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風に傾ぐ子  作者: 莉翠
第一章「森殿の器」
11/25

8:わたしは

 その夜、森はやけに静かだった。


 葉擦れの音も、夏の虫の気配も、どこか奥の方で止まっている。風が抜ける気配すらない。


 ユエは、東の格子窓の外にひとり、そっと腰を下ろした。

 毎晩のことだ。けれど今夜は、少しだけ足音を控えた。小径の土を踏む感覚さえ、どこか遠慮がちだった。


 静かだった。

 香の流れも薄い。もう焚かれてからだいぶ時間が経っていたのか、清涼さが抜けたような影薄荷の残り香が、ただ漂っている。


 目の前の格子窓の向こう──そこに、あの白い影がいた。動かない。まるで、最初からずっとそこに在ったかのように。

 それは最近、かなり頻繁に見ている姿だった。けれど今夜は、なぜかその輪郭がいつもよりも頼りなく、柔らかく見える。


 ユエは、柱にもたれながら、小さく声をかけた。


「……よっ」


 返事はない。わかってる。いつもどおりだ。

 けれど、その沈黙が今夜は少しだけ、違って感じられた。


 真っすぐに届いてくるものがあった。

 拒んでもいない。遠ざけてもいない。ただ、そこにいることを受け入れているような。


 ユエは、視線を格子越しに滑らせた。

 白衣の中に小さな身体が収まっているのが見える。


 こいつは──思ったより、ずっと小さい。

 話し方は妙に大人びているくせに、手足は細くて短くて、風に吹かれたら倒れそうなくらい軽そうだ。


 ふと、声が漏れた。


「なあ」


 静けさの中に、音が落ちた。


「そういえばさ、〝織祀しきサマ〟って、みんなそう呼ぶじゃんか」


 その瞬間、何かがわずかに変わった気がした。織祀が動いたわけでも、声を出したわけでもない。

 けれど、空気が──一拍だけ、止まった。


 ユエは続けた。


「……あれって、役目の名前だろ? お前の、本当の名前って……ないの?」


 自分で言いながら、その問いが〝どこまで踏み込んでいいものか〟わからなかった。

 けれど、もう聞いてもいい気がした。


 あの夜──正面から、顔を見てしまったあの夜から、何かが変わった気がしていた。

 あれ以来、香の間で過ごす時間に、わずかに余白が生まれた。声は少しだけ早く届くようになり、織祀の沈黙も、どこか耳を澄ませているような静けさに変わっていた。


 だから、たぶん──聞いても、いい。

 そう思って、口にしたのだった。


 格子の奥で、白い影がかすかに揺れた。実際に揺れたのではない。ただ、呼吸が深くなったような、そんな気配だけが届いた。

 そして──ゆっくりと、声が落ちてきた。


「……わたし、は──」


 言い淀んだ。


 その〝間〟に、ユエは耳を澄ませた。

 言葉を探している、というよりも──言葉そのものが、自分の外へ出ることをためらっているような、そんな沈黙だった。


「……わたしは、固有の名は、預かっておりません」


 主語を紡ぐのにあれだけ言い淀んだ割に、その先を言い切ったときの声は、どこまでも静かで、淡々としていた。


「わたしは〝しきもり〟……律を遍く滞りなく整えるための、ただの器です」


 ユエは、じっとその声の響きを聞いていた。

 かすかな温度。丁寧で、淡々としていて、けれど何かが届かない。


「……そうか」


 そう答えると、自分でもよくわからない感情が、胸の奥に残った。


「じゃあさ」


 言いかけて、少し言葉を切った。膝を抱えて、壁のひんやりした冷たさを指でなぞる。


「今まで、誰にも……名前で、呼ばれたことないの?」


 また少しの沈黙があった。

 その問いには、織祀は答えなかった。けれど、その沈黙自体が答えのように思えた。


 ユエは、ふうっと息を吐いてから、空を見上げた。木々の間に細く星がのぞいている。


「……不思議だよな」


 つぶやくように言った。


「名前ってさ、あって当たり前みたいに思ってた」

「呼ばれることとか、呼ぶこととか──そういうの、意識したことなかったけど」


 香の間の香が、少し揺れた気がした。


「お前には、ないんだな」


 そう言って、ユエはしばらく黙った。

 言葉を選んでいた。正解はわからない。でも、何か言わずにはいられなかった。


「……じゃあさ」


 立ち上がり、格子にそっと手をかけた。


「俺は、お前のこと〝シキ〟って呼ぶことにする」


 静寂の中に、音が落ちた。

 一拍、また一拍──その〝名〟が香の間の奥へと、しずかに、届いていく。


 織祀は、何も言わなかった。

 ただ、そこに在った。けれど、香の流れがほんのわずかに動いた。


 ユエには、それが返事のように思えた。

 許されたわけでも、歓迎されたわけでもない。ただ──その名が届いた、ということだけが、今は確かだった。


 ユエは、手を離して背を向けた。


「……また来るな、シキ」


 そう言って、歩き出した。

 土を踏む音が、夜に消えていった。

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