第三章 爆発と暗闇の声
走る靴底が、グレーチングの上で乾いた音を立てる。
配管の盲端区画に向かって、俺は構内通路を駆けていた。
左右に立ち並ぶ巨大な円筒タンク。頭上を走る配管群。すべてが、これから加圧されようとしている。
予熱不足の継ぎ手。昨夜、園田が「俺がやっとくから」と言って、結局やらなかった区画。
冷えたままの母材に圧をかければ、内部に残った微細な水分が水素に分解され、金属組織を侵す。
遅れ破壊。
それが、水素割れの正体だ。
「園田!」
俺は無線で叫んだ。
肩のトランシーバーから、遅れて返事が来る。
「あー、芝山か。なんだよ」
「予熱不足の区画、加圧前に確認させてくれ。圧、いったん止めろ」
「無理無理、もう上がってる。今止めると工程遅れるじゃん」
「園田、頼む。本当にまずい」
「お前なあ」
無線越しの声が、笑っていた。
「お前のその、慎重ぶった感じ、いい加減やめろよ。誰が読んでるか分かんねえ手帳に、こそこそ書き溜めてんのも、気持ち悪いんだよ」
俺は走る足を止めなかった。
返事もしなかった。
通路の最奥、問題の継ぎ手が見えてきた。
ステンレス管の溶接部。フランジを介して二次系統につながる、脆弱な接合点。
俺は腰のサーモクレヨンを取り出し、配管表面に走らせた。
チョーク状の物質は、目標温度に達すると溶ける。
溶けない。
予熱、入っていない。
昨夜、園田が「俺が朝イチで」と言ったきり、忘れたか、面倒で省略したか。
「クソッ……」
俺は無線を握り直した。
「園田! 加圧、止めろ! 今すぐ!」
「うっせえって!」
その時、頭上の配管が、低く、不気味に唸った。
金属が応力を受けて軋む音。
ベテランの耳には、すぐに分かる。
来る。
俺は反射的に、近くの作業員を背中で押した。
「逃げろッ!」
声と同時に、世界が弾けた。
継ぎ手が裂け、内部の高圧流体が噴出した。
可燃性の蒸気。火花。連鎖。
白い光が視界を埋めた。
次の瞬間、衝撃波が俺の胸を直撃し、体は宙に投げ出された。
時間が、ゆっくりになる。
飛びながら、俺は妙に冷静だった。
ああ、と思った。
俺の溶接した区画は、たぶん、無事だ。
配管の継ぎ目、内側の裏波、あれは、絶対に裂けない。
それだけは、確信があった。
体が壁に叩きつけられ、視界が暗転した。
意識の最後で、自分の手帳のページが、ばらばらと風にめくれていく光景が見えた。
日付。電流値。層間温度。使用ロット。
誰にも読まれない記録。
でも、俺は書いていた。
その記録だけが、本当のことを知っている。
暗闇の底で、俺は浮いていた。
体の感覚はない。
痛みもない。
ただ、暗い。
遠くから、誰かの声がした。
女の声のようで、男の声のようで、誰のものでもない声。
『世界の裏側が、割れている』
声は、そう言った。
俺は答えなかった。
答えるための喉も口もなかった。
『あなたの手は、それを繋げる手だ』
声は続けた。
遠く、近く、よく聞き取れない。
『誰にも見えないところで、世界を支える者よ』
俺は、ふと、笑いそうになった。
誰にも見えないところで、世界を支える、か。
悪くない言葉だな、と思った。
俺の仕事を、そんなふうに言ってくれた人は、所長くらいしかいなかった。
『一度だけ、本当の仕事を見せてやれ』
声が遠ざかっていく。
俺の意識も、底へ底へと沈んでいく。
最後に思ったのは、手帳のことだった。
あの手帳は、無事だろうか。
爆発で、燃えてしまっただろうか。
頬に、何かが触れた。
冷たく、湿った感触。
草の匂いがした。
俺はゆっくりと目を開けた。
空が、見えた。
青い、深い、見たこともないほど澄んだ空だった。
雲のかたちが、地球のそれとは、どこか違う気がした。
体を起こす。
濡れた草の上に、俺は寝転がっていた。
着ているのは、現場用の作業着とヘルメット。腰の工具袋もある。
ただし、そこは、化学プラントではなかった。
深い、深い森だった。
見上げるほど高い樹々。
遠くで、聞き慣れない鳥の声が響いている。
「……ここ、どこだ」
声が、震えていた。
立ち上がると、軽い眩暈がした。
全身、目立った怪我はない。爆発に巻き込まれたとは思えないほど、無事だった。
工具袋を確認する。
ハンマー、スパナ、ノギス、ペンチ。予備のTIG用溶加棒、被覆アーク棒の小束。
そして、革表紙の手帳。
手帳は、無事だった。
俺は安堵の息を吐いた。
その時、背後の藪が、大きく揺れた。
俺は反射的に振り返った。
小柄な、緑色の生き物が、こちらを睨んでいた。
頭にぼろ布を巻き、手に錆びた短剣を持っている。
漫画でしか見たことのない、その姿。
ゴブリン、と呼ばれる存在に、似ていた。
俺は工具袋からハンマーを抜いた。
現場で何度も握ってきた、重いハンマー。
体は震えていたが、手だけは、勝手に動いた。
ゴブリンが飛びかかってくる。
俺はハンマーを真横に振り抜いた。
現実とは思えない、軽い手応え。
緑色の体が、藪に消えていく。
俺はハンマーを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
鳥の声が、戻ってきた。
何事もなかったかのように、森が静まり返っている。
「……夢、じゃないな、これ」
俺は呟いた。
工具袋を背負い直し、太陽の位置を確認する。
とりあえず、低い方へ降りるしかない。
川か、人里か、何かに辿り着けることを祈るしかない。
歩き出した俺の頭の中で、暗闇で聞いた声が、ぼんやりと響いていた。
『一度だけ、本当の仕事を見せてやれ』
本当の仕事、か。
俺の仕事は、誰にも見えない裏側だ。
ここに、その仕事を必要とする場所が、あるのだろうか。
森の奥から、人の悲鳴が聞こえてきたのは、それから三十分後のことだった。




