第二十章 裏波
俺は亀裂の根元に立った。
空間は暗かった。
頭上の光源はない。
ただ、銀色の脈が内部から淡く光を放っていた。
俺はヘルメットの遮光面を下ろした。
準備を始める。
亀裂部分の、徹底した清掃。
錆、酸化物、五百年分の堆積物を、ヤスリと回転式研削具で削り取る。
時間は惜しまない。
現場の段取り八分。下準備の質が、仕上がりの八割を決める。
削り終わった面に、不活性魔素を噴射する。
水素を完全に追い出すための、高温予熱。
火炎魔石を最大出力で、亀裂周辺に当てる。
二〇〇度、保持。
二五〇度、到達。
三〇〇度。
母材の温度を、現代日本の規格をはるかに超えた水準まで上げた。
古代の結合師たちが残した文献によれば、この巨大脈の母材は特殊な複合鋼。
通常の予熱では足りない。
予熱、完了。
雷魔石を複数、直列に接続。
通常の十倍の出力を得る。
俺はトーチを、亀裂の最深部に近づけた。
ここから先はただひたすら、ビードを走らせる。
二十メートル。
現代の現場でも、滅多に経験しない長さ。
しかも亀裂は表側だけでなく、裏側にも貫通していた。
外側から溶接しながら、裏側にも滑らかな波を形成する。
まさに配管溶接の、初層裏波形成。
俺が十年磨き続けた、その技術だけが、ここで意味を持つ。
「アーク、出します」
誰もいない空間で、俺はいつものように声に出した。
青白い光が爆ぜた。
溶融池が生まれた。
俺はトーチを、慎重に歩かせ始めた。
最初の一メートル。
二メートル。
三メートル。
手は震えなかった。
集中していた。
光と音と、池の挙動だけが、世界のすべてだった。
頭の中で、現代日本の配管現場の、夜の音が響いていた。
アルゴンガスの噴出音。
配管の中にぽたり、と落ちる結露の音。
遠くで所長がコーヒーを啜る音。
あの夜、俺は誰にも見られない場所で、完璧な裏波を打っていた。
今、世界の裏側で、同じ仕事をしている。
不思議だった。
現代日本の化学プラントの配管の中も、世界の裏側の巨大な金属脈も、俺にとっては同じ場所だった。
誰にも見られず、誰にも称賛されない、けれど世界を支える、職人の仕事。
五メートル、十メートル、十五メートル。
ビードは滑らかに連続していた。
層間温度を保ち続けながら、池を歩かせる。
二十メートル。
亀裂の終端、最後の一センチが塞がった。
俺はトーチを置いた。
冷却を待つ。
後熱処理を行う。
すべての応力をゆっくりと解放する。
時間がどれくらい経ったか、分からなかった。
ふと、空間全体が淡く揺れた。
銀色の脈が、低い音で唸った。
その唸りが地平線の彼方まで伝わっていく。
止まりかけていた世界の魔導機関の鼓動が、もう一度力強く戻ってきた。
完了、と俺は独り言で言った。
工具を片付け始めた。
いつも通り、最後の片付けが職人の仕事の、最後の仕事だ。
その時、目の前に銀色の光が立ち上がった。
光はゆっくりと人の形を取った。
半透明の、温かい光の人影。
古代の結合師、らしかった。
『ご苦労だった、後継の者よ』
声は頭の中に、直接響いた。
『お前の仕事を、我々は五百年待っていた』
俺はしばらく、その人影を見つめていた。
「俺の仕事を、見ていてくれましたか」
『ああ。見ていた』
「誰にも見えないと思っていました」
『誰にも見えぬ場所で世界を支える者を、我々は結合師と呼ぶ』
光の人影は、微笑んだように見えた。
『お前の世界に戻る時間だ』
「はい」
『お前の手を、お前の世界が必要としている』
「分かりました」
俺は頷いた。
『最後に、贈り物をしよう』
光が俺の体を包んだ。
温かい、優しい光だった。
『お前の手帳に、我々全員の名を記しておく。お前が二度と忘れぬよう、お前を見届けた者たちの名を』
俺の工具袋の中で、手帳が温かく震えた。
『そして、お前の世界の、お前の仕事を見ていなかった者たちにも、いつか、それが伝わるように』
光がゆっくりと消えていった。
俺は深く頭を下げた。
螺旋階段を登り始めた。
来た時よりずっと、軽い足取りだった。
地上に戻った時、ルクレイア、ミナ、エリス、ドガラムが、まだそこに立っていた。
「結合師どの!」
ルクレイアが駆け寄ってきた。
彼女は俺を抱きしめた。
「結合師どの……」
「ルクレイア様」
俺は彼女の背中を、軽く撫でた。
それから、腰に差したままだった聖剣を、そっと外した。
「これを、お返しします」
俺は聖剣を、ルクレイアの両手に戻した。
「世界の裏側で、確かに、結合師の手に、もう一度握られました。あとは、この世界の使い手であるあなたが、持つべきものです」
ルクレイアは聖剣を受け取り、胸に抱いた。
頷くことしかできなかったらしい。
その時、自分の体がわずかに透けていることに、気づいた。
「ああ……」
俺は苦笑した。
帰る時間が来たらしい。
ルクレイアもそれに気づいた。
彼女は一瞬、苦痛の表情を見せたが、すぐに頷いた。
「結合師どの」
「はい」
「あなたの仕事を、私たちは、千年、覚えています」
「俺も、あなた方を忘れません」
俺はルクレイアの頬に、軽く触れた。
「ありがとうございました。俺の仕事を、ちゃんと見ていてくれて」
ルクレイアの目から、涙が零れた。
俺はそれを、指で拭った。
ミナが深く頭を下げた。
エリスが神殿の祈りを捧げた。
ドガラム老人が俺に、深く敬礼した。
「結合師どの。最後にこれを」
ルクレイアが俺の手帳を差し出した。
夜のうちに彼女が、写しを取り終わったらしかった。
「あなたの記録は、神殿で千年保存します」
俺は頷いた。
手帳を胸に抱えた。
体がゆっくりと透けていく。
「皆さん」
俺は最後に言った。
「お元気で」
光が俺を包んだ。




