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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
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19:紙片の夜 ③

 レフは、足元の草を踏む音を立てぬよう、一歩だけ前に出た。

 そして、言った。


「……織祀さま。参りましょう」


 そっと、織祀の方へと手を伸ばす。だが、今度は無理やり手を取ることはしなかった。

 そのままユエの方を見る。


「……もし、今後──〝何か〟をするならば」


 ぽつりと呟くような声。

 その声は静かで、どこまでも淡々としていた。


「夜の一刻から二刻、それから昼下がりの八刻と九刻。……その時間が、私の巡回です」

「それ以外は、他の者が見ています」


 一拍。


「……以上です」


 ユエはぽかんと目を見開いている。織祀も、何を言われているのか分からず、ただ微かに顔を上げた。


 空気が、少しだけ、変わった。

 風が、ふっと頬を撫でる。

 月の光が一瞬だけ翳り、また戻ってきた。

 遠くで梟が鳴く声がする。



 夜は、まだ終わらない。

 けれど、世界の全てがこの夜を終わらせようとしていた。


 織祀は、レフのその手を受け取って良いのかどうか、ほんのわずか、ためらっていた。

 だが数秒ののち、彼はそっと、指を重ねた。幼いその指が、静かにレフの掌の中に収まる。


 ユエはもう何も言わなかった。ただ、その場に立ったまま、じっと見ていた。

 レフは、そっと織祀の背に手を添える。


「裏手から戻りましょう。……誰にも、気づかれぬように」


 その声もまた、ただ静かだった。レフはそのまま一礼もせず、踵を返す。

 織祀の手を引いて、夜の小径を戻っていった。


 ──香の間へ。

 けれど今夜は、誰にも見られぬよう、裏手から。


 音は無かった。織祀の素足と、レフの足音。ただそれだけが、夜の律の中に紛れていった。


 香の間の裏戸を開く。レフは織祀の手をそっと引き、振り返らずに言った。


「……明朝、静謐の間の支度をいたします」


 織祀は頷きもしなかった。器は答えてはいけない。ただ何の動揺もなく、それを受け入れた。

 あれだけの逸脱を犯して、静謐の間送りで済むのが奇跡のようなものだった。


 けれど、レフの言葉はそれで終わらなかった。

 一瞬だけ何かを考えるように間があいて──


「……〝世界〟は、美しかったですか」


 織祀の目が、わずかに揺れる。


「……よいご友人が、できましたね」


 その声は、かすかに柔らかかった。


 織祀は、困惑していた。

 それに答えて良いのかどうか、分からなかった。

 逸脱になるのか。

 それとも、これは問いですらないのか。


 迷いの末、織祀は──


「……はい」


 小さく応えた。

 それは、囁きのような肯定だった。


 レフはそれ以上何も言わなかった。

 織祀を元の敷布に導き、彼が座すのを見届けると、いつもの儀礼的な礼をして、そのまま立ち去った。


 香の間に、またいつもの静寂が戻る。

 けれど、その夜の空気は、どこか違っていた。



 翌朝。

 織祀は、静謐の間へ導かれた。

 誰とも話さず、誰とも目を合わさず。心を鎮める幽柏香と、極度の無音に沈められる。

 けれどその無音は、もう彼を傷つけなかった。


 ──壊れて然るべきだったのに、壊れなかった世界。

 誰も声を上げなかった。

 誰も否定しなかった。


 昼の八刻と、夜の一刻。

 それは、制度の裂け目に差し込まれた、小さな紙片のようだった。

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