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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
9/25

7:見つめる

 その日は、風がなかった。

 香煙は揺れもせず、ただ細く、空気の中に立っていた。


 音の少ない日だった。小鳥の声も、葉擦れのざわめきも、どこか遠くで眠っている。


 ユエはいつも通り格子の外にいた。

 けれど、それは〝いつも通り〟ではなかった。沈黙が少しずつ溶けてきた日々のあとで、どうしても拭えない違和感が残っていた。


「なあ」


 ぽつりと漏れた声。

 香の間の奥に座す白影は、もちろん何も返さない。けれどその沈黙を、ユエはもう、ただの空白としては受け取れなくなっていた。


「お前って、どんな顔してる?」


 ふと、言葉になって落ちた疑問だった。

 なぜそんなことを聞いたのかも分からない。けれどあの夜に聞いた声と、巡行で見た静かすぎる〝モノ〟が、どうしても重ならなかった。

 それが無意識のうちに禁忌の縁へと指を伸ばす問いであることを、彼はまだ、言葉としては理解していなかった。


 香の奥では、まだ何も動かない。煙だけが、真っ直ぐに立ち昇っている。


「たまにさ、お前、集落の中歩くじゃん。森の祈り場に行くんだっつって」

「でもいっつも手引かれて歩いてくだけだし、顔に布被ってるし、ちゃんと見れたことないんだよなあ」


 言いながら、ユエは格子から視線を外した。まっすぐ向けてしまうと、続きを言えなくなりそうだった。


「……いや、別に見なきゃいけないってわけでもねえんだけどさ。その……声だけ聞いてるとさあ」


 言い訳をするように紡いだ言葉が、そこで止まる。その先、何をどう続ければいいのか、ユエ自身にも分からなかった。

 ふと、指先が格子に触れる。その瞬間、違和感が走った。


 ──木枠の一部が、緩んでいた。外れかかって、わずかな隙間ができている。そこから、微かに、香の間の中心が見えた気がした。


「……覗いたら」


 ひとりごとのように、低く。


「やっぱ、まずいよな?」


 何かを誤魔化すように、冗談めかして言う。

 けれど香の流れが妙に冷たく感じて、背筋に風が通った気がした。


 この先に、何か大きなものがある。それを越えてしまえば、もう後戻りできないことを、どこかで感じていた。

 分かっていた。それでも、足が止まらなかった。


 格子の隙間に、肩をすぼめて身体をねじ込む。木肌の冷たさに肩を撫でられながら、静かに身を通した。

 その先には、回廊の縁。人の気配は薄いが、完全に消えているわけではない。柱の向こう、どこかで板が鳴るかもしれない。角を曲がれば、見張りが立っているかもしれない。そんな想像が、足裏にまとわりつく。


 ユエは音を立てない歩き方で、そっと香の間の正面へと回り込んだ。

 集落の者なら近づこうとすら考えない場所。見てはいけない。近づいてはいけない。けれど今、その場所に、どうしても立ってみたかった。

 どうしても、見てみたい衝動を、抑えられなかった。


 音を殺し、息を潜めて、香の間の透格子をそっと少しだけ開けて覗き込む。


 その瞬間、香煙が揺れるよりも先に、気配が変わった。


 座したままの白い影が、かすかに震えた。

 呼吸がひとつ詰まり、空気の密度が変わった。


 織祀しきの唇が、動いた。


「……戻ってください。ここは、入っては……」


 抑えた声。

 けれど、その声音は、明らかに乱れていた。

 香の間の律が軋む。香が一瞬、うねるように波打った。


 織祀は、知っていた。彼が、禁域を越えたことを。この空間に〝他者〟が踏み込んできたことを。

 声に滲む恐怖は彼の喉を強張らせ、白の香衣の中で身体を凍らせる。


 ユエはその言葉に一瞬、我に返ったように息を短く吸う。

 自分が何をしようとしているのか、今になってようやく正気になったかのように。


 けれど、全ては遅かった。

 ユエは、もう、正面に立っていた。


 そして──見た。


 あの白布の奥、集落の誰にも見せられることのなかった〝それ〟が、今、自分の視界の中に、ある。


 香衣を纏い、広い香の間の中心に座す器の影。白い衣に包まれて、ようやく覗いたその顔は──


 想像していたよりも、ずっと、幼かった。


 これまで遠くから見ていた〝白い影〟とは違う。視線の先にいたのは、紛れもなく、ただの子供だった。

 背丈の小ささは知っていた。けれど、顔を見てはじめて、改めてユエは思ったのだ。


 ──自分よりも年下だ、と。


 言葉の重さも、空気の張りつめたやり取りも、その顔の幼さの前では、どこか噓めいて感じられた。


「……お前、ほんとに……子供、なんだな……」


 誰にともなく呟いて、ユエはそのまま、目を奪われた。


 白い衣に包まれた影が、かすかに揺れた。

 それは動こうとした震えではない。動いてはいけないと、必死に押し留めた結果の揺れだった。


 織祀は、目を閉じたままだった。迷うように瞼の下で、呼吸が一度、詰まる。

 香煙が、わずかに滞り、空気が重くなる。


 けれどやがて、ほんのわずかに。

 どこかに逃げ道を探すような遅れのあとで、織祀は──目を開けて、


 ユエへ、向けた。


 身体はほとんど動かない。けれど、確かにその瞳の先にはユエがいた。

 眼差しはゆっくりと揺れながら定まらず、わずかにずれる。空を掴むように彷徨いながら、なのにまっすぐに──ユエの位置を捉えようとしていた。


 ユエの喉が鳴る。声が出ない。

 胸がひどく高鳴って、息が浅くなる。


 ──ああ。


 そこでようやく腑に落ちた。

 この目は、見えていない。


 けれどそんなことは些末だった。香の間の空気が変わる。緊張の糸が弾ける音すら聞こえそうだった。


 それは〝見る〟ではない。

 だが〝見られることを許す〟という、確かな応答だった。


「……お前、いま……俺のこと、見てる?」


 震える声で、ようやく言葉を絞り出す。

 織祀は応えない。ただ、香煙がひとすじ、顔をなぞる。


 ややあってから。耐えきれなくなったように、織祀は静かに視線を外して目を閉じる。香の流れに沿って、どこでもないところへ。もとの空白へと還ろうとするように。

 ユエは、ふと引き返しかけて、そして言った。


「……ごめん、勝手に入って」


 今さらのような謝罪が、香の隙間を流れていく。

 瞼を閉じたまま、ためらうように、織祀がもう一度だけ口を開く。


「……見られて、よいものでは、ないのです」


 言い聞かせるような声だった。誰かにというより、自分自身へ向けた戒を確かめるように。

 それによって今、森に、律に何も起きなかったことが、まだどこか信じられないと戸惑いさえするように。


 ユエは、短く息を吸ってから答える。


「でも、見た。俺が勝手に、見た。……だから、お前のせいじゃない」


 風が、ようやく香を揺らす。

 煙がふわりと顔を包み、燭台の光の中でその輪郭を曖昧にした。


 そこでふと回廊の曲がり角の向こうで、木靴が板を踏みしめる、重い音がひとつ響く。

 一定の歩調。迷いのない足取り。まだこちらを捉えているわけではない。けれど、確実に近づいてくる気配だった。


「……ありがとな。すげえもん、見た気がする」


 囁くように言い残し、ユエは一歩、退く。

 香の間に音だけを置いて、静かに身を引こうとした、その背に──


「……あの」


 織祀の声が落ちた。


「……あなたの視線は、まっすぐで……やさしい。……けれど……」


 言葉は、最後まで形にならない。香煙がまた揺れ、輪郭がわずかに滲む。


 ユエは、振り返らなかった。

 振り返る余裕も時間も無かった。けれどそれ以上に、いま振り返れば、何かが壊れてしまいそうだった。

 足取りだけを早め、気配を殺したまま、来た道を辿る。ただ、心の中で、何度も繰り返した。


──見た。視られた。

──見られることを、拒まれなかった。



 香の間の奥では、織祀が瞼を閉じていた。


 ひとつの〝顔〟として、誰かの視線に触れてしまった。

 それは許されないことのはずなのに、空白の底にほんの少しだけ、色を落としていた。

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