第一章 誰にも見えない裏側
配管の中は、静かだ。
遮光面の奥で、俺はフットスイッチを微かに踏み込む。アルゴンガスの噴出音と、アークの低く澄んだ唸り。母材と溶加棒のあわいに、銀色の池が生まれる。
溶融池。
数ミリメートルの、小さな、けれど世界でいちばん集中する点。
手元が一瞬でもブレれば、池は崩れる。崩れれば、配管の内側に「裏波」と呼ばれる滑らかな波模様は生まれない。
外側からは絶対に見えない、内側だけの仕事。
誰の目にも触れない場所に、俺は今夜も完璧な波を残している。
時計を見ると、午前二時を回っていた。
夜間作業の現場は、二日前から続いている。化学プラントの配管更新工事。元請けからは「明朝六時までに完了」と通達されていた。
俺は最後の一本に取りかかる。
ステンレス管の継ぎ目に、開先を整え、不純物を完全に除去し、内側にバックシールド用のアルゴンを充填する。空気が残っていれば裏波は酸化して「花が咲く」。検査で一発不合格になる。
誰も見ていない、誰にも分からない、そんな細部こそが品質を決める。
「芝山ぁ、まだやってんのかよ」
頭の上から、聞き慣れた声が降ってきた。
足場をぐらつかせる重い足音。同期の園田だ。
俺は溶接を中断せずに、頷きだけで返事をした。
園田はしゃがみ込んで、俺の手元を覗き込む。
「お前さあ、TIGとか時間かかる工法、いつまでやってんの。半自動でバーって走らせりゃいいじゃん」
「……配管内側だから、TIGじゃないと裏波が出ない」
「裏波。裏側ねえ」
園田は鼻で笑った。
「お前の仕事、いつも誰にも見えないとこだよな」
「……」
「裏方、好きだもんなあ、芝山は」
俺は遮光面の奥で、口を結んだ。
言い返したい言葉は、いくつもあった。
配管の内側が酸化していれば腐食が早まる。腐食が進めば応力集中で割れる。割れれば爆発する。だから裏波は重要だ。誰にも見えなくても、世界を支えている。
でも、それを言語化して伝える技術が、俺にはない。
黙って溶融池を見つめ、池を歩かせ続ける。
園田は退屈そうに立ち上がった。
「あ、そうそう。明日の試運転、現場朝礼後すぐに前倒しすっから。所長にはもう報告済み」
「……前倒し? 予熱が足りない区画あるぞ。冷間始動じゃ持たない」
「だっせえこと言うなよ。お前の溶接、完璧なんだろ?」
軽口の調子だった。
冗談みたいに、笑いながら、人の仕事の安全に関わる話をする。
俺はトーチの口を止めた。
「園田、それは、まずい」
「は? なんで」
「水分が残ってる可能性がある。低温で圧をかけたら、水素割れが」
「あー、はいはい。芝山の心配性、出ましたあ」
園田は背を向けて、足場を降りていった。
遠ざかる足音を聞きながら、俺は工具袋から手帳を取り出した。
黒い革表紙の、安物の手帳。
もう何冊目になるか分からない。
俺はそこに、毎日の作業を細かく記録している。
日付。気温。湿度。使用材料のロット番号。開先角度。電流値。電圧値。層間温度。シールドガスの流量。
すべての数値を、書き込む。
誰に求められたわけでもない。
会社の管理書類とは別に、俺個人の業務記録だ。
「読む人間なんて、いないけどな」
俺は呟いて、ボールペンを走らせた。
今日の作業の記録。そして、園田が試運転を前倒しすると宣言した時刻。予熱不足の区画があると、自分が進言したこと。
念のため、それも書いておいた。
手帳を閉じて、俺はもう一度トーチを握り直す。
最後の一本。
配管の内側に、誰にも見えない波を、もう一つだけ残しておく。
翌朝、現場に予告された災厄が、まだ来ていなかった頃のことである。
その日の作業を終えて、休憩所のベンチで缶コーヒーを飲んでいると、所長がやってきた。
四十代後半、白髪交じりの実直な男だ。
「芝山。お前、昨日の最後の継ぎ目、内視鏡検査で見たぞ」
「ああ、はい」
「裏波、完璧だったな」
所長は、それだけ言って、缶コーヒーをもう一本俺に差し出した。
ありがとうございます、と俺は小さく頭を下げた。
所長は缶を開けながら、独り言のように続けた。
「あれ、誰も見ねえぞ。配管の内側だぞ。次に開けるの、十年後の点検だぞ」
「……ええ」
「でもなあ、芝山。十年後にあれを見た奴は、絶対に思うぜ。『前にやった奴、いい仕事してたな』ってよ」
所長はそう言って、缶コーヒーを呷った。
俺は何も言えず、ただ自分の缶を握りしめていた。
胸の奥で、何かが、暖かく、重かった。
その夜、宿舎のベッドに横になりながら、俺は天井を見つめていた。
誰にも見えない仕事を続けて、十年だ。
手帳は何冊も溜まった。
給料は同期の園田より低い。立場も低い。
それでも、と俺は思う。
十年後に開けたとき、俺の溶接を見た誰かが「いい仕事だ」と思ってくれるなら、それでいいんじゃないか。
眠りに落ちる直前、俺はぼんやりと考えていた。
明日の試運転、本当に大丈夫だろうか、と。
夜半、悪い予感が、夢の中で渦を巻いていた。




