第207話 イェルハルドは『口を挟んだ』
蒼蓉はこの話し合いを和解の場ではなく勝負の場として捉えていた。
それは父親への敵愾心だけが理由ではなく、そう思わなければ平常心を保てなかったからだ。勝負事は暗渠街で生きていれば不可避なものであり、蒼蓉も万化亭の若旦那という立場で幾度となく挑んできたものである。
そこで勝つために必要不可欠なものは冷静さに他ならない。
熱くなる心を静め、感情を均し、自分の考えを的確に口にする。
そうした勝負事として扱うことで、若旦那としての平常心を保つことができた。
だというのに申佑が謝罪を口にした瞬間、胸の奥底から湧き出たのは灼熱のような怒りだった。
今更そんな謝罪で済ませようというのか。
赦されたいのか。赦されたいなどと思うのか。
飴と鞭の鞭しか与えず、息子を後継者という駒としてしか扱わず、母を存在ごと無下にし、惨めな死を見届けもせず、息子に声も掛けずにすぐに遺体を焼き、母の私室をものの数日で空にし、息子の手元に母の面影ひとつ残しもしなかった男が。
そんな感情が後から後から湧き上がってくる。
(臆病者? 卑怯者? 本当にそうならあんな仕打ちをするほうが度胸が必要だ。心のひとつも病まずに万化亭を率いてきたくせに……この男は平気で嘘をつく)
暗渠街で生きていく上で嘘は武器になる。上手く使えて損はない。
しかしそんな男が家族の情に訴えかけて過去をなかったことにしようとしているようで、蒼蓉はそれが許せなかった。
蒼蓉は一度自分の懐に入れた家族なら大切にする。
そうされたかったという理由もあるが、生来持っている性質でもあった。
それ以外の性質を持つ者がいることも知識ではわかっているが、やはり基準にはしてしまう。その基準から見て申佑は最低の父親だった。
そんな父親が赦されたがっていることを感じ取って怒りと嫌悪感が湧いたのだ。
息子のためではなく申佑が自身のために赦しを乞うているようにしか見えない。
それを無理やり飲み込み、喉を引き攣らせながら蒼蓉は言う。
「……わかって口にしてるんですか? 謝られても困るんですよ。それじゃボクが赦すか赦さないか決めなきゃならなくなる。そんなの御免だ。謝罪は拒絶します」
「蒼蓉くん……」
「柚良さん、君は自分を害した身内にすら温情をかけられる人だ。でもね、ボクはそれに倣うことはできない。……この人を赦したら母が可哀想だ」
蒼蓉に冷ややかな視線を送られた申佑は苦しげに眉根を寄せて視線を下げた。
口を開こうとしてもまるで誰かに叱責されたように閉じてしまう。それを繰り返しているうちに顔色が青ざめていったが、蒼蓉はそれを哀れだとは思わなかった。
どうせ勝算があって口にしたことが空振って戸惑っているだけだろう。
そう考えたが、かつての父親像からはその時点でズレがあった。
違和感は蒼蓉も感じていたが、父親の言葉は頭からすべて信じていない蒼蓉は違和感の理由を突き止めようという気にはならない。
そういうものは相手を赦したいと思っている人間がするものだ。
よほどのことがなければ自分から知りたいとは思わないだろう。
(拒絶の意思は示した。遺書の意図は……もうどうでもいい。あとは大旦那の座をこの場で譲らせて、この人には隠居してもらえば万事解決だ)
蒼蓉はそれを告げようと口を開く。
しかしその時――申佑は終わりにするための言葉ではなく異なる言葉を口にした。
怒りではない感情に震えながら、声を絞り出すように。
「それでも私はお前に、そして美蘭に謝らなくてはならない」
「だから、それは必要な――」
「私のことは赦さなくていい。お前たちを蔑ろにしてきた私を罰してもいい」
蒼蓉は眉を顰めて申佑を見る。
じつに気弱げな男がそこにはいた。そのくせ胸を無理やり上下させて話そうとしている。一言発するたびに苦しげにしている姿はまるで万化亭の大旦那らしくない。
誰だ。
蒼蓉がそう思ったのと、申佑が次の言葉を発したのは同時だった。
「私は生来こういう人間だ。万化亭を率いるような器ではない」
「なにを……」
「私は出来損ないだ。だがそんな姿を他人に見せるわけにはいかなかった。私は完璧な大旦那でなくてはならない。本性を知られれば人は離れていくだろう」
申佑は震えながら長袍を強く握り込む。
顎を伝った汗が力んだ手の甲に落ちたが、俯くことはなく真っ直ぐに蒼蓉を見ていた。今度は蒼蓉がその視線から一瞬だけとはいえ逃げたくなる。
「お……お前たちに離れられたくなかった。だから大旦那として接してきた。しかしそれは、お、愚かな理由だった。他にも道はあったというのに、逃げてしまった」
「……」
「昔から話すことが苦手だ。それでも私は家族と話すべきだった。……美蘭は私の本性を知っていたが、お前の前では決して明かさなかったことを後悔している」
そんなことを聞かせて、自分にどうしろというのか。
それが蒼蓉がまず初めに感じたことだった。
そう感じてしまうこと自体が父親の言葉を信じたかのようで嫌悪の対象になったが、しかしどうしても嘘に聞こえない。それが嫌で仕方がなかった。
「――母がそれを知っていたとして。つまりあなたは母の包容力におんぶに抱っこだったわけですね? なのに最後は捨てたと」
「そ、う……そう受け取られても仕方のないことをした」
「ずっと言ってこなかったけれど、母の最期の言葉を教えましょうか」
恨み言を覚悟したのか申佑の体が強張る。
しかし蒼蓉は短く言い放った。
「あなたの名前です」
死に際に蒼蓉の母、美蘭は申佑の名前を呼んで旅立ったのだ。
普段の彼女なら息子も気に掛けただろうが、朦朧とした意識の中で最後に求めたのは申佑だった。しかしその時、申佑は美蘭が危篤だと知っていながら仕事を続けていたのだ。
ようやく部屋に現れたのは日が暮れてからだった。
「あなたは母を見殺しにしたも同然だ。だから……」
『 』
たん、と。
なにも書かれていない紙がテーブルの上に置かれる。
この世でもっともよく切れる刃物を振るおうとしていた蒼蓉は口を閉じることでそれを収めたが、鋭い目つきはそのままに視線を上げた。
紙を置いたのはイェルハルドだ。
言葉を書きつける時間さえ惜しんで彼なりに『口を挟んだ』らしい。
「なんのつもりだ、イェルハルド」
『大旦那は言わないつもりのようですが、美蘭様に関しては若旦那も知っておくべきだと愚考しました』
「へえ?」
『大旦那は美蘭様の見舞いに来ています。何度も』
殺意さえ感じる目つきでイェルハルドを見ていた蒼蓉はそこで一度だけ不要な瞬きをした。それは申佑も同じで、イェルハルドに知られているとは思わなかったのか言葉を失っている。
『俺は当時から影に潜んでいたので、時折目にすることがありまして』
「……お前は……ボクに嘘はつかないだろう。でもそれなら何故その時に言わなかった? それにボクは毎日母の部屋に行っていた。なのに一度も見かけたことがないなんておかしいだろ」
戸惑いの影響か些か早口になりながら、蒼蓉はとりとめもなく疑問を口にした。
イェルハルドは丁寧に文字を書き連ねていく。
『その時に言っても若旦那は信じなかったでしょう』
「子供の頃なら少しは……」
『いいえ、信じませんでした。当時は大旦那の話題を出すだけで人を殺せそうな目をしていたので。今のように』
そう言い切るイェルハルドは従者ではなく幼馴染の顔をしていた。
否定しきれなくなったのか蒼蓉は押し黙る。
『そして大旦那が見舞いに来ていたのは深夜です。若旦那は眠っていました』
「……見舞いといってもそんな時間じゃ一瞬だろう。母だって辛いのに気が休まらなかったに違いない。だからそれは、その人の自己満足だ」
『そうかもしれませんが、美蘭様も楽しみにしていました』
そこで反応したのは申佑だった。
しかし制止しようとした言葉は間に合わず、イェルハルドは目にも留まらぬ速さでそれを書いてテーブルの上へ置いた。
『大旦那は美蘭様に泣きつき』
「イェルハルド」
『美蘭様は膝枕をして撫で』
「イ、イェルハルド」
『昔に戻ったようだと喜んでおられました』
「イェルハルド……ッ!」
最後に追加された紙にはでかでかと、そしてはっきりとこう書かれていた。
『逆を含めて他にもありますが、知りたいですか?』




