8:わたしは
その夜、森はやけに静かだった。
葉擦れの音も、夏の虫の気配も、どこか奥の方で止まっている。風が抜ける気配すらない。
ユエは、東の格子窓の外にひとり、そっと腰を下ろした。
毎晩のことだ。けれど今夜は、少しだけ足音を控えた。小径の土を踏む感覚さえ、どこか遠慮がちだった。
静かだった。
香の流れも薄い。もう焚かれてからだいぶ時間が経っていたのか、清涼さが抜けたような影薄荷の残り香が、ただ漂っている。
目の前の格子窓の向こう──そこに、あの白い影がいた。動かない。まるで、最初からずっとそこに在ったかのように。
それは最近、かなり頻繁に見ている姿だった。けれど今夜は、なぜかその輪郭がいつもよりも頼りなく、柔らかく見える。
ユエは、柱にもたれながら、小さく声をかけた。
「……よっ」
返事はない。わかってる。いつもどおりだ。
けれど、その沈黙が今夜は少しだけ、違って感じられた。
真っすぐに届いてくるものがあった。
拒んでもいない。遠ざけてもいない。ただ、そこにいることを受け入れているような。
ユエは、視線を格子越しに滑らせた。
白衣の中に小さな身体が収まっているのが見える。
こいつは──思ったより、ずっと小さい。
話し方は妙に大人びているくせに、手足は細くて短くて、風に吹かれたら倒れそうなくらい軽そうだ。
ふと、声が漏れた。
「なあ」
静けさの中に、音が落ちた。
「そういえばさ、〝織祀サマ〟って、みんなそう呼ぶじゃんか」
その瞬間、何かがわずかに変わった気がした。織祀が動いたわけでも、声を出したわけでもない。
けれど、空気が──一拍だけ、止まった。
ユエは続けた。
「……あれって、役目の名前だろ? お前の、本当の名前って……ないの?」
自分で言いながら、その問いが〝どこまで踏み込んでいいものか〟わからなかった。
けれど、もう聞いてもいい気がした。
あの夜──正面から、顔を見てしまったあの夜から、何かが変わった気がしていた。
あれ以来、香の間で過ごす時間に、わずかに余白が生まれた。声は少しだけ早く届くようになり、織祀の沈黙も、どこか耳を澄ませているような静けさに変わっていた。
だから、たぶん──聞いても、いい。
そう思って、口にしたのだった。
格子の奥で、白い影がかすかに揺れた。実際に揺れたのではない。ただ、呼吸が深くなったような、そんな気配だけが届いた。
そして──ゆっくりと、声が落ちてきた。
「……わたし、は──」
言い淀んだ。
その〝間〟に、ユエは耳を澄ませた。
言葉を探している、というよりも──言葉そのものが、自分の外へ出ることをためらっているような、そんな沈黙だった。
「……わたしは、固有の名は、預かっておりません」
主語を紡ぐのにあれだけ言い淀んだ割に、その先を言い切ったときの声は、どこまでも静かで、淡々としていた。
「わたしは〝織祀守〟……律を遍く滞りなく整えるための、ただの器です」
ユエは、じっとその声の響きを聞いていた。
かすかな温度。丁寧で、淡々としていて、けれど何かが届かない。
「……そうか」
そう答えると、自分でもよくわからない感情が、胸の奥に残った。
「じゃあさ」
言いかけて、少し言葉を切った。膝を抱えて、壁のひんやりした冷たさを指でなぞる。
「今まで、誰にも……名前で、呼ばれたことないの?」
また少しの沈黙があった。
その問いには、織祀は答えなかった。けれど、その沈黙自体が答えのように思えた。
ユエは、ふうっと息を吐いてから、空を見上げた。木々の間に細く星がのぞいている。
「……不思議だよな」
つぶやくように言った。
「名前ってさ、あって当たり前みたいに思ってた」
「呼ばれることとか、呼ぶこととか──そういうの、意識したことなかったけど」
香の間の香が、少し揺れた気がした。
「お前には、ないんだな」
そう言って、ユエはしばらく黙った。
言葉を選んでいた。正解はわからない。でも、何か言わずにはいられなかった。
「……じゃあさ」
立ち上がり、格子にそっと手をかけた。
「俺は、お前のこと〝シキ〟って呼ぶことにする」
静寂の中に、音が落ちた。
一拍、また一拍──その〝名〟が香の間の奥へと、しずかに、届いていく。
織祀は、何も言わなかった。
ただ、そこに在った。けれど、香の流れがほんのわずかに動いた。
ユエには、それが返事のように思えた。
許されたわけでも、歓迎されたわけでもない。ただ──その名が届いた、ということだけが、今は確かだった。
ユエは、手を離して背を向けた。
「……また来るな、シキ」
そう言って、歩き出した。
土を踏む音が、夜に消えていった。





