7:見つめる
その日は、風がなかった。
香煙は揺れもせず、ただ細く、空気の中に立っていた。
音の少ない日だった。小鳥の声も、葉擦れのざわめきも、どこか遠くで眠っている。
ユエはいつも通り格子の外にいた。
けれど、それは〝いつも通り〟ではなかった。沈黙が少しずつ溶けてきた日々のあとで、どうしても拭えない違和感が残っていた。
「なあ」
ぽつりと漏れた声。
香の間の奥に座す白影は、もちろん何も返さない。けれどその沈黙を、ユエはもう、ただの空白としては受け取れなくなっていた。
「お前って、どんな顔してる?」
ふと、言葉になって落ちた疑問だった。
なぜそんなことを聞いたのかも分からない。けれどあの夜に聞いた声と、巡行で見た静かすぎる〝モノ〟が、どうしても重ならなかった。
それが無意識のうちに禁忌の縁へと指を伸ばす問いであることを、彼はまだ、言葉としては理解していなかった。
香の奥では、まだ何も動かない。煙だけが、真っ直ぐに立ち昇っている。
「たまにさ、お前、集落の中歩くじゃん。森の祈り場に行くんだっつって」
「でもいっつも手引かれて歩いてくだけだし、顔に布被ってるし、ちゃんと見れたことないんだよなあ」
言いながら、ユエは格子から視線を外した。まっすぐ向けてしまうと、続きを言えなくなりそうだった。
「……いや、別に見なきゃいけないってわけでもねえんだけどさ。その……声だけ聞いてるとさあ」
言い訳をするように紡いだ言葉が、そこで止まる。その先、何をどう続ければいいのか、ユエ自身にも分からなかった。
ふと、指先が格子に触れる。その瞬間、違和感が走った。
──木枠の一部が、緩んでいた。外れかかって、わずかな隙間ができている。そこから、微かに、香の間の中心が見えた気がした。
「……覗いたら」
ひとりごとのように、低く。
「やっぱ、まずいよな?」
何かを誤魔化すように、冗談めかして言う。
けれど香の流れが妙に冷たく感じて、背筋に風が通った気がした。
この先に、何か大きなものがある。それを越えてしまえば、もう後戻りできないことを、どこかで感じていた。
分かっていた。それでも、足が止まらなかった。
格子の隙間に、肩をすぼめて身体をねじ込む。木肌の冷たさに肩を撫でられながら、静かに身を通した。
その先には、回廊の縁。人の気配は薄いが、完全に消えているわけではない。柱の向こう、どこかで板が鳴るかもしれない。角を曲がれば、見張りが立っているかもしれない。そんな想像が、足裏にまとわりつく。
ユエは音を立てない歩き方で、そっと香の間の正面へと回り込んだ。
集落の者なら近づこうとすら考えない場所。見てはいけない。近づいてはいけない。けれど今、その場所に、どうしても立ってみたかった。
どうしても、見てみたい衝動を、抑えられなかった。
音を殺し、息を潜めて、香の間の透格子をそっと少しだけ開けて覗き込む。
その瞬間、香煙が揺れるよりも先に、気配が変わった。
座したままの白い影が、かすかに震えた。
呼吸がひとつ詰まり、空気の密度が変わった。
織祀の唇が、動いた。
「……戻ってください。ここは、入っては……」
抑えた声。
けれど、その声音は、明らかに乱れていた。
香の間の律が軋む。香が一瞬、うねるように波打った。
織祀は、知っていた。彼が、禁域を越えたことを。この空間に〝他者〟が踏み込んできたことを。
声に滲む恐怖は彼の喉を強張らせ、白の香衣の中で身体を凍らせる。
ユエはその言葉に一瞬、我に返ったように息を短く吸う。
自分が何をしようとしているのか、今になってようやく正気になったかのように。
けれど、全ては遅かった。
ユエは、もう、正面に立っていた。
そして──見た。
あの白布の奥、集落の誰にも見せられることのなかった〝それ〟が、今、自分の視界の中に、ある。
香衣を纏い、広い香の間の中心に座す器の影。白い衣に包まれて、ようやく覗いたその顔は──
想像していたよりも、ずっと、幼かった。
これまで遠くから見ていた〝白い影〟とは違う。視線の先にいたのは、紛れもなく、ただの子供だった。
背丈の小ささは知っていた。けれど、顔を見てはじめて、改めてユエは思ったのだ。
──自分よりも年下だ、と。
言葉の重さも、空気の張りつめたやり取りも、その顔の幼さの前では、どこか噓めいて感じられた。
「……お前、ほんとに……子供、なんだな……」
誰にともなく呟いて、ユエはそのまま、目を奪われた。
白い衣に包まれた影が、かすかに揺れた。
それは動こうとした震えではない。動いてはいけないと、必死に押し留めた結果の揺れだった。
織祀は、目を閉じたままだった。迷うように瞼の下で、呼吸が一度、詰まる。
香煙が、わずかに滞り、空気が重くなる。
けれどやがて、ほんのわずかに。
どこかに逃げ道を探すような遅れのあとで、織祀は──目を開けて、
ユエへ、向けた。
身体はほとんど動かない。けれど、確かにその瞳の先にはユエがいた。
眼差しはゆっくりと揺れながら定まらず、わずかにずれる。空を掴むように彷徨いながら、なのにまっすぐに──ユエの位置を捉えようとしていた。
ユエの喉が鳴る。声が出ない。
胸がひどく高鳴って、息が浅くなる。
──ああ。
そこでようやく腑に落ちた。
この目は、見えていない。
けれどそんなことは些末だった。香の間の空気が変わる。緊張の糸が弾ける音すら聞こえそうだった。
それは〝見る〟ではない。
だが〝見られることを許す〟という、確かな応答だった。
「……お前、いま……俺のこと、見てる?」
震える声で、ようやく言葉を絞り出す。
織祀は応えない。ただ、香煙がひとすじ、顔をなぞる。
ややあってから。耐えきれなくなったように、織祀は静かに視線を外して目を閉じる。香の流れに沿って、どこでもないところへ。もとの空白へと還ろうとするように。
ユエは、ふと引き返しかけて、そして言った。
「……ごめん、勝手に入って」
今さらのような謝罪が、香の隙間を流れていく。
瞼を閉じたまま、ためらうように、織祀がもう一度だけ口を開く。
「……見られて、よいものでは、ないのです」
言い聞かせるような声だった。誰かにというより、自分自身へ向けた戒を確かめるように。
それによって今、森に、律に何も起きなかったことが、まだどこか信じられないと戸惑いさえするように。
ユエは、短く息を吸ってから答える。
「でも、見た。俺が勝手に、見た。……だから、お前のせいじゃない」
風が、ようやく香を揺らす。
煙がふわりと顔を包み、燭台の光の中でその輪郭を曖昧にした。
そこでふと回廊の曲がり角の向こうで、木靴が板を踏みしめる、重い音がひとつ響く。
一定の歩調。迷いのない足取り。まだこちらを捉えているわけではない。けれど、確実に近づいてくる気配だった。
「……ありがとな。すげえもん、見た気がする」
囁くように言い残し、ユエは一歩、退く。
香の間に音だけを置いて、静かに身を引こうとした、その背に──
「……あの」
織祀の声が落ちた。
「……あなたの視線は、まっすぐで……やさしい。……けれど……」
言葉は、最後まで形にならない。香煙がまた揺れ、輪郭がわずかに滲む。
ユエは、振り返らなかった。
振り返る余裕も時間も無かった。けれどそれ以上に、いま振り返れば、何かが壊れてしまいそうだった。
足取りだけを早め、気配を殺したまま、来た道を辿る。ただ、心の中で、何度も繰り返した。
──見た。視られた。
──見られることを、拒まれなかった。
香の間の奥では、織祀が瞼を閉じていた。
ひとつの〝顔〟として、誰かの視線に触れてしまった。
それは許されないことのはずなのに、空白の底にほんの少しだけ、色を落としていた。





