空の現場へ②
「ただいま」
玲奈が帰宅すると、娘の玲美が足早に駆け寄ってきた。
「ママ、おかえり!」
笑顔でぎゅっと抱きしめてくる。その柔らかさに、心まで解れる気がした。
「お帰り」
リビングに入ると、夫の近藤敏樹が笑顔で出迎えた。台所で夕食を作っている。
「今日は疲れただろう?いい肉が入ったから焼いておいた。さあ、もうできるからみんなで食べよう」
「ありがとう。玲美、待たせてごめんね。お腹、すいたでしょう?」
「だいじょうぶ!おやつたべたから」
「そう。ママ、手を洗ってくるね」
「れいみもあらう!」
母と子は並んで流し台に向かった。
「それは寂しかったな」
玲美が寝てから、敏樹と玲奈がテーブルを挟み、向かい合わせで話した。
「みんな、本当によく動いている。その分、私、いなくてもいいのかなって……」
「そんなわけないだろう。小林君だって、その風の件、真っ先に君に聞いたんだろう?」
「そりゃそうなんだけど……」
「大丈夫」
敏樹は深く頷いた。
「俺も一度異動で離れてから戻ってきた部署で、同じことを感じたことがある。しかし、目の前のことに集中していたら、いつの間にかまた馴染んできた。だから、君もその風のことに集中するんだ」
「そうね……」
隣の部屋で寝ている玲美の寝顔を見た。
胸の重みが和らいだ気がした。
「ありがとう。敏樹」
「うん」
敏樹が答えるのとほぼ同時に、玲美が「ママ」と寝言を言った。
翌日の会議では、その強風が議題にあがった。
「私、昨日、この現場に行ってきました」
志保が手を挙げた。
「Googleでスクショした写真を検索して、行ってみたんです。確かに突風があったみたいで、倒れた看板やゴミ箱も見ました。さっきフォルダに挿入した画像がそのときの写真です」
会議フォルダに入っている画像を開くと、確かに店頭の立て看板が横むきになったり、ゴミが散乱している。
「うーん。実際、突発的な強風があったようね」
玲奈の眉間にも皺が寄った。
「地形としては平坦で、山から下りてくる風とは考えられません。積乱雲の発生も確認されていないということは、ビルなど建物のもたらす風でしょうか?」
山岳気象が専門の松岡亮太が冷静な口調で話す。
「建物起因の風の可能性はあります。ただ、この規模だと……説明しきれません」
「データ上は再現性がない……現象としては弱いわね」
「しかし、ノイズが揃っています」
玲奈の冷静な理論に、優花が即座に反応した。
「ノイズ?」
「はい。私、あの後気になって、幾つかSNSの情報を収集しました。『SNS情報』のPDFファイルを見て下さい」
資料には、日付と横浜周辺で起きた突風の情報が表で記入されていた。
「ここ数日だけで、十件近く風の強かったという報告がされています。うち、実際に積乱雲の発生が認められたのは一件のみです。これはデータに現れていない現象が、現地で起きているのではないでしょうか?」
「自分もそう思います」
新人の井手竜太郎も手を挙げた。元漁師で、海洋気象が担当だ。
「沢村さんの指示で、海水温とか調べました。けど、海の方も、特別変わったことは確認されていません。それでなおかつ風が強いということは、より調べてみる価値があるのではないでしょうか?」
「うーん……」
玲奈は天井を見上げた。
(理論上は、突風の可能性は考えにくい。しかし、現場の声は無視できない……)
玲奈はしばらく黙った。
――考える時間を、誰も遮らなかった。
その後、顔を正面に戻した。
「みんなの意見はわかった。この件、吉村総括部長に相談するわ」
玲奈の声は落ち着いていた。
だが、その場にいた全員が、それがいつもの相談ではないことを感じていた。
「はい」
全員が頷き、議題は終わった。
だが、誰もそれを「終わった」とは思っていなかった。
室長室で会議記録を読み終わった吉村明統括部長は、書類を机に置き深く息を吐いた。
「小林君の気づく力は流石だな。確かに妙だ」
「はい」
玲奈も低い声で同意した。
「しかし、データに見えない風とはな……データにない現象を追うとなると、イベント関係者への説明責任が難しくなるな」
「研究所及び気象庁でも確認されていない情報です。かといって、坂本も現地確認していますし、間違った情報とは考えにくいです」
「となると、だ」
吉村は少し離れ窓の外を見ていた、松島晴雄研究所所長を見た。
「所長。これは」
「うん」
松島は振り返って、頷いた。
「現場で確認するのが一番だ」
「現場で、ですね」
玲奈は念を押すように、ゆっくりと話した。
「机上の議論ならいくらでもできる。一番は、現地で風を受けながら、地形や建物の構造、地表温度など、色々確認することだ。見に行けば分かることもある」
「はい」
玲奈は一瞬、言葉を失った。確かに、それは基礎的でありつつも、いつの間にか自分が一番離れていたことかもしれなかった。
「藤堂君。君が中心になって、実際現場で確認してきなさい。その上でわかったことをチームでまとめて、また報告してくれ」
「わかりました」
玲奈は深く頭を下げると、「失礼します」と言って室長室を出た。
吉村は部屋を出る玲奈を見送ると、松島を見た。
「所長」
「まずは現場からの報告を待とう」
松島はそう言うと、にやりと笑った。
横浜の再開発エリアは、平日の昼間にもかかわらず人通りが多かった。ガラス張りの高層ビルが並び、舗装された歩道には春の日差しがまっすぐ落ちている。
空は、青かった。雲ひとつない。
――こんな日に、突風?
玲奈は立ち止まり、ゆっくりと周囲を見回した。
「思ったより……普通ですね」
隣で優花が小さく呟いた。手にはタブレットと簡易の温度計。すでにいくつかのポイントで測定を始めている。
「見た目は、ね」
玲奈は短く返す。
そのときだった。
――ふっ、と。
頬を撫でる風が、一瞬だけ向きを変えた。
玲奈の髪が、わずかに揺れる。
だが、それはすぐに止んだ。
「……今の」
「来ていますね」
優花の声が、少しだけ低くなった。
志保が一歩前に出る。視線を上げ、ビルの隙間を見上げた。
「風、流れています。上で」
指差す先は、高層ビルの間に挟まれた空間で、何かが動いている気配があった。目には見えないが、空気が落ちてくるような感覚。
玲奈はその場でしゃがみ、アスファルトに手をかざした。
熱い。想定より、明らかに高い。
「優花」
「はい。今、測っています」
優花は迷いなく答え、温度計の数値を確認する。
「地表温度、かなり上がっています。日当たりの関係もありますが……周囲の反射熱も強いです。強風当日の時間帯の気温データに近い値です」
玲奈は立ち上がり、周囲のビル群を見渡した。
ガラス、コンクリート、金属。
すべてが熱を持ち、それぞれが違う方向へ放出している。
「局所的に温められた空気が上昇している……」
玲奈の言葉を、優花が引き取る。
「その周囲の冷たい空気が落ちてきている可能性があります」
優花の視線が、ビルの谷間をなぞる。
「そのとき、ビルの隙間で風が圧縮されると――」
「加速する」
玲奈が続けた。
二人の視線が同じ場所で止まる。
「局所的な下降気流。擬似的なダウンバースト……」
優花が静かに言った。
玲奈はゆっくりと頷く。
「理論としては成立する」
だが。
玲奈は、わずかに眉を寄せた。
「……ただし」
言葉が止まる。
何かが引っかかる。
「今回のスケールと頻度が説明しきれない」
優花も小さく頷いた。
「はい。単発ならまだしも、ここ数日で複数回発生している点が一致しません」
そのときだった。
志保が、ふっと目を閉じた。
数秒。
何かを感じるように、その場に立つ。
そして、ゆっくりと目を開いた。
「……違う」
ぽつり、と言った。
玲奈と優花が同時に振り向く。
「何が?」
志保は少しだけ言葉を選ぶようにしてから、短く言った。
「風、軽くないです」
一拍。
「押される感じがある」
その言葉に、玲奈は息を止めた。
軽い風ではない。落ちてくる風。叩きつけるような圧。
――下降気流。
だが、それにしては。
玲奈はもう一度、空を見上げた。
雲は、ない。どこまでも澄んだ青。
その下で、見えない何かが動いている。
(データは間違っていない……)
玲奈はゆっくりと息を吐いた。
その瞬間。
再び、風が落ちてきた。
今度は、はっきりと。
ビルの隙間を縫うように、強く、鋭く。
近くの立て看板が、大きく揺れた。
志保が一歩踏み出し、体をわずかに傾ける。
受け止めるように。測るように。
そして、言った。
「風、来ます。さっきより強い」
優花が即座に端末を操作する。
「風速、上がっています……でも、上空データには出ていません」
玲奈は、その場から動かなかった。
次の瞬間、彼女の体は、重苦しい圧迫感のある風に襲われた。
頬に、腕に、体に。
上空から、彼女たちをめがけて叩きつけられたような、逃げ場のない重さだった。
ガラス張りのビル群が、わずかに軋んだように見えた。
玲奈は目を細めた。
そして、静かに言った。
「わかった――帰りましょう」
二人が振り向く。
「一度、整理する」
玲奈は空を見上げたまま、続けた。
「これは、分かっている現象として扱うべきじゃない」
その声は静かだったが、はっきりしていた。
「まだ、名前がない」
風が、また吹いた。
その音だけが、三人の間に残った。




