第二章 朝礼の刃
午前八時。
現場事務所前の広場に、作業員が円陣を組んでいた。
所長を中心に、ヘルメットを被った三十名ほどが集まっている。
俺は一番外側の列に立っていた。いつもの位置だ。
「今日の試運転、予定通り十時から開始する」
所長の声が広場に響く。
俺は耳を疑った。
通り、と言ったのか。
「ちょっと待ってください、所長」
声を発したのは、円陣の真ん中、所長のすぐそばに立っていた園田だった。
胸に「主任」の腕章。
主任といっても俺と同じ年次で、ただ昇進が早かっただけの男だ。
「予定通りで、間違いないですよね? 念のため、確認です」
園田は所長を見上げて、爽やかな笑みを浮かべている。
所長は怪訝そうな顔をした。
「お前、昨夜、前倒しだって言ってなかったか」
「いや、それは検討段階の話で、最終的には予定通りに落ち着きました。芝山が予熱不足を心配してたんで、念のため、ね」
俺は、目の前が暗くなる感覚を覚えた。
昨夜、園田は確かに「前倒しする、所長には報告済み」と言った。
俺はそれに対して「予熱不足だ」と進言した。
今、園田はそのやり取りを「前倒しを慎重派の芝山が止めたから、予定通りに戻した」という構図にすり替えている。
報告したのは自分の気配り、止めたのは自分の判断、という空気で。
「そうか。芝山、ご苦労」
所長は俺に目を向けて、頷いた。
俺は頭を下げた。
何も言えなかった。
いつもこうだ。
園田は俺の言葉を吸い上げて、自分の手柄に変換する。
俺はその変換を、黙って見ているしかない。
反論する言葉を持っていない。
TBM-KY活動が始まった。
危険予知活動。今日の作業に潜むリスクを、班ごとに洗い出す。
俺の班は、配管系統の試運転立会いだった。
「危険源は、火気、感電、酸欠、それから――」
俺は淡々と挙げていく。
誰も真剣には聞いていない。
毎朝の儀式だ。慣れてしまえば、形だけのものになる。
でも、形だけだからこそ、俺は丁寧にやる。
ヘルメットの顎紐をゆるめてないか、革手袋に穴は開いていないか、防塵マスクのフィルターは新品か、足元にケーブルは絡まっていないか。
すべて、過去に誰かが死んだから定められたルールだ。
ルールの背後には、必ず、誰かの血がある。
班員の若手が指差し呼称をする。
「予熱、確認、ヨシ!」
「シールドガス残量、ヨシ!」
「アース、確実、ヨシ!」
声は明るい。
俺は最後尾で、自分の手帳を開いていた。
昨夜、園田が前倒しを宣言した時刻。
俺が予熱不足を進言した内容。
園田が「だっせえ心配性」と笑った台詞。
すべて、書いてある。
日付と時刻つきで。
誰のために、と問われても答えられない。
ただ、書く。
書かないと、自分の存在が嘘になりそうな気がして。
活動が解散になり、各班が現場に散っていく。
俺がトイレに立ち寄った帰り、廊下の角を曲がろうとして、足を止めた。
「――芝山が予熱を確認してくれたからな、まあ、間違いはねえと思いますよ」
園田の声だった。
所長と話している。
「ま、あいつ、慎重なだけが取り柄ですから。技術自体はあれですけど、現場の安全には貢献してます」
「お前、よく見てるな。芝山のこと」
「同期ですから。あいつには、現場で頑張ってもらわないと困るんです、こっちも」
俺は壁に背を預けて、息を吐いた。
あれですけど、と園田は言った。
技術自体は、あれですけど、と。
胸の奥で、何かが冷たくなっていく。
それは怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ、知っているものだった。
もう何年も、何度も、味わってきた感情だ。
俺は廊下の角を曲がらず、別のルートで現場に戻った。
園田と顔を合わせたら、たぶん、何かが切れる。
現場に戻ると、班員の若手が俺を見て、駆け寄ってきた。
「芝山さん、聞いてくださいよ」
「どうした」
「園田主任、試運転の立会い、自分でやるって言い出してます。芝山さんを外せって」
「……なんで」
「『芝山は心配性すぎて、現場の士気が下がる』って」
若手は怒っていた。
俺は微笑んでみせた。
「いいよ、別に。試運転は園田の判断だ」
「でも、予熱不足の区画、芝山さん、把握してますよね」
「資料は園田に渡してある」
「あの人、たぶん、読んでないですよ」
若手はぼやいて、頭を抱えた。
俺は彼の肩を軽く叩いた。
「読んでなくても、書いた事実は残る。それでいい」
その時、十時を告げる構内放送が流れた。
試運転開始の合図だ。
俺は配管系統の図面を広げ、最も危険度の高い区画――昨夜、予熱が足りなかった継ぎ手のある場所――をもう一度確認した。
園田はすでに、試運転の立会い位置についている。指揮卓を任されたのが嬉しいのか、得意げな顔だ。
俺は図面を畳んで、立ち上がった。
胸騒ぎ、というには曖昧で、確信、というには根拠が薄い。
でも、何かが、ずっと喉に引っかかっている。
俺はヘルメットを締め直し、現場に向かった。
予熱不足の区画は、構内のいちばん奥、配管の盲端に近い場所にある。
歩きながら、俺は無意識に、手帳のページを指でなぞっていた。
十時三分。
俺が問題の区画に到達するより、ほんの少し早く、構内放送が告げた。
「ライン圧、上昇開始。予定圧まで、五分」
俺は走り出した。




