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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
12/25

9:逸れる

 朝の森には、まだ人の気配がなかった。

 けれど、空気はすでに起きている。天高く澄んだ風が、枝葉を撫でながら、小径の奥へと流れていた。


 ユエは、森殿の方へと歩いていた。

 また何となく足が向いてしまっただけで、特別な理由はなかった。けれど──


(朝って、こんな感じだったっけか)


 いつもは夜に来ていた。気配を隠すこともなく、何度も、同じ道を。

 けれど、朝は違った。湿った草の匂いが濃く、石畳は冷たくて、風はどこか正面から吹いてくる。


 淡く薫る香が、いつもより薄い。けれどその分、森のにおいが際立っていた。夏を残す緑と、熟れ始めた果実が鳥と獣を呼ぶ甘いにおい。


 香の間。

 その外にある格子の前まで来て、ユエは立ち止まった。


 格子の奥、香の間の中央に、彼はいた。香衣に包まれ、座す小さな背中。わずかに風に揺れる香衣の裾が、格子越しの光を受けてきらめいていた。


(……本当に、ここに、ずっとこうして座ってんだな)


 夜の暗がりでは見えなかったものが、朝にはよく見える。斜め後ろから見える輪郭も、固く結った青銀の髪の下に覗くうなじも、香衣の織りも、白の透きとおりも。


 織祀しきは、目を閉じて座していた。

 顔は見えない。けれど、そこに在る。何も語らず、何も動かず、ただ世界の律を通すために。


 ユエは格子の隙間から覗くようにして、そっと腰を下ろした。

 格子越しに香の間を斜めに見る位置──ここからは、彼の正面は覗けない。

 けれど、彼の座している気配は、よく伝わってきた。


 ユエは、軽く咳払いをしてから、話し出す。


「よっ。……おはよう、シキ。来たぜ、朝っぱらから」


 返事はない。

 けれどそれがいつものことで、むしろ『いつも通り』の証だった。


「そういえば、こないださあ」


 だから彼も、いつも通りに一方的な話を始める。


「村でまた『長老ごっこ』が始まってて──」

「『いちばん偉い奴を決めようぜ!』って言い出したロホが──あ、ロホって俺の友達なんだけどさ」

「偉いやつの定義を勝手に『いちばん笛が上手いこと』にして、そのまま自分が笛吹いて、広場の真ん中に座りやがったんだよ」


 言いながら、声を殺して吹き出す。香の間に届くか届かないかの音量で。


「で、選ばれなかったやつらが反乱起こして、『長』を葉っぱでぐるぐる巻きにして、そのまま奉納とか言って森に投げ込みに行ってさ」


 手振りはないけれど、ユエの声には表情があった。


「最終的に全員で穴にハマって、帰ってきたら『長の墓』とか作ってやんの。しかもそれ、次の日には『墓の跡地』になってて、その上で新しい『長』が演説してんの!」


 その瞬間、ふっと香の流れが揺れたように感じた。

 織祀は動かない。香衣も微かに揺れただけ。けれど、その静けさの中に、何かが確かに〝反応〟した。


「──あ。お前、今、笑ったろ?」


 ユエは目を細めて笑った。からかうような口調だったが、その実、確認のようでもあった。


「織祀サマを笑かしたなんて言ったらまた怒られっかな? でも笑ってくれてたら、あと三千年くらい元気に生きてけると思うよ、俺。マジで」


 ユエの口は滑らかに回る。対して、香の間は沈黙していた。けれど、その沈黙が、何かを孕んでいるように思えた。


(ああ、これ、届いてる。たぶん──)


 ユエは、ほんの少しだけ真顔になって、格子から奥を覗き込んでもう一度だけ言った。


「……なーなー、シキ?」


 そのときだった。

 ふわりと、香衣の裾が揺れた。それは風のせいかもしれない。けれど──


 織祀の声が、ふと、落ちてきた。


「……ユエ」


 名を、呼んだ。

 それは、短く。けれど、確かに。禁じられた響きが、香の空気の中を滑っていく。


 ユエは目を瞬いた。

 織祀は次いで、もう一言。


「わたしは……感情のかたちを、外に置くことを許されておりません。けれど、……『わらう』ということが、こんなにも、やさしいものだとは──知りませんでした」

「……あなたのお話は、……〝たのしい〟……ですね」


 それは、律の言葉ではなかった。

 語ってはいけない、内からの言葉だった。


 主語も、名も、感情も。

 すべてが逸れていた。

 けれど──あまりにも静かで、柔らかかった。


 ユエが、思わず笑みかけたそのとき──


 ──コツ、コツ。


 乾いた足音が、回廊の向こうから響いた。


(巡回……!?)


 香の間へ向かって、誰かが来る。

 それも、すぐそこまで。


 本来なら織祀が誰より早く気づくはずの足音。

 けれど彼の耳もまた、ユエの声に奪われてしまっていた。

 ほんの、数秒。あるいは、一瞬。取り繕うのが、遅れる。


 ユエが反射的に格子から身を引こうとした、その直前。

 香の間の入り口に、白い姿が現れた。


 付き人──レフだった。


 香の間の光が、彼の香衣を照らしていた。

 目元にはいつもの穏やかな表情がある。けれどそのまなざしは、まっすぐに、織祀を見つめていた。


 ユエの存在にも、目線を落とさぬまま。

 すべてを見ていた。


 空気が凍る。


 音が止んだようだった。

 風も、香も、呼吸も、ひとつの重さで沈んだ。


「──織祀さま。〝お戻り〟を」


 静かな、丁寧な言葉。

 けれど、それが命令であることは、空気が知っていた。


 織祀は、動かなかった。

 けれど、膝の上の手が、ほんのわずかに解かれる。


 レフが、すぐにその手を取った。

 音を立てず、導くように。


 織祀は立ち上がる。

 小さな身体が、香衣の裾を揺らしながら、ゆっくりと動いた。


 ユエは、目を見開いて、その背を見ていた。

 今さっきまで柔らかく「わらう」ことを形容していた香衣が、一瞬で全ての感情を排し、けれどどこか小さく震えているように見えた。


 手を伸ばすことも、呼びかけることさえできなかった。

 それは、越えてはいけない境界だった。


 織祀は振り返らない。

 香衣の背が、香の間をゆっくりと横切っていく。


 格子の隙間から、ユエは息を呑んだままじっとその姿を見ていた。


 そして、そのまま。

 香の間から、彼の気配が消えた。


 風が、戻る。

 香が、ふたたび満ちる。

 けれど──そこには、彼はいなかった。


 ユエは、動けなかった。

 立ち去る足音も、見張りの影も、すべてが遠ざかっていく。まるで、世界の一部がそっと消えたように。


 香の間は、空になっていた。

 けれど、空っぽではなかった。


 その沈黙の奥には、名を呼び、笑った彼の声が、まだ残っていた。

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