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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
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6.5:森の祈り ―静謐の巡行

 朝の霧は、まだ森の屋根に沈んでいた。

 その静けさを切るように、森殿から鐘が鳴る。


 遠くの方で、風を切る旗の音がした。

 その合図を受けて、家々の戸が、静かに、けれど一斉に軋みを上げる。


 誰も言葉は発しない。

 小さな香台に火を灯し、仄かに香をくゆらせた老人が、手を合わせる。隣家の母親は、まだ眠そうな子を腕に抱きながら、伏し目がちに戸口に立っていた。


 人々の間には、「音を立てるな」という命令があるわけではない。けれど、この朝ばかりは、皆がそうした。

 そうすべきだと、知っているかのように。


 ──今日は、「巡りの日」だった。


 やがて、香の流れに先導されるように、白い衣の行列が現れた。

 森殿から、香の道が一本、まっすぐに集落を貫いている。

 その道を、音もなく歩いてくるのだ。


 先頭に二人、白旗を掲げた者。殿にも同じく二人の旗持ち。その間に香炉を持つ者、布を持つ者、水差しを抱える者に、それを取り囲むように歩む護衛。

 十数人で構成されたそれは、すべて真っ白だった。


 そして中央、ひときわ小さく白く──

 まるで、光に包まれているような、ただの〝影〟。


 それが、織祀しきだった。


 身に纏うのは、白の香衣。

 地を踏むのは素足で、額から垂れた白布が顔を覆い、ただ無言のまま歩く。


 その右手は、付き人の手に静かに導かれていた。

 付き人は織祀よりも半歩先を歩きながら、香の流れに従い、まるで風の導きを読むかのように、ためらいなく歩みを進めている。


 織祀はただ、その手に沿って、静かに歩いていた。


 その姿に、誰もが目を逸らす。

 それは「見るな」と命じられていたからではない。「見てはならぬ」と、そう信じていたからだった。


 織祀の身体は、律を通す器。

 香の道を踏みしめるその歩みは、この地の律を整えるためのもの。

 だから、彼の歩みは祝福であり、祈りそのものだった。


 ──音が、変わった。


 誰かが、そう思った。

 誰も言葉にはしなかった。

 けれど確かに、空気の張りつめ方が変わった気がした。


 風が流れ、香が揺れる。

 その中に在る者の足取りは、まるで地の奥から律を汲み上げているようだった。


 いつもなら朝のざわめきに満ちるこの通りも、今日は音ひとつなかった。誰もが沈黙を保ったまま、ただ白布の〝その者〟が通り過ぎるのを見守る。


 そして、白い影が目の前を通り過ぎたあと──

 ひとりの老婦が、ぽつりとつぶやいた。


「……森が、呼吸しておる」


 それはただの気のせいかもしれなかった。

 けれど、たしかに、香の流れが柔らかくなった気がした。


 空気がひと息、深く吐かれたような、そんな錯覚の中で、白の列はゆるやかに森の奥へと消えていった。


 それは「整える」ための巡り。

 律を通し、森の〝歪み〟を鎮めるための祈り──

 誰にも、声で語られることはないけれど、集落の誰もが、その意味を知っていた。



***



 列の先が通りに差しかかる頃には、もう、通りの端という端は人で埋まっていた。

 家の影、木の下、低い石垣の上。背の高い者たちは、幼い者に席を譲り、年老いた者たちは、ひときわ静かに目を閉じていた。


 そのいちばん後ろの、まだ朝靄の残る石段の上に、ユエは立っていた。

 人垣の隙間から前を見ようとしても、背の低さではほとんど見えない。けれど、香の流れとともに近づいてくる白の列だけは、かすかに捉えられた。


 ──あれが。


 白い影が、遠くから歩いてくる。

 ぴたりと揃った旗持ちの歩幅と、付き人たちの行列の真ん中の白──

 その中央の者は、付き人に手を引かれて、ほんの少しだけ遅れて進んでいた。


 顔が、見えない。


 額から長く垂れた白布が、揺れもせずにそこに在った。

 風はたしかに吹いているのに、あの布だけは、まるで〝動かない〟。


 ──あいつが……織祀。


 ユエは、ぐっと目を凝らした。


 巡行自体は、ユエも何度も目にしている。だいたい数ヶ月に一度、北の森殿からまっすぐ集落を貫く大通りを通って、南の森にある祈り場へ向かう儀式だ。

 集落の者が織祀の姿を見ることができるのは、ユエのように妙な手を使わないのであれば、これが唯一の機会だった。


 だから、ユエも別に──織祀の全身を見るのは、これが初めてというわけではない。

 ……初めてではないのに、今日のユエは、いつにもましてその行列から目を離せずにいた。


 ──あれが、喋った。


 胸の奥に残った音を、ユエは息と一緒に、もう一度なぞるように確かめた。


 今、あれは、動いてるようで、止まっているようにも見える。

 歩いているのに、〝風景〟のようだった。

 生きものっぽくない。音も気配もない。

 ただ白く、ただ静かに、ただ……〝在る〟。


 けれど確かに、あの夜、あの声があった。

 何かを確かめるように。香の層すら乱さぬように、震えを押し殺しながら、そっと。


 なんだこれ、と思う。

 思ったけれど、口には出さなかった。

 いつもなら何か言ってやるのに、今日はなぜか、それができなかった。


 あの布の下にあるのは、ただの白ではない。

 震えて、怯えて、それでも自分を助けてくれて、……〝変だ〟と言った、ひとりの少年の姿があるはずだった。


 なのに、そんな儚い記憶をすべて塗りつぶすように、純白と静謐の薄布を被って、それは音もなく進んでいく。


 何かを言おうとした言葉が、喉の奥で消える。

 周囲の空気があまりに張り詰めていて、ただ立っているだけでも息がつまる。

 それでもユエの目は、白布の奥にあるはずの顔を、ずっと探していた。


 やがて、列の中央が、ほんの少しだけこちらを向いた気がした。


 いや、そんなはずはない。

 あの布の向こうに本当に顔があるのかどうかも分からない程、その姿は遠く、隠されている。


 でも──


 ──見られた気が、した。


 一瞬、息が詰まった。

 けれどそのすぐ後、香の流れがふっと変わった気がして、肩の力が抜ける。


「……今の」


 思わず呟いた声は、小さすぎて誰にも聞かれなかった。

 白の行列は、香の道に沿って、ゆるやかに、音もなく、集落の奥へと去っていく。


 その背が森に溶けていくまで、ユエは一歩も動けなかった。



 ***



 森の奥、祈祷場はひらけていた。

 梢の合間からこぼれる光は白く、風は香の衣を撫で、すぐに遠ざかる。

 付き人の手が織祀の白布に触れ、額からそっと外す。


 織祀は、目を閉じたまま、微動だにしない。布を取られたところでその表情は動かず、ただ、風と香の中に在る。


 祈祷場の中央に、大きな平たい岩があった。

 その岩の上に、付き人たちが音もなく布を敷き、香炉を並べ、供物としての水を置く。


 香炉から仄かに煙が立つ。


 付き人が織祀の手を取る。岩の縁へと導き、そっと触れさせる。

 その手が離れたのを感じてから、織祀は静かに膝を折り、岩の上へと座す。

 正座し、背筋を正し、香を深く吸いこむ。


 言葉ではない、祈りが始まる。


 語るのではない。

 ただ、森の底に耳を澄ます。

 そこにある律を、通す。


 身体という〝空白〟の濾し器を通って、風が巡るのを感じる。

 音も、光も、意思も持たない〝それ〟が、森の隅々へと静かに満ちていく。


 ──澄んでいく。


 澱みのように溜まっていた森の歪みが、少しずつ、静かに、消えていく。

 音が整い、香がやわらかくなる。

 風は、かつてそうであった場所を撫で、再びそう在るように律す。


 名を持たないわたしの、語らぬこのからだを通して、森がまた、息をする。


 時間の感覚はなかった。

 香の熱も、風の冷たさも、もう織祀の中にはなかった。

 ただ、律だけが、あった。


「…………」


 祈りが、終わった。


 風がわずかに音を持ち、香が祈りの残り香として広がりはじめる。

 付き人がそっと戻ってくる気配がある。

 織祀の傍らに膝をつき、静かに手を添えると、織祀は導かれるまま、ゆっくりと立ちあがった。


 そしてもう一度、付き人が白布を手に取り、額に垂らす。布が風に揺れかけ、すぐに静かに落ち着いた。


 律は、通った。

 香は、澄んだ。

 森は──整った。

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