19:紙片の夜 ②
月光が、翳る。
その足音を聴いた瞬間、織祀は動けなくなっていた。小さな肩がびくりと震え、そのまま、息を呑んだように沈黙する。
空気の震えと、香の揺れと、あの足の重さ。それだけで誰が来たのか、織祀には分かってしまった。
(レフ──)
心臓の音が、自分の中だけで反響する。耳を向ける方向も定まらず、ただ宙を彷徨うばかり。
ユエの袖を握っていた手が、そっと離れた。
何かに触れていてはいけない。
咄嗟の反応だった。
両手は体の脇に戻り、力がこもる。掌が湿っている。脈打つ感覚が、掌からもこぼれている。
足は、動かない。息も、うまく吸えない。呼吸は浅く、喉の奥で震えている。
何も語らぬ沈黙の中で、織祀はただ、立ちすくんでいた。
──動いてはいけない。
──語ってはいけない。
──律を、乱してはならない。
そのすべてが、今まさに破られているというのに。
けれど、森は静かだった。香も、風も、揺れてはいなかった。
──まるで、見守っているようにすら、感じられた。
そう思ったことすら、逸脱なのだと分かっている。
だが、それでも、
(なぜ……)
わたしは、
なぜ、まだ──
だって、世界は、壊れていない。
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***
風が、そよいだ。
森の気配の中で、織祀が微かに身じろいだ。それがきっかけだったかもしれない。
その小さな震えに弾かれたように、レフは、ようやく口を開いた。
「織祀、さま……」
「なぜ……こんな、こと……」
掠れた声だった。断片しか出てこない。頭の中でまだ何かが軋むように混乱していた。
「いけません、即刻──お戻りを」
「戻らなければ……香が……律が……」
手が伸びる。
その所作には、普段の静謐な導きの面影はなかった。衝動的に、織祀の手首を掴み、ぐいと引く。
その手に、織祀は抵抗しなかった。目を伏せたまま、無言で従おうとする。わずかに硬直したまま、ただその方向へ身を傾ける。
口は閉ざされたまま。顔に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもない。ただ、緊張と、諦めに満ちた、無表情。
──その動きに、ユエが割って入った。
「いや、ちょっと、待てよ」
レフの手を叩き落とし、そのまま前に出る。その動きは鋭く、ためらいがなかった。
「あんた、シキの付き人だよな?」
「……あのさあ。俺、ずっと言ってやりたかったんだけど」
「……なんで、こんなちょっと外に出ただけで、そんな真っ青になってんだよ」
声は怒りと戸惑いに震えていた。先程からのレフの言葉は断片的だったが、その沈黙──織祀の反応を見れば、何が起きたのかは分かる。
ユエはそのまま畳み掛けた。
「お前ら、おかしいんじゃねえか」
「普通に歩いた。誰かと喋って、笑った。それだけで何が〝壊れる〟んだよ」
睨みつけるようにレフを見上げる。
「お前らさ──こいつをなんだと思ってんだよ」
「器、器って、モノか? 律を通すためだけの道具かよ」
織祀の方を向く。
「……子供だぞ」
「俺よりも、小さくて、細くて──たったひとりじゃ歩けもしない、子供なんだぞ」
その声は、今度は低く、確かな響きを持っていた。
「見ちゃいけねえ、聞いてもいけねえ、誰かと喋っても、歩いてもいけねえ。ただ黙ってずっと座ってろって」
「……生贄かよ。……違うのかよ」
風がまた、ひとつ撫でていった。
香が僅かに揺れる。けれど、森は何も答えない。
「律? ……ああ、確かに大事なんだろ? だけどよ──」
「……俺は見たぞ。こいつが、ちゃんと歩いて、ちゃんと笑って、ちゃんと人を気にかけて、……当たり前みたいに生きようとしてるのを」
「お前、それを何とも思わねえのかよ」
「何も見えねえのかよ。……こいつが今どんな顔してるか、何も感じねえのかよ」
「ただ外に出て歩いただけなんだぜ」
「それだけで、こいつはこんなに怯えて……」
肩を怒らせる。ぽろぽろと言葉がこぼれる。最後はもう、誰に向かって、何を言っているのかも分からなくなっていた。
「今、何も起きてねえじゃん」
「森だって、空気だって──こんなに静かだろ」
「こいつが歩いて、喋って、何が起きるってんだよ」
レフは言葉を発さなかった。その分、ユエの言葉が静寂に染みていく。
「なあ……おかしいだろ」
「これのどこが〝悪い〟んだよ……」
「誰も傷つけてねえ、誰も困らせてねえ、なのに……なのに──」
声が、少し震えた。
最後はもう、泣きそうだった。
織祀の肩が、小さく、震えたように見えた。
レフは、何も言わなかった。いや──言えなかった。
ユエの声は、ただの言葉ではなかった。叫びであり、問いであり、咆哮だった。そしてそのすべてが、正面からレフの胸に突き刺さっていた。
なぜか、少年がはじめて香の間に据えられた日が記憶に蘇ってきていた。
声もなく、ただ律に従うだけの小さな子供。式の動きだけを叩きこまれ、香に包まれ、足を運ばされ、口を閉ざすよう教え込まれて。
その日からレフは、いつも織祀の傍にいた。香衣を直し、食事を運び、座に導き、森へと手を引いた。
その幼い手が、何かを訴えるように震えていた夜も、あった。
けれどレフは、目を逸らした。
逸らしてきた。
それが職務だと、信じていたから。
「器は、空であれ」──そう教えられてきた。
器に〝感情〟などという名は、存在しない。
けれど。
今、目の前のその子は──怯えて、震えている。
それを、見てしまった。
風が、流れていた。
香は、濁っていない。
律も、整っている。
どこにも、異常はない。
逸脱が起きているのに、世界は、壊れていなかった。
それどころか、静かに順応し、ただ見守っているようだった。





