9:逸れる
朝の森には、まだ人の気配がなかった。
けれど、空気はすでに起きている。天高く澄んだ風が、枝葉を撫でながら、小径の奥へと流れていた。
ユエは、森殿の方へと歩いていた。
また何となく足が向いてしまっただけで、特別な理由はなかった。けれど──
(朝って、こんな感じだったっけか)
いつもは夜に来ていた。気配を隠すこともなく、何度も、同じ道を。
けれど、朝は違った。湿った草の匂いが濃く、石畳は冷たくて、風はどこか正面から吹いてくる。
淡く薫る香が、いつもより薄い。けれどその分、森のにおいが際立っていた。夏を残す緑と、熟れ始めた果実が鳥と獣を呼ぶ甘いにおい。
香の間。
その外にある格子の前まで来て、ユエは立ち止まった。
格子の奥、香の間の中央に、彼はいた。香衣に包まれ、座す小さな背中。わずかに風に揺れる香衣の裾が、格子越しの光を受けてきらめいていた。
(……本当に、ここに、ずっとこうして座ってんだな)
夜の暗がりでは見えなかったものが、朝にはよく見える。斜め後ろから見える輪郭も、固く結った青銀の髪の下に覗くうなじも、香衣の織りも、白の透きとおりも。
織祀は、目を閉じて座していた。
顔は見えない。けれど、そこに在る。何も語らず、何も動かず、ただ世界の律を通すために。
ユエは格子の隙間から覗くようにして、そっと腰を下ろした。
格子越しに香の間を斜めに見る位置──ここからは、彼の正面は覗けない。
けれど、彼の座している気配は、よく伝わってきた。
ユエは、軽く咳払いをしてから、話し出す。
「よっ。……おはよう、シキ。来たぜ、朝っぱらから」
返事はない。
けれどそれがいつものことで、むしろ『いつも通り』の証だった。
「そういえば、こないださあ」
だから彼も、いつも通りに一方的な話を始める。
「村でまた『長老ごっこ』が始まってて──」
「『いちばん偉い奴を決めようぜ!』って言い出したロホが──あ、ロホって俺の友達なんだけどさ」
「偉いやつの定義を勝手に『いちばん笛が上手いこと』にして、そのまま自分が笛吹いて、広場の真ん中に座りやがったんだよ」
言いながら、声を殺して吹き出す。香の間に届くか届かないかの音量で。
「で、選ばれなかったやつらが反乱起こして、『長』を葉っぱでぐるぐる巻きにして、そのまま奉納とか言って森に投げ込みに行ってさ」
手振りはないけれど、ユエの声には表情があった。
「最終的に全員で穴にハマって、帰ってきたら『長の墓』とか作ってやんの。しかもそれ、次の日には『墓の跡地』になってて、その上で新しい『長』が演説してんの!」
その瞬間、ふっと香の流れが揺れたように感じた。
織祀は動かない。香衣も微かに揺れただけ。けれど、その静けさの中に、何かが確かに〝反応〟した。
「──あ。お前、今、笑ったろ?」
ユエは目を細めて笑った。からかうような口調だったが、その実、確認のようでもあった。
「織祀サマを笑かしたなんて言ったらまた怒られっかな? でも笑ってくれてたら、あと三千年くらい元気に生きてけると思うよ、俺。マジで」
ユエの口は滑らかに回る。対して、香の間は沈黙していた。けれど、その沈黙が、何かを孕んでいるように思えた。
(ああ、これ、届いてる。たぶん──)
ユエは、ほんの少しだけ真顔になって、格子から奥を覗き込んでもう一度だけ言った。
「……なーなー、シキ?」
そのときだった。
ふわりと、香衣の裾が揺れた。それは風のせいかもしれない。けれど──
織祀の声が、ふと、落ちてきた。
「……ユエ」
名を、呼んだ。
それは、短く。けれど、確かに。禁じられた響きが、香の空気の中を滑っていく。
ユエは目を瞬いた。
織祀は次いで、もう一言。
「わたしは……感情のかたちを、外に置くことを許されておりません。けれど、……『わらう』ということが、こんなにも、やさしいものだとは──知りませんでした」
「……あなたのお話は、……〝たのしい〟……ですね」
それは、律の言葉ではなかった。
語ってはいけない、内からの言葉だった。
主語も、名も、感情も。
すべてが逸れていた。
けれど──あまりにも静かで、柔らかかった。
ユエが、思わず笑みかけたそのとき──
──コツ、コツ。
乾いた足音が、回廊の向こうから響いた。
(巡回……!?)
香の間へ向かって、誰かが来る。
それも、すぐそこまで。
本来なら織祀が誰より早く気づくはずの足音。
けれど彼の耳もまた、ユエの声に奪われてしまっていた。
ほんの、数秒。あるいは、一瞬。取り繕うのが、遅れる。
ユエが反射的に格子から身を引こうとした、その直前。
香の間の入り口に、白い姿が現れた。
付き人──レフだった。
香の間の光が、彼の香衣を照らしていた。
目元にはいつもの穏やかな表情がある。けれどそのまなざしは、まっすぐに、織祀を見つめていた。
ユエの存在にも、目線を落とさぬまま。
すべてを見ていた。
空気が凍る。
音が止んだようだった。
風も、香も、呼吸も、ひとつの重さで沈んだ。
「──織祀さま。〝お戻り〟を」
静かな、丁寧な言葉。
けれど、それが命令であることは、空気が知っていた。
織祀は、動かなかった。
けれど、膝の上の手が、ほんのわずかに解かれる。
レフが、すぐにその手を取った。
音を立てず、導くように。
織祀は立ち上がる。
小さな身体が、香衣の裾を揺らしながら、ゆっくりと動いた。
ユエは、目を見開いて、その背を見ていた。
今さっきまで柔らかく「わらう」ことを形容していた香衣が、一瞬で全ての感情を排し、けれどどこか小さく震えているように見えた。
手を伸ばすことも、呼びかけることさえできなかった。
それは、越えてはいけない境界だった。
織祀は振り返らない。
香衣の背が、香の間をゆっくりと横切っていく。
格子の隙間から、ユエは息を呑んだままじっとその姿を見ていた。
そして、そのまま。
香の間から、彼の気配が消えた。
風が、戻る。
香が、ふたたび満ちる。
けれど──そこには、彼はいなかった。
ユエは、動けなかった。
立ち去る足音も、見張りの影も、すべてが遠ざかっていく。まるで、世界の一部がそっと消えたように。
香の間は、空になっていた。
けれど、空っぽではなかった。
その沈黙の奥には、名を呼び、笑った彼の声が、まだ残っていた。





