第二十一章 帰還
白い天井だった。
蛍光灯の冷たい光が、目に痛かった。
俺はゆっくりと目を開けた。
頬に、酸素マスクのゴム紐が当たっていた。
腕に点滴の針。
胸に心電図のパッド。
病院、らしかった。
「あ、目が覚めた」
誰かが小さく叫んだ。
白衣の若い看護師が慌てて、ナースコールを押した。
「先生! 芝山さん、目を覚ましました!」
俺は声を出そうとしたが、喉が乾いていて、うまく音にならなかった。
看護師がストロー付きのコップを、口元に運んでくれた。
水が喉を通った。
冷たかった。
数分後、白衣の医師が駆け込んできた。
俺の瞳孔を確認し、脈を測り、いくつかの簡単な質問をした。
「自分の名前、言えますか」
「……芝山、陽介」
「年齢は」
「三十、です」
「今日、何月何日か、分かりますか」
俺は口を開いて止まった。
答えられなかった。
頭の中で、最後に確認した日付は爆発の日だった。
あれからどれくらい経ったのか。
「分かり、ません」
「いいんですよ。落ち着いて」
医師は優しい声で言った。
「あなたは化学プラントの爆発事故で、ここに搬送されました。今日で三週間目です」
「三週間」
「ええ。意識が戻らなかった。脳に異常はありませんが、ストレス性の昏睡だと診断されました」
三週間。
俺は天井を見つめた。
体感ではヴェントーラから王都、辺境、世界の裏側まで、何ヶ月も過ごした感覚があった。
でも現実の世界では、たった三週間。
あれは夢だったのかもしれない。
いや、と俺は思い直した。
手の感覚に、あの溶接の重みが残っていた。
ルクレイアの体温も、ドガラム老人の鍛冶場の匂いも、ヴェントーラの井戸広場の風も、まだ覚えていた。
夢にしては鮮やかすぎる。
「あの、俺の荷物は」
俺は医師に尋ねた。
「事故現場で回収できたものは、こちらの棚に。工具袋はほぼ全壊でしたが」
「手帳は」
「手帳ですか? 確認しますね」
医師が棚を開けた。
血と泥にまみれた、革表紙の手帳がビニール袋に入って置かれていた。
「あったようです」
俺は震える手で、それを受け取った。
ビニールから出した。
革表紙は傷んでいたが、中身は無事だった。
ページをめくった。
爆発の日の作業記録。
その次のページから空白だった。
空白の、はずだった。
でも空白だと思っていたページの最後の方に、見覚えのない筆跡で何かが書かれていた。
俺は目をこすった。
もう一度見た。
文字は確かに、そこにあった。
しかし、その文字をすぐに読むことはできなかった。
涙が視界を滲ませていたからだ。
医師が静かに病室を出ていった。
俺はしばらく手帳を抱えていた。
二日後、所長が見舞いに来た。
現場用の作業着のまま、駆けつけてくれたらしい。
ヘルメットを脇に抱え、両手に缶コーヒーを二本、持っていた。
「芝山。よく戻った」
「所長」
俺はベッドの上で頭を下げた。
「すみません、ご迷惑おかけしました」
「いや、お前が無事で何よりだ」
所長は缶コーヒーを、ベッド横の机に置いた。
「実は、お前が寝てる間にいろいろあった」
「いろいろ」
「お前の溶接した区画、内視鏡で全部確認した」
所長は缶を開けた。
「裏波、完璧だったぞ。爆発の衝撃でも一ミリもずれてない。あれはたぶん、十年経っても二十年経っても、無傷のままだ」
俺は深く頷いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ」
所長は缶コーヒーを啜った。
彼の白髪混じりの頭が、蛍光灯の下で銀色に光った。
「芝山。一つお前に伝えておきたいことがある」
「はい」
「会社の方で聴聞会が開かれる。来週」
「聴聞会」
「ああ。爆発の原因究明だ。そこでお前にも、出席してもらう」
俺は頷いた。
「分かりました」
「ただ」
所長は言葉を選びながら続けた。
「園田が、お前のことをいろいろ言っている」
「想像はつきます」
「『芝山が予熱を省略した』『安全確認を怠った』『慎重さを欠いた現場運営をした』。そういう趣旨だ」
俺は缶コーヒーを見つめた。
胸の奥で、奇妙なほど感情が動かなかった。
一週間前なら、悔しさで震えただろう。
でも今はただ淡々と、聞いていた。
「所長」
「ああ」
「俺の手帳、知ってますか」
「ああ。お前が毎日書いてた、あの黒いやつだろう」
「あれ、無事でした。あの夜の作業記録、全部書いてあります」
俺はベッド横の引き出しを開けた。
手帳を取り出した。
「日付、時刻、電流値、層間温度、シールドガス流量、ロット番号、開先角度、すべて」
「すべて」
「それから、園田が前倒しを宣言した時刻、俺が予熱不足を進言した内容、園田の返答、彼が『前倒しは検討段階だった』と朝礼で言い直した瞬間、すべて書いてあります」
所長はしばらく、その手帳を見つめていた。
それから深く息を吐いた。
「お前、よく書いてたよなあ」
「はい」
「俺、何度か、お前が休憩中に書いてるの見てたよ。誰に頼まれたわけでもないのに、まめだなあ、と思ってた」
「習慣で」
「いや」
所長は首を振った。
「お前、たぶんずっと、自分の仕事を信じたかったんだろうな」
俺はしばらく、答えられなかった。
所長の言葉はいつも短かった。
短いけれどいつも、本質を突いていた。
「所長」
「ああ」
「聴聞会、出ます。手帳、持って」
「ああ。それがいい」
所長は缶コーヒーを飲み干した。
「俺もお前の弁護に回るからな。安心しろ」
「ありがとうございます」
「いや。俺はただ、事実を述べるだけだ」
所長は立ち上がった。
「あ、そうだ、もう一つ」
「はい」
「お前の溶接区画、爆発の後、内視鏡で撮影しといた。全箇所、写真もある」
所長はポケットから、写真の束を取り出した。
俺に差し出した。
「証拠だ。聴聞会で使え」
俺は写真を受け取った。
配管の内側。
俺が打った、滑らかな裏波。
誰にも見えなかったはずの内側の波が、写真の中で銀色に輝いていた。
涙が、また視界を滲ませた。
所長はそれを見ない振りをして、缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てた。
「じゃ、また来週な、芝山」
「はい」
「来週、現場で、待ってる」
所長が、出ていった。
俺は写真を胸に抱いた。
手帳を、その横に、置いた。
爆発で、すべてを、失ったかと、思っていた。
でも、失っていなかった。
俺の十年は、ちゃんと、ここに、残っていた。




