第208話 問題は解決した。この件はこれでおしまいだ
逆もあるのか、というのが柚良が抱いた最初の感想だった。
つまり申佑が美蘭に膝枕をしてあげたというエピソードである。
それは今現在、赤くなったり青くなったりしながらテーブルに突っ伏している哀れ極まりない申佑の様子と合わせるとコミカルに思えたが――柚良から見ても確実にそうであると断言できるほど仲睦まじい夫婦だった。
無論、頭の回転が早い蒼蓉にもそう感じられただろうが、どうしても自分の中にある父親のイメージと結びつかないのか言葉を発せないでいる。
喉から漏れ出るのは詰まったような単音だけだ。
それは言い淀んだ時の申佑によく似ていた。
「……っ……ボ、ボクですらしてもらったことがないのに?」
数分経ってようやく絞り出したのがこの言葉である。
蒼蓉としても熟考を重ねたようだったが、しかしこれ以上の言葉が出てこなかったらしい。
それでもここで最初に問うべきはそんなことじゃないだろう、と発言した瞬間に気がついた様子で「いや、ちょっと待ってくれ」と目を逸らして片手を突き出す。
「……イェルハルドはボクに嘘はつかない。そこは信用している」
『ありがとうございます』
「だが勘違いや誤解というものがこの世には存在しているだろ。だからお前の言うことを簡単には信じられない」
嘘か本当かは申佑の様子から読み取れるような状況だったが、蒼蓉は敢えてそちらは見ないようにしているようだ。
主の言葉を受けてイェルハルドはカリカリと紙にペンを走らせる。
蒼蓉は嫌な予感がするのかそれすら聞いていたくないようだが――イェルハルドの速筆は目を瞠るものであり、この時もあっという間に書き終わってしまった。
『俺はおふたりに和解してほしい。だからこそ、後で罰されることを覚悟して知っている情報はすべて渡します。判断は若旦那がしてください』
ここで行なわれた父子のやり取りは昔からふたりをよく知るイェルハルドにとってもあまりにも酷いものだったのだろう。
だからこそ、ついに本人のプライベートを暴くような危険を冒してまで『情報』を蒼蓉に渡そうとしているのだ。
これはいくら口出しをするなと命じられていなかったとはいえ部下が主に逆らうようなものであり、普段のイェルハルドなら絶対にしないことだった。
外で待機している同じ影のひとりであるベンスが見れば目を疑っただろう。
それをわかっている蒼蓉は答えに窮したものの、申佑のように長々と黙り込むことはなく、あくまで情報として扱うと言って頷いた。
申佑はもはや抵抗を諦めている。
もしくは想定外すぎて頭の中が真っ白になってしまいなにを言っていいかわからない状態なのかもしれないな、と柚良は思った。
『大旦那は美蘭様の前では素を出せる、そんな不器用な人でした』
イェルハルドの提示した情報はそんな一文から始まった。
次に美蘭がまだ自由に飲み食いが可能だった頃は夜食として自作の粥を持ってきたこと。食べられなくなってからは方々から取り寄せた漢方薬の効能を熱心に説明しながら与えたことを書き連ねる。
美蘭が眠れないと言った時はよく眠れる方法を調べ、翌日に自作の子守唄を真顔で歌いにきたことを書かれた際は申佑のほうから変な音がした。
しゃくり上げたような息をのむ音である。
病床では手入れが大変だと美蘭が髪を切ろうとした時は申佑自らハサミを取り、切った髪は大事に保管していたが、そこにも呪いが及んで朽ちてしまったという。
他にも綺麗なだけではない、ほぼ介護と言って差し支えのないこともしていた。
人目を忍んで会いにきた時だけ、申佑は万化亭の大旦那ではなくただの申佑であり、妻を亡くしたくないと足掻く夫だったわけである。
普段、イェルハルドが書いた紙は相手に内容が伝わった段階で回収されるが、今回は敢えて上へ上へと重ねて置かれていた。
その量は申佑と美蘭の思い出の数だ。
「……」
蒼蓉はそれを鋭い目つきで睨んでいたが、不意にそれが緩むと代わりに眉根を寄せた。そこに嫌悪感は含まれていないが好意的でもない。
「情報を吟味した限り、父母の仲はボクの思っていたものではなかったようだ」
「蒼蓉……」
「母が可哀想だなんてボクしか思ってなかったわけだ。——でも」
なにかを続けようとした蒼蓉はグッとそれを飲み込むと額を押さえた。
長い袖で隠れて表情はわからない。
「……いや、とりあえず結論を出しましょう。遺書に書いてあったことはひとまず事実だと認めます。ボクが二十歳になったら大旦那を継ぐのもわかりました」
話を締めようとしている。
そう感じた柚良と同じく申佑もそう感じたようで、息子に対してフォローのひとつでもしようと口を開閉していたが声が出ることはなかった。
蒼蓉は短いため息のような息をつくと立ち上がる。
「しばらくゆっくりしていてください。暗渠街じゃどこでも似たようなものですが、少しでも空気の良い場所へ療養に行くのもいいかもしれませんね」
「……蒼蓉くん、いいんですか?」
「あァ、警備体制なら問題ないさ。精鋭を付けるとも」
「そうじゃなくて」
蒼蓉は柚良に眉を八の字にして笑うと手を握って立ち上がらせた。
「問題は解決した。ボクが遺書の内容に納得したからね。ならさっさと次の案件に行かないと。痛手を負った後とはいえ隠世堂がずっとだんまりなはずがない」
「でも」
「いいんだよ。……ほら、イェルハルドも仕事に戻れ。この件はこれでおしまいだ」
柚良は申佑に視線を送ったが、彼はテーブルの一点を見つめて固まっている。
先ほどまでの精神的なダメージによるものではないようだが、蒼蓉を引き止めるような様子はない。
ふたりの父子関係はまだ直ってはいない。
話し合いに時間を置くことで良い結果をもたらす場合はあるが、なにも言わずに流すことで悪化する場合も多々あるのだ。今は確実に後者だった。
そして今まで申佑が幾度となく繰り返してきたものだ。
だが、だからこそここで柚良がなにか言うように申佑に声をかけては意味がない。
誰かに言うように急かされて口にしたものを蒼蓉が受け取るはずがないのだ。
蒼蓉は「では今日はこれまでということで」と扉へと歩いていく。
そしてついに扉は閉められ、柚良たちの視界から申佑の姿は消えてしまった。
早足で廊下を進む蒼蓉に腕を引かれ、一歩後ろから彼の背中を見つめていた柚良は立ち止まろうとしたが――少しばかり強い力で引かれ続ける。
そこで強化魔法を軽くかけて力づくで立ち止まった。
それどころか逆に腕をぐいっと引っ張って自分と相対するように顔を向かせると、蒼蓉は驚いたように目を瞬かせる。
「驚いたな、強化魔法か? まるで大男に腕を引かれたようだ、これなら……」
「蒼蓉くん、あの時なにを言いかけたのか私に教えてもらえませんか」
「……」
「情けないことでも、汚いことでもなんでも聞きますよ」
柚良は強化魔法を解くと蒼蓉の胸元を手の平でぽんぽんと叩く。
「結局愚痴らなかったでしょう? でも弱音って溜めておける量が決まってるんです。ここから溢れる時は痛いんですよ」
「……知ってるさ。でも心配はいらない。ボクは許容量がとても多いから」
「それは万化亭の若旦那なら、でしょ」
ただの蒼蓉なら話は別だ。
そして今、ずっと心の中に重いものを溜め込んでいるのは蒼蓉だった。
短い間でも申佑の様子を見てきた柚良はそう思う。この親子は被る仮面によって精神力も変わってくるが、素の彼らは普通の人間なのだ。
蒼蓉はほんの少し視線を落とすと小さく笑う。
「君は先生みたいだな」
「ふふん、だって先生ですから!」
「――柚良さんに弱音は吐きたくないけれど、先生になら吐いてみようか」
そうして蒼蓉は窓の外で風に揺れる庭木の葉を眺めながら柚良の手を握り直し、重い口を開いた。




