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第4話 聖女を救ったら、未来の死亡者数が減った



『百二十万円の話って……本当ですか?』


 電話越しに聞こえる水城澪の声は、昼間よりずっと弱かった。


 時刻は午前零時十二分。


 未来掲示板に残っていた記録では、彼女が俺へ初めて連絡するのは明日の午前十時十四分だった。


 けれど、現実ではもう電話が来ている。


「本当です」


 俺はベッドから起き上がりながら答えた。


「返さなくていいっていうのも?」


「はい」


『……どうしてですか』


「それは会って話します」


 電話の向こうで、小さく息を呑む音がした。


『今からでも、ですか?』


「今から?」


『すみません。やっぱりいいです』


「待ってください」


 切られそうになり、慌てて呼び止める。


「何かありました?」


 沈黙。


 その数秒だけで、嫌な予感がした。


 未来掲示板を開き、水城澪の名前を検索する。


 昼間まで表示されていた経歴。


『2026年9月3日、高利貸しより百二十万円を借り入れる』


 その記述が消えていた。


 代わりに――。


『2026年9月2日未明、母親の容体悪化を受け――』


 文章が途中で揺らぐ。


 一度消え、別の文へ書き換わる。


『2026年9月2日00時――』


 また消えた。


「……リアルタイムか」


 未来が決まってから表示されているわけじゃない。


 今この瞬間の選択によって、十年後の記録が作り直されている。


『水城さん』


「え?」


『今、病院ですか?』


 電話越しの空気が変わった。


『……どうして分かるんですか』


 当たりだった。


「病院名、昨日教えてもらったわけじゃないので、そこは聞かないでください。お母さんに何かあった?」


『さっき、病院から連絡が来て……』


 澪の声が震えた。


『状態が急に悪くなったみたいで。今すぐ手術とかではないんですけど、治療方法を変えたほうがいいって言われて。それだと、今までよりお金が必要になるって』


 未来掲示板の記録と違う。


 本来、母親が急変するのは明日の朝だった。


 それが前倒しになっている。


 俺が澪へ接触したことで、母親の病状まで変わった?


 いや。


 そこまで単純ではない。


 未来掲示板の記録が、そもそも大雑把だった可能性もある。


 重要なのは原因を今決めつけることじゃない。


 今、目の前で困っている澪をどうするかだ。


「どこの病院ですか」


『え?』


「今から行きます」


『でも、もう終電――』


「タクシー使います」


『そんな』


「住所だけ送ってください」


『……』


「水城さん」


 少し強めに呼ぶと、ようやく返事があった。


『分かりました』


     ◇


 病院へ着いたのは午前一時過ぎだった。


 深夜の総合病院は静かだった。


 明るい照明だけが妙に白く、昼間とは別の場所のように見える。


 ロビーの椅子に、澪は一人で座っていた。


 俺を見つけると、驚いたように立ち上がる。


「本当に来たんですか」


「呼んだでしょう」


「呼んでません。来てもらえますかとも言ってません」


「住所送った時点で半分呼んでます」


「……そういうものですか?」


「俺の中では」


 澪は疲れているのに、少しだけ笑った。


 それから俺の後ろを見る。


「白石さんは?」


「さすがに寝てます」


「連絡してないんですか?」


「しました」


「じゃあ起きてるんじゃ」


「『一人で行くなら気をつけてください。何かあったらすぐ呼んでください』って返ってきました」


「しっかりしてますね」


「俺より」


「そこは否定しないんですね」


 少し話せる程度には落ち着いたらしい。


 俺たちはロビーの端へ座った。


「それで、先生から何て?」


「母は心臓の病気なんです」


 澪が両手を膝の上で握る。


「今までも薬と治療を続けてたんですけど、最近あまり効かなくなってきてて。新しい治療を試せるかもしれないって」


「費用は?」


「今までよりかなり……」


「百二十万円で足ります?」


 澪が顔を上げる。


「最初に必要なのは、それくらいだそうです」


 やっぱり。


 未来で彼女が借りる百二十万円。


 金額だけ見ればただの借金に見えた。


 でも、その入口は母親の治療費だった。


「じゃあ出します」


 俺は言った。


 澪はすぐに首を振る。


「無理です」


「昨日と言ってること違いますよ」


「昨日も無理だと思ってました。ただ、本当に困ったら揺らぐかもしれないと思って……だから電話したんです」


「だったらいいじゃないですか」


「よくないです」


 澪は俺を見る。


 昼間よりずっと真剣な顔だった。


「見知らぬ人から百二十万円を受け取って、何も返さなくていいなんて、おかしいです」


「俺にも目的はあります」


「やっぱりあるんですね」


「あります」


 曖昧にするより、ここは言うべきだと思った。


「来年、あなたに俺たちの仲間になってほしい」


 澪は眉を寄せた。


「来年?」


「正確には、ダンジョンが出てから」


「……まだその話、本気だったんですね」


「本気です」


「私が回復術師になるっていう話も?」


「はい」


「世界最高の?」


「たぶん」


「そこはたぶんなんですか」


「未来が変わり始めてるので」


 澪は困った顔をした。


 当たり前だ。


 でも、昨日のようにすぐ拒絶はしなかった。


「私が仲間になれば、百二十万円をくれるんですか?」


「違います」


「え?」


「金を出すことと、仲間になることは別です」


 澪が黙る。


「今ここで金を渡して、来年あなたが『やっぱり関わりたくない』って言っても、返せとは言いません」


「それだと佐伯さんに得がないじゃないですか」


「ありますよ」


「何ですか」


「あなたのお母さんが助かる可能性が上がる」


 澪は目を伏せた。


「それは私の得です」


「俺にとっても得です」


「どうして?」


「水城澪という人が、一年後までちゃんと前を向いて生きてくれるから」


 口に出してから、少し格好をつけすぎたと思った。


 でも嘘ではない。


 未来の水城澪は、数十万人を救う。


 ただ、それ以前に。


 今ここにいる十八歳の女の子が、母親を救うために人生を壊す必要なんてない。


「未来のあなたは、すごい人です」


 俺は続けた。


「たくさんの人を助けます。でも、そのために今のあなたが不幸にならないといけない理由はない」


「……」


「だから先に助ける。それだけです」


 長い沈黙のあと。


 澪が小さく笑った。


「やっぱり、怪しい人ですね」


「昨日から評価が変わらない」


「もっと怪しくなりました」


「下がってるじゃないですか」


「でも」


 澪は俺を見る。


「昨日よりは、少し信じてもいいかなと思ってます」


 その言葉だけで十分だった。


     ◇


 翌朝。


 病院の会計窓口が開くのを待ち、俺は必要な金額を支払った。


 当然ながら、百二十万円を現金で机に積んで「これで!」などという格好いい展開にはならなかった。


 病院側へ確認し、治療費の一部として正式な手続きを取る。


 澪には何度も「本当にいいんですか」と聞かれた。


 そのたびに「いいです」と答えた。


 十回を超えたあたりで数えるのをやめた。


 手続きが終わった頃。


 病院の入口から凛が歩いてきた。


「おはようございます」


「来たんですか」


「来ちゃ駄目でした?」


「大学は?」


「今日は午後からです」


 凛は俺を無視して澪の隣へ座る。


「お母さん、どうですか?」


「今のところ落ち着いてるそうです」


「よかった」


「……白石さんにも心配かけてすみません」


「凛でいいですよ」


「え」


「佐伯さんにはそう呼ばせてるので」


「俺は強制されたんですけど」


「細かいことはいいんです」


 いつの間にか二人の距離が縮んでいる。


 澪は戸惑いながらも「じゃあ、凛さん」と呼んだ。


 凛が満足そうに頷く。


 未来では世界三位の剣士と世界最高峰の回復術師。


 その二人が病院の待合室で名前の呼び方について話している。


 妙な光景だった。


 俺はスマホを取り出した。


 未来掲示板。


 水城澪。


 検索。


 経歴が変わっていた。


『2026年9月、高利貸しから借金』


 消えている。


『2026年9月2日、母親の治療環境が改善。以後、複数のアルバイトを整理』


 新しい記述。


『2027年9月1日、第一次ダンジョン発生時に《聖域》へ覚醒』


 そこは変わっていない。


 ただし、その先。


『2027年9月4日、初の大規模救護活動へ参加』


 以前は十月だった。


 さらに。


『2028年3月、国内初の広域回復術式を完成』


 これも、本来なら二〇二九年だった。


「……早まってる」


「何がですか?」


 凛が聞く。


「澪の成長」


 澪が自分を指差す。


「私ですか?」


「未来で、回復術を完成させる時期が一年くらい早くなってる」


「なんで?」


「たぶん、借金で変な組織に囲われる期間がなくなったから」


 未来掲示板をさらに読む。


 新しいスレッドが立っていた。


『【検証】水城澪が一年早く広域回復を完成させた世界線』


「……世界線って」


 掲示板利用者たちも、未来が変わったことに気づいているのか?


 スレッドを開く。


『名無しの探索者:2036/09/03 09:18

 昔の記録と今の記録で水城の経歴違わない?』


『名無しの探索者:2036/09/03 09:19

 また例の歴史改変説かよ』


『名無しの探索者:2036/09/03 09:20

 でも古いスクショだと広域回復完成2029年なんだよな』


『名無しの探索者:2036/09/03 09:21

 今の公的記録だと2028年』


 俺の手が止まった。


 古い未来の記録を覚えている人間がいる。


 全部が上書きされて消えるわけじゃない?


 しかも。


『名無しの探索者:2036/09/03 09:23

 それより第三次東京迷宮災害の死者数見た?』


 嫌な文字が目に入り、記事を開く。


 未来の大災害。


 以前、ざっと見た記録では――死者四千八百十二人。


 現在の記録。


『死者 二千七百六十一人』


「……二千人減ってる」


「何が?」


 凛が俺の顔を見る。


「未来の災害の死者です」


「どうして?」


「澪が早く広域回復を使えるようになったから」


 記録には、そう書かれている。


 災害発生時。


 水城澪による大規模治療が早期に展開され、重傷者の生存率が大幅に上昇。


 救命人数、推定二千百三十四名。


 俺は画面を見たまま動けなかった。


 百二十万円。


 昨日の俺にとっては大金だ。


 でも。


 その金を先に出しただけで。


 十年後、二千人以上が死ななくなった。


「佐伯さん?」


 澪の声。


 俺は顔を上げる。


 目の前には、まだ何の力も持っていない十八歳の女の子がいる。


 彼女自身は知らない。


 自分が未来で二千人の死を消したことを。


「……やっぱり、間違ってなかった」


「何がですか?」


「あなたを先に助けたこと」


 澪が困ったように笑った。


「急にどうしたんですか」


「こっちの話です」


 でも。


 今ので、はっきりした。


 未来の英雄を早く救えば。


 その人一人の人生だけじゃない。


 その英雄が未来で救うはずだった人間の数まで増える。


 だったら、もっと早く。


 もっと多く。


 未来で苦しむ人材を見つければいい。


 スマホを操作する。


『早死にした天才探索者』


『覚醒前に死亡』


『本来ならSSS級』


『救えなかった英雄』


 検索候補が並ぶ。


 その中で、一つだけ異様に書き込み数が多い名前があった。


『九条蓮司』


 通称、《炎帝》。


 十年後の世界ランキング――二位。


 白石凛より一つ上。


 最盛期には単独で都市一つを焼き尽くせるほどの火力を持った男。


 しかし未来掲示板には、もっと気になる記録がある。


『ダンジョン発生一年前の九条蓮司を知ってる奴、誰も信じないだろうな』


『無職』


『家賃三か月滞納』


『所持金六百四十二円』


『二日後、アパート追い出される』


 俺は日付を見る。


 二日後。


「次、決まりました」


 凛がすぐに反応する。


「今度は誰ですか?」


「未来で世界二位になる男」


「私より上?」


「そこですか?」


「大事です」


 澪が小さく笑う。


「今は何してる人なんですか?」


「無職」


 二人とも黙った。


「家賃三か月滞納」


 さらに黙る。


「所持金六百四十二円」


「……世界二位ですよね?」


「未来では」


 凛が腕を組んだ。


「なんとなく気に入りません」


「まだ会ってすらないでしょう」


「私より上なので」


「理由が子供なんですよ」


 澪が、今度ははっきり笑った。


 それから少しだけ迷い、俺へ言う。


「あの」


「はい?」


「九条さんのところ、私も行っていいですか?」


 俺と凛が同時に澪を見る。


「病院は?」


「今日は母のそばにいます。でも、退院までずっと付き添うわけにはいかないですし……」


 澪は膝の上で両手を握った。


「まだ、ダンジョンとか未来とか、全部信じたわけじゃありません」


「それでいいですよ」


「でも、佐伯さんが母を助けてくれたのは本当だから」


 少し間を置いて。


「今度は、私も誰かを助ける側に行ってみたいです」


 その言葉を聞いた瞬間。


 スマホが震えた。


 新着通知。


『【歴史資料】最初の三人が揃った日』


 俺は息を止めた。


 スレッドを開く。


『名無しの探索者:2036/09/03 10:07

 白石凛、水城澪、佐伯湊』


『名無しの探索者:2036/09/03 10:08

 後の世界最強ギルド、最初の三人』


 世界最強ギルド。


 まだ名前すら決めていない。


 ギルドを作ると決めてもいない。


 なのに十年後では。


 もう。


 俺たちは、そう呼ばれていた。


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