第3話 未来の聖女は、今日も治療費を稼いでいる
翌朝。
俺は自分でも驚くほど早く目が覚めた。
ほとんど眠れていない。
未来掲示板。
白石凛。
書き換わった未来。
そして、まだ会ってすらいない水城澪の名前。
考えることが多すぎて、頭の中がずっと騒がしかった。
それでも会社には休むと連絡を入れた。
体調不良。
完全な嘘でもない。
こんな状況で普通に出勤できるほど、俺の神経は太くなかった。
午前八時。
駅前へ着くと、凛はすでに待っていた。
「おはようございます」
「早いですね」
「佐伯さんが遅いんです」
「待ち合わせ十分前ですけど」
「私は二十分前に来ました」
「それは俺のせいじゃないでしょう」
昨日、世界三位になると聞かされたばかりの人間とは思えないほど、凛はいつも通りだった。
服装も普通だ。
白いシャツに細身のジーンズ。背中には小さなリュック。
未来掲示板で《双剣姫》と呼ばれている人物には、とても見えない。
「それで、水城さんってどんな人なんですか?」
「十八歳。今年高校を卒業したばかりです」
「私より一つ下か」
「未来では世界最高峰の回復術師になります」
「私よりすごい?」
「分野が違います」
「順位は?」
「戦闘ランキングにはほとんど入らないです。でも、重要度なら凛より上かもしれません」
凛が少しむっとした顔をした。
「それ、なんとなく悔しいですね」
「張り合うところじゃないですよ」
「未来の私は世界三位なんでしょう?」
「そうですけど」
「なら、少しくらい誇ってもいいじゃないですか」
思っていたより負けず嫌いだ。
未来の掲示板では無口で冷静、剣以外に興味が薄い人物として語られていた。
だが、十九歳の凛はよく喋る。
十年の間に変わったのか。
それとも掲示板越しでは分からなかっただけなのか。
そう考えると、未来の英雄たちを「情報」だけで判断する危険性も見えてくる。
俺が知っているのは経歴と結果だ。
本人そのものではない。
「ところで」
電車へ乗ったところで、凛が声を落とした。
「どうやって助けるつもりなんですか?」
「それなんですよね」
「考えてなかったんですか?」
「考えてはいます」
水城澪が困っている理由は金だ。
母親の治療費。
未来掲示板の記録では、九月三日に違法な高利貸しから百二十万円を借りる。
その百二十万円が入口になり、利息と追加融資で借金が膨れ上がる。
だったら、百二十万円を用意すればいい。
理屈だけなら簡単だ。
問題は俺にそんな金がないことだった。
貯金は約百八十万円。
出せない額ではない。
しかし、昨日まで知らなかった女の子へ百二十万円をそのまま渡す。
普通に考えて異常だ。
しかも俺には、この先もっと多くの人材を探し、土地や物資まで押さえる必要がある。
貯金を一人目でほぼ溶かすわけにはいかない。
「未来の情報で、お金を作ることはできないんですか?」
凛が言った。
俺はスマホを見る。
「できると思います」
「思います?」
「昨日からずっと調べてるんですけど、未来掲示板ってダンジョン関係以外の情報もかなりあるんですよ」
企業。
スポーツ。
事故。
天気。
株価。
宝くじ。
十年後の人間が語っている以上、過去の出来事に関する情報も当然蓄積されている。
ただし、問題がある。
「未来を変えたら情報も変わるんですよね」
「そうです」
「なら、株とかは危なくないですか?」
「そこなんです」
白石凛を救ったことで、探索者ランキングだけでなく、いくつかの企業史まで微妙に変化していた。
未来に影響する人物を動かせば、金の流れも変わる。
今は当たる情報でも、半年後には外れるかもしれない。
だから「未来を知っているから十年分の株価で無双」というほど単純ではない。
「ただ、短期なら使える」
「短期?」
「今週起きることなら、俺たちの行動の影響を受けにくいです」
昨夜、俺は未来掲示板を検索しまくった。
そして一つ、使えそうな情報を見つけている。
『2026年9月2日 地方競馬史上最大級の三連単』
今日の午後。
地方競馬。
人気薄三頭が上位を独占し、異常な高配当が出る。
「……競馬ですか」
凛が微妙な顔をした。
「俺だってもっと格好いい方法が良かったですよ」
「未来の英雄を救う資金源が競馬」
「言わないでください」
「世界を救う第一歩が競馬」
「やめてもらえます?」
とはいえ、確実性は高い。
レース結果は掲示板だけでなく、十年後の競馬好きが何度も話題にしていた。
馬名。
着順。
オッズ。
全部確認済み。
もちろん賭けすぎれば怪しまれる。
俺は元手を抑え、必要額だけ作るつもりだった。
「今日中に資金を作って、そのあと水城さんへ会う」
「今からじゃないんですか?」
「先に会っても、助ける手段がありません」
「なるほど」
「それに、いきなり『借金しないでください』と言っても信用されない」
「私のときみたいに、未来を当てる?」
「できれば、もっと自然にやります」
凛が俺を見る。
「佐伯さん、昨日より悪い顔してますよ」
「それ、褒めてます?」
「たぶん」
◇
午後三時十二分。
俺の口座残高は、昨日までとは別物になっていた。
「……本当に当たりましたね」
「俺も怖いです」
「これ、毎日やれば働かなくていいのでは?」
「絶対やりません」
「即答」
レース結果は未来掲示板通りだった。
高配当。
俺は目立ちすぎない範囲で複数に分けて買い、税金も考えたうえで、手元資金を一気に増やした。
これで百二十万円を出しても問題ない。
むしろ、次の人材確保へ動く余裕までできた。
未来知識。
昨日までは「未来の危機を知るもの」だった。
今日、初めてそれが現実の資源へ変わった。
この感覚は大きい。
俺だけが知っている。
なら、知識は金にもできる。
人脈にもできる。
戦力にもできる。
未来が書き換わる前に使えばいい。
「行きましょう」
「水城さんのところへ?」
「はい」
俺たちは、未来掲示板に記載されていたアルバイト先へ向かった。
◇
水城澪は、駅前の小さなドラッグストアで働いていた。
時刻は午後五時半。
未来掲示板に書かれていた勤務時間と一致している。
「……あの子ですか?」
凛が小声で聞く。
「たぶん」
レジに立っている少女を見る。
肩まで伸びた茶色の髪。
小柄で、かなり細い。
笑顔で接客しているが、顔色は良くなかった。
目の下には薄い隈。
名札には『水城』とある。
あれが。
未来で数十万人を救う《聖女》。
世界各国から招聘され、どのギルドも喉から手が出るほど欲しがった回復術師。
その本人は今、特売の洗剤をレジへ通している。
「未来って、分からないものですね」
凛が言った。
「凛だって昨日までコンビニ店員だったでしょう」
「私は剣道やってます」
「それが何の反論になるんですか」
「なんとなくです」
俺たちは店内を一周し、閉店近くまで待った。
水城澪のシフトが終わったのは午後九時。
彼女は制服から私服へ着替えると、疲れ切った様子で店を出てきた。
そのまま駅とは反対方向へ歩いていく。
俺と凛は少し距離を取って追う。
「これ、普通に尾行ですよね」
「言わないでください」
「警察呼ばれません?」
「それも言わないでください」
十分ほど歩いたところで、澪が別のコンビニへ入った。
「またバイト?」
「未来掲示板だと、夜はこっちです」
「……昼からずっと働いてるじゃないですか」
「週六日」
凛が黙った。
それだけで十分だった。
十八歳。
母親の治療費のために、朝から夜まで働いている。
それでも足りない。
そして明日、金を借りる。
「会いましょう」
凛が言った。
「まだ勤務前です」
「だからです。終わるまで待ったら深夜になります」
「それはそうですけど」
「今、話しましょう」
昨日の俺より行動が早い。
さすがというべきか。
俺たちは店へ入り、バックヤードへ向かおうとしていた澪へ声をかけた。
「すみません、水城澪さんですよね?」
「……はい?」
澪が足を止める。
警戒した目だった。
当然だ。
「どちら様ですか?」
「佐伯湊といいます。こっちは白石凛」
「初めまして」
「はあ……」
凛が普通に頭を下げた。
澪はますます困っている。
「少しだけ、お話できますか?」
「これから仕事なので」
「五分でいいです」
「すみません、本当に急いでて」
断られる。
当然だ。
俺は一瞬迷い、用意していた言葉を捨てた。
「明日、お金を借りに行くつもりですよね」
澪の動きが止まった。
凛が横で俺を見る。
もっと自然にやるんじゃなかったのか、と顔に書いてある。
俺だってそうしたかった。
だが、この子には時間がない。
「……なんの話ですか?」
「百二十万円」
澪の顔色が変わった。
「明日の午前十一時。大宮駅近くの雑居ビル。そこにある金融業者へ行くつもりですよね」
「どうして……」
「その金、借りないでください」
澪が一歩後ろへ下がった。
「誰なんですか、あなた」
「今は説明しにくいです」
「警察呼びますよ」
「それでもいいです。でも、借りる前に一度だけ話を聞いてください」
「嫌です」
即答だった。
当たり前だ。
俺だって自分で言いながら怪しいと思う。
「行きましょう、凛」
「いいんですか?」
「今日は」
俺は財布から名刺を取り出した。
仕事用の普通の名刺。
裏に電話番号を書き、澪へ差し出す。
「明日、お金を借りる前に連絡してください」
「……」
「百二十万円なら、俺が用意できます」
澪が目を見開く。
「貸すんですか?」
「いいえ」
「じゃあ何ですか?」
「渡します」
「……は?」
「返さなくていいです」
澪は完全に黙った。
凛も黙った。
「条件は一つだけ」
俺は続ける。
「その業者から借りないこと」
「意味が分かりません」
「そうですよね」
「なんで見ず知らずの人が、百二十万円も」
「あなたが将来、その何万倍もの価値を持つ人だからです」
言った瞬間、自分でも言い方がまずかったと思った。
澪の表情が固くなる。
「……私を買うつもりですか?」
「違います」
今度は即答した。
「絶対に違う」
凛も一歩前へ出た。
「私も昨日、この人に助けられました」
「白石さん?」
「はい。少なくとも、変な見返りは要求されてません」
「“少なくとも”を付けないでください」
「まだ一日なので」
「そこフォローしてくださいよ」
澪が少しだけ目を瞬かせた。
ほんの一瞬、空気が緩む。
凛はそのまま続けた。
「信じられないのは分かります。でも、明日の業者だけはやめたほうがいいです。私からもお願いします」
「……あなたたち、何なんですか?」
澪が小さく聞く。
俺は答えに迷った。
未来の英雄を集めている。
来年ダンジョンが発生する。
あなたは聖女になる。
どれを言っても頭がおかしい。
「まだ、何者でもないです」
だから、そう答えた。
「でも一年後までには、何かになっていたいと思っています」
澪はしばらく名刺を見つめたあと、受け取った。
「仕事、遅れるので」
「すみません」
「……連絡するとは言ってませんから」
「はい」
「あと、ついてこないでください」
「もうしません」
「本当にお願いします」
澪はそれだけ言って、バックヤードへ消えた。
俺は息を吐く。
「失敗ですかね」
「半分くらい」
「半分?」
「名刺は受け取ったから」
凛が答えた。
「私なら、完全に怪しいと思ったら捨てます」
「それは慰めですか?」
「事実です」
店を出る。
夜風が少し冷たかった。
「でも、連絡くるでしょうか」
「来ますよ」
「なんで分かるんです?」
「だって百二十万円ですよ?」
「身も蓋もないな」
◇
その日の夜。
俺は自宅で未来掲示板を開いた。
水城澪。
検索。
経歴はまだ変わっていない。
『2026年9月3日、高利貸しから借金』
その記述も残ったまま。
「まだ、未来は変わってない……」
当たり前だ。
澪はまだ何も選んでいない。
俺は例のスレッドを開く。
『【歴史考察】ダンジョン発生前から動いていた謎の集団について』
新しい書き込みが増えていた。
『名無しの探索者:2036/09/02 23:48
水城澪って最初から例の集団所属じゃなかったんだな』
俺は画面を凝視した。
『名無しの探索者:2036/09/02 23:49
資料だと一回接触断ってる』
『名無しの探索者:2036/09/02 23:49
そりゃ知らん男にいきなり金出すとか言われたら逃げるだろw』
「……そこまで残ってるのかよ」
十年後。
俺たちの今日のやり取りが、歴史として残っている。
さらにスクロールする。
『名無しの探索者:2036/09/02 23:51
でも翌日、自分から連絡してる』
俺の指が止まった。
翌日。
つまり明日。
『名無しの探索者:2036/09/02 23:52
理由なんだったっけ』
『名無しの探索者:2036/09/02 23:53
母親の病院で追加費用が必要になったから』
嫌な予感がした。
検索欄へ病院名を入れる。
関連記録。
明日午前九時。
水城澪の母親が急変。
緊急手術。
追加費用。
そして――。
『水城澪は午前10時14分、佐伯湊へ初めて連絡を取る』
「……え?」
俺は固まった。
名前。
今まで未来の記録から抜け落ちていたはずの俺の名前が。
はっきりと表示されている。
『佐伯湊』
その文字をタップする。
ページが開く。
しかし。
『該当人物の詳細情報は閲覧できません』
「なんだよ、それ」
もう一度。
同じ。
検索しても、関連情報の大半が黒く潰れている。
ただ、一行だけ。
見える文章があった。
『ダンジョン史において最も多くの英雄を、英雄になる前に見つけた人物』
俺はしばらく画面から目を離せなかった。
最強でもない。
剣聖でもない。
聖女でもない。
未来の俺に付いていた評価は、たったそれだけだった。
英雄になる前に見つけた人物。
でも。
それでいい。
いや、それがいい。
俺自身に才能がなくても。
未来を知っている。
誰が英雄になるか知っている。
なら、誰より先に見つけられる。
誰より先に手を差し伸べられる。
スマホが震えた。
未来掲示板ではない。
普通の着信。
時刻は午前零時を少し回っている。
知らない番号。
俺は一瞬だけ迷ってから、電話に出た。
「もしもし」
『……あの』
聞き覚えのある声。
『今日、ドラッグストアに来た佐伯さんですか?』
水城澪だった。
未来掲示板には、彼女が俺へ連絡するのは明日の午前十時十四分と書かれていた。
それなのに。
もう電話が来ている。
『百二十万円の話って……本当ですか?』
未来が。
また一つ。
予定より早く動き始めていた。




