見ていた。
日が傾く頃、俺たちは隣村に着いた。
ヴェントーラ、という名の小さな集落だった。
石造りの塀で囲まれ、中央に井戸広場がある。
住人は四十人ほど。皆、簡素な麻の服を着ていた。
ミナが村長らしき老人に、俺の話をした。
老人は俺をじろりと見て、それから深く頭を下げた。
「異邦人の旅人どの。村のミナを助けてくれた礼に、今夜は宿を提供させていただく」
「ありがたいです」
「ただし、申し訳ないが、贅沢はできない。今、村は水で困っておる」
老人は、井戸広場の方を顎で示した。
広場の中央に、石組みの井戸があった。
しかし、井戸の縁には、木製の取っ手のついた、奇妙な装置が据えられている。
ポンプ、らしかった。
ただ、見たことのない構造だった。
木と鉄を組み合わせた、原始的なもの。
そして、それが、明らかに、壊れていた。
「魔導機関、というやつでな。十年前まで、村に最高の水を汲み上げてくれていた」
老人はため息をついた。
「だが、結合師さまが王都に去って以来、誰も直せなくなっておる。今は子供たちが手押しで水を汲んでおるが、村の老人たちは、もう……」
結合師。
その単語に、俺の耳が反応した。
ミナも、はっとした顔で俺を見た。
「あの、村長」
ミナが恐る恐る言った。
「この方、馬車のリベットを、瞬く間に直したんです」
「リベットを?」
「ええ。森の中で、何の準備もなく」
老人の目が、俺の手に向けられた。
俺は反射的に、工具袋を肩にかけ直した。
「壊れたものを直すのは、一応、仕事です」
俺は、それだけ言った。
老人は何も言わず、ただ、ポンプの方を見た。
その横顔が、何かを期待していて、けれど期待することを自分に禁じている、そんな表情だった。
夕食の席で、俺は薄いスープと黒いパンを振る舞われた。
粗末なものだったが、温かかった。
食べながら、俺は窓越しに、井戸広場のポンプを見ていた。
明日、見せてもらおう、と思った。
壊れたものが、目の前にある。
俺は、それを直す職人だ。
その夜、宿屋の藁布団の上で、俺は手帳を開いた。
日付はもう、書けない。
ここの暦を、まだ知らないからだ。
俺はページの一番上に、こう書いた。
『異世界、一日目。ポンプを直す予定』
ボールペンの黒いインクが、紙の上で乾いていった。
窓の外、初めて見る二つの月が、銀色に輝いていた。




