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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
24/25

19:紙片の夜 ②

 月光が、翳る。


 その足音を聴いた瞬間、織祀は動けなくなっていた。小さな肩がびくりと震え、そのまま、息を呑んだように沈黙する。

 空気の震えと、香の揺れと、あの足の重さ。それだけで誰が来たのか、織祀には分かってしまった。


(レフ──)


 心臓の音が、自分の中だけで反響する。耳を向ける方向も定まらず、ただ宙を彷徨うばかり。


 ユエの袖を握っていた手が、そっと離れた。

 何かに触れていてはいけない。

 咄嗟の反応だった。


 両手は体の脇に戻り、力がこもる。掌が湿っている。脈打つ感覚が、掌からもこぼれている。

 足は、動かない。息も、うまく吸えない。呼吸は浅く、喉の奥で震えている。

 何も語らぬ沈黙の中で、織祀はただ、立ちすくんでいた。


 ──動いてはいけない。

 ──語ってはいけない。

 ──律を、乱してはならない。


 そのすべてが、今まさに破られているというのに。


 けれど、森は静かだった。香も、風も、揺れてはいなかった。

 ──まるで、見守っているようにすら、感じられた。


 そう思ったことすら、逸脱なのだと分かっている。

 だが、それでも、


(なぜ……)


 わたしは、


 なぜ、まだ──


 だって、世界は、壊れていない。

[pagebreak]

 ***


 風が、そよいだ。


 森の気配の中で、織祀が微かに身じろいだ。それがきっかけだったかもしれない。

 その小さな震えに弾かれたように、レフは、ようやく口を開いた。


「織祀、さま……」

「なぜ……こんな、こと……」


 掠れた声だった。断片しか出てこない。頭の中でまだ何かが軋むように混乱していた。


「いけません、即刻──お戻りを」

「戻らなければ……香が……律が……」


 手が伸びる。

 その所作には、普段の静謐な導きの面影はなかった。衝動的に、織祀の手首を掴み、ぐいと引く。


 その手に、織祀は抵抗しなかった。目を伏せたまま、無言で従おうとする。わずかに硬直したまま、ただその方向へ身を傾ける。

 口は閉ざされたまま。顔に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもない。ただ、緊張と、諦めに満ちた、無表情。


 ──その動きに、ユエが割って入った。


「いや、ちょっと、待てよ」


 レフの手を叩き落とし、そのまま前に出る。その動きは鋭く、ためらいがなかった。


「あんた、シキの付き人だよな?」

「……あのさあ。俺、ずっと言ってやりたかったんだけど」

「……なんで、こんなちょっと外に出ただけで、そんな真っ青になってんだよ」


 声は怒りと戸惑いに震えていた。先程からのレフの言葉は断片的だったが、その沈黙──織祀の反応を見れば、何が起きたのかは分かる。

 ユエはそのまま畳み掛けた。


「お前ら、おかしいんじゃねえか」

「普通に歩いた。誰かと喋って、笑った。それだけで何が〝壊れる〟んだよ」


 睨みつけるようにレフを見上げる。


「お前らさ──こいつをなんだと思ってんだよ」

「器、器って、モノか? 律を通すためだけの道具かよ」


 織祀の方を向く。


「……子供だぞ」

「俺よりも、小さくて、細くて──たったひとりじゃ歩けもしない、子供なんだぞ」


 その声は、今度は低く、確かな響きを持っていた。


「見ちゃいけねえ、聞いてもいけねえ、誰かと喋っても、歩いてもいけねえ。ただ黙ってずっと座ってろって」

「……生贄かよ。……違うのかよ」


 風がまた、ひとつ撫でていった。

 香が僅かに揺れる。けれど、森は何も答えない。


「律? ……ああ、確かに大事なんだろ? だけどよ──」

「……俺は見たぞ。こいつが、ちゃんと歩いて、ちゃんと笑って、ちゃんと人を気にかけて、……当たり前みたいに生きようとしてるのを」


「お前、それを何とも思わねえのかよ」

「何も見えねえのかよ。……こいつが今どんな顔してるか、何も感じねえのかよ」


「ただ外に出て歩いただけなんだぜ」

「それだけで、こいつはこんなに怯えて……」


 肩を怒らせる。ぽろぽろと言葉がこぼれる。最後はもう、誰に向かって、何を言っているのかも分からなくなっていた。


「今、何も起きてねえじゃん」

「森だって、空気だって──こんなに静かだろ」

「こいつが歩いて、喋って、何が起きるってんだよ」


 レフは言葉を発さなかった。その分、ユエの言葉が静寂に染みていく。


「なあ……おかしいだろ」

「これのどこが〝悪い〟んだよ……」

「誰も傷つけてねえ、誰も困らせてねえ、なのに……なのに──」


 声が、少し震えた。

 最後はもう、泣きそうだった。

 織祀の肩が、小さく、震えたように見えた。



 レフは、何も言わなかった。いや──言えなかった。

 ユエの声は、ただの言葉ではなかった。叫びであり、問いであり、咆哮だった。そしてそのすべてが、正面からレフの胸に突き刺さっていた。


 なぜか、少年がはじめて香の間に据えられた日が記憶に蘇ってきていた。

 声もなく、ただ律に従うだけの小さな子供。式の動きだけを叩きこまれ、香に包まれ、足を運ばされ、口を閉ざすよう教え込まれて。


 その日からレフは、いつも織祀の傍にいた。香衣を直し、食事を運び、座に導き、森へと手を引いた。

 その幼い手が、何かを訴えるように震えていた夜も、あった。


 けれどレフは、目を逸らした。

 逸らしてきた。

 それが職務だと、信じていたから。


「器は、空であれ」──そう教えられてきた。

 器に〝感情〟などという名は、存在しない。


 けれど。

 今、目の前のその子は──怯えて、震えている。

 それを、見てしまった。


 風が、流れていた。

 香は、濁っていない。

 律も、整っている。

 どこにも、異常はない。


 逸脱が起きているのに、世界は、壊れていなかった。

 それどころか、静かに順応し、ただ見守っているようだった。

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