第十三章 地下牢の夜
王城地下牢は、石造りの、湿った空間だった。
光は、廊下の松明から漏れる、わずかな揺らぎだけ。
壁から染み出す水滴の音が、不規則に、闇を打っていた。
俺は鉄格子の中で、藁の上に座っていた。
手枷も、足枷もない。
ただ、出られない、という事実だけがあった。
頭の中で、園田の声が、繰り返し響いていた。
『お前のその、慎重ぶった感じ、いい加減やめろよ』
『誰が読んでるか分かんねえ手帳に、こそこそ書き溜めてんのも、気持ち悪いんだよ』
『お前の仕事、いつも誰にも見えないとこだよな』
俺は、目を閉じた。
異世界に来てから、ようやく、誰かが俺の仕事を見てくれた、と思った。
ヴェントーラの村人たち。
ドガラム。
ミナ。
ルクレイア。
王城の人々。
ほんの短い間だった。
その短い間に、俺は、誰かに頭を下げられ、誰かに「ありがとう」と言われた。
現代日本では、十年で、二、三度しか味わえなかったような感覚を、何度も味わった。
でも、それは、たぶん、夢だったのかもしれない。
目を覚ませば、また、園田に笑われる毎日が、続いていたのかもしれない。
『お前なんかに、できるわけねえだろ』
園田の声が、頭の中で、嘲笑していた。
俺は両手で顔を覆った。
涙は出なかった。
でも、何かが、胸の奥で、ゆっくりと、潰れていく感じがした。
夜半、廊下の方から、複数の足音が聞こえた。
看守と、誰かの会話。
しばらくして、鉄格子の前に、ルクレイアが現れた。
外套のフードを目深に被っていたが、声で分かった。
「結合師どの。少しだけ、時間があります」
「ルクレイア様」
俺は立ち上がった。
「面会は、危険ではありませんか」
「危険です。看守を、辺境伯家の伝手で買収しています。長くはいられません」
ルクレイアは鉄格子越しに、何かを差し出した。
俺の、手帳だった。
宿屋に置いてきたはずのものが、今、彼女の手にあった。
「ミナさんから預かりました。これ、あなたに必要でしょう」
「……ありがとうございます」
俺は手帳を受け取った。
革表紙が、しっとりと、汗で湿っていた。
「結合師どの。私の、お願いを聞いてください」
「何でしょう」
「あなたの過去の作業記録、すべて、私に貸してください。何冊ありますか」
俺は驚いた。
「過去の?」
「ええ。今回の聖剣修復だけでなく、ヴェントーラのポンプ、王城の試料、すべてです」
ルクレイアの目は、暗闇の中でも、強く光っていた。
「私は、証拠を集めています。あなたが日々、どれだけ精密な作業をしてきたか、どれだけの数値を残してきたか。それを王の前に提示します。あなたの仕事の連続性が、最大の証言になります」
「俺の手帳は、その、誰にも読まれないものです」
「読みます。私が、読みます。そして、王に読ませます」
俺は、手帳のページに、手を当てた。
現代日本では、十年間、誰にも読まれなかった記録だった。
異世界で、それを、読みたいと言ってくれる人がいる。
胸の奥で、何かが、温かくなった。
牢屋の冷たさの中で、その温かさだけが、俺を支えていた。
「分かりました。すべて、お渡しします」
ルクレイアは深く頷いた。
「結合師どの。もう一つ、お願いがあります」
「はい」
「あなたの記録の中で、特に、聖剣修復前後の保管庫換気孔に関する依頼書、その控えを、すぐに見せてください」
俺は手帳をめくった。
該当ページを開く。
依頼書の控え、副団長との会話の記録、修復後二十四時間の換気孔開放要請、俺の署名と日付。
全部、書いてある。
ルクレイアは、その控えを、しばらく見つめていた。
「これがあれば、あなたが事前に水素割れのリスクを認識し、宮廷魔導士団に対策を要請したことが、証明できます」
「でも、向こうの記録では、換気孔は開放されたことになっていますよね」
「ええ」
ルクレイアは、薄く、微笑んだ。
「ですが、宮廷魔導士団の保管庫管理は、彼らだけが行っているわけではないのです」
「と言いますと?」
「神殿が、別系統で、王城の保管庫の温湿度を、独立して計測しています。聖剣を含む宝物の保護のためです。これは宮廷魔導士団も知らない、神殿独自の記録です」
俺は、目を見開いた。
「神殿の記録……?」
「ええ。私の母方の従姉妹が、神殿のシスター長を務めています。正式な手続きで、開示を請求しました」
ルクレイアは、もう一枚の羊皮紙を、鉄格子越しに見せた。
神殿の温湿度記録。
保管庫内の、過去三日間の数値。
俺は震える手で、それを受け取った。
ページを目で追う。
修復後、保管庫の湿度は、夜半から朝にかけて、一気に九割を超えていた。
外気との換気が、行われていない数値だった。
決定的な、証拠だった。
「ルクレイア様」
俺は、声を絞り出した。
「あなたは、いつから、これを」
「あなたが宿屋に来た夜から、用意していました」
ルクレイアは、淡々と答えた。
「カルツェル団長は、昔から、自分の権威に固執する男です。聖剣修復が成功すれば、彼の立場は危うくなる。妨害してくる可能性は、最初から想定していました」
俺は手帳と、神殿の記録を、両手で抱えた。
「では、これで、俺は」
「いえ。まだです」
ルクレイアは、首を振った。
「これだけでは、保管庫の湿度が高かった、という事実しか証明できません。それを意図的に行ったのが誰か、その証拠がありません」
「誰が、命じたか」
「ええ。神殿の記録だけでは、犯人を特定できない。動機と、機会と、方法、その三つを揃える必要があります」
ルクレイアは、フードを深く被り直した。
「結合師どの。私は、神殿の記録を、明日の朝までに、もっと詳細に分析します。あなたの手帳と照らし合わせ、必ず、犯人を特定します」
「俺は、何をすればいいですか」
「待っていてください」
彼女は、優しい声で言った。
「あなたの仕事は、正しかった。それを、私が、必ず、証明します」
ルクレイアが去ったあと、俺は牢の中で、自分の手帳を、ゆっくりとめくった。
ヴェントーラのポンプ修理。
王城地下の試料修復。
聖剣修復の手順。
すべて、書いてある。
誰のためでもなく、自分のためでもなく、ただ、書いてきた。
その記録が、今、誰かに読まれようとしている。
俺は、手帳を、胸に抱いた。
園田の声は、もう、頭の中で響いていなかった。




