第29話 開けなかった扉一枚が、世界一位の妹の死亡記録を消した
横浜北部医療センターへ到着したのは、午後八時を少し回った頃だった。
病院そのものは通常どおり動いている。救急入口には車両が出入りし、正面玄関の向こうでは夜間受付の職員が患者へ対応していた。地下二階で、本来存在しない木製の扉が見つかっているとは、外から見ただけでは想像もできない。
だからこそ、病院全体を避難させる判断はされていなかった。
入院患者の中には人工呼吸器を使っている人もいる。集中治療室もあれば、今まさに手術を受けている患者もいる。原因不明の異常が地下で起きたからといって、全員を外へ出せば安全になる施設ではない。
「倉庫とは、そこが一番違うな」
俺たちと一緒に車を降りた三枝さんが、病院を見上げながら言った。
「倉庫なら、とにかく人を外へ出すって考え方でも何とかなる。でも病院で同じことやったら、逃がしたせいで危なくなる人もいるだろ」
「俺も来る途中で同じことを考えてました。第六倉庫方式をそのまま持ってきても駄目ですね」
「まだ二日目なのに、もう作り直しか」
「三枝さんが六日間で完成させたいって言ったんでしょう」
「完成させたいとは言ってない。全員に訓練させたいって言ったんだ」
確かにそうだった。
いつの間にか俺の中で、三枝さんまでマニュアル作成班の一員になっている。
本人はまだアーク社員ですらないのに。
病院の裏手に設けられた職員用入口では、御厨さんと榊原さんが先に待っていた。神代征司さんもいる。今日の調査に三枝さんまで同行すると聞いた御厨さんは、一瞬だけ意外そうな顔をしたものの、特に反対はしなかった。
「地下二階の設備区画は封鎖済み。扉を見つけた職員を含めて、全員そこから退避させているわ。今は監視カメラだけ残して、人は近づけていない」
「扉に変化は?」
「今のところなし。ただし、前駆粒子の反応は上昇している。栃木や東京湾ほどではないけれど、偶然そこに古い扉があったという話ではなさそうね」
案内された会議室には、地下二階の監視映像が大型モニターへ映されていた。
問題の通路には誰もいない。
白い壁の途中に、茶色い木製の扉が一枚だけある。
病院の設備区画には似つかわしくない古さだった。表面には細かな傷があり、金属製の丸い取っ手まで付いている。古民家か、何十年も前の倉庫から外して持ってきたと言われたほうが納得できる。
だが施設管理責任者が開いた図面には、その場所に扉など存在しなかった。
「この壁の向こうは?」
俺が尋ねると、責任者の男性が図面を指した。
「壁厚二百五十ミリの鉄筋コンクリート。その向こうは設備配管用の縦シャフトです。ただ、この位置には点検口もありません。建設時の図面、十年前の改修図面、先月撮影した設備写真も確認しましたが、扉はありません」
「先月どころか、今日の午後六時にもなかったそうだ」
神代さんが別の記録を見せる。
「設備員が定時巡回で同じ通路を通っている。その時刻の監視映像にも壁しか映っていない。七時九分の巡回で発見されたから、出現したのはその一時間ほどの間だ」
榊原さんが測定結果をモニターへ重ねた。
「もっとおかしいのは距離だ。扉までの実測距離と、レーザー距離計の値が合わない。監視カメラから扉までは図面上十二・四メートルだが、現在の測定値は十五メートル前後を行き来している」
三枝さんが画面をじっと見てから、少し身を乗り出した。
「だから変に見えるのか」
「分かります?」
「倉庫のときほどじゃないけど、床の目地がおかしい。扉の手前だけ間隔が広がって見える。それと、扉の影も変だ」
言われて拡大すると、俺にも何となく分かった。
廊下の照明は一定間隔で並んでいる。その光を受ければ、扉枠の影も壁や床に沿って落ちるはずだった。ところが映像の中の扉だけは、影がわずかに違う方向へ伸びている。
まるで。
あの扉だけが、別の場所の光に照らされているように。
「現地へ行って見る必要はないな」
榊原さんが即座に言った。
「映像でこれだけ異常が分かるなら、人間を近づける理由がない。遠隔機を使う」
準備されていたのは、車輪の付いた小型点検ロボットだった。
普段は配管設備や床下を確認するためのものらしい。前面カメラ、温度計、ガスセンサーを備えており、そこへ榊原さんが前駆粒子測定器の小型センサーを追加している。
地下二階へ入る防火扉の手前までは職員が運び、そこから先を遠隔操作へ切り替えた。
ロボットがゆっくり通路を進む。
十メートル。
八メートル。
扉までの距離が縮まるにつれて、前駆粒子の数値が上がっていった。
五メートルを切ったところで、映像に一瞬だけノイズが走る。
「止めろ」
榊原さんが操作担当者へ言った。
「そこで十分だ。これ以上は近づけなくていい」
「まだ扉までは四メートル以上ありますが?」
「人間ならもっと手前で引き返させる。そのための検証なのに、機械だから壊していいという考え方で限界まで近づけたら、現場手順として参考にならない」
そう言われて、俺は少し感心した。
調べられるなら調べたくなる。
未来掲示板を持っている俺自身、その誘惑には何度も負けそうになった。
けれど今回確認したいのは、扉の向こうに何があるのかではない。
開けなくても、危険だと判断できるか。
そして、人を近づけなくても対処できるか。
その方法だ。
「温度、二・八度低下。気圧差はほとんどありません。ガス検知なし」
操作担当者が読み上げる。
「前駆粒子は?」
「廊下基準値の十一・六倍。まだ上がっています」
榊原さんの表情が険しくなった。
「間違いない。あれは扉の形をした何かだ。少なくとも建物の一部ではない」
その瞬間だった。
モニターの中で。
扉の取っ手が動いた。
誰も触れていない。
地下二階には誰もいない。
それなのに金属製の丸い取っ手が、ゆっくりと下へ回った。
会議室の空気が一気に張り詰める。
「ロボットを戻せ!」
榊原さんの声と同時に、操作担当者が後退させる。
取っ手は途中まで回ったところで止まり、数秒後、ゆっくり元の位置へ戻った。
扉自体は開かなかった。
俺は知らないうちに止めていた息を吐いた。
三枝さんもモニターを見たまま、小さく呟く。
「……今日の紙に、『向こうから開けようとした場合』は書いてなかったな」
「追加ですね」
「追加だな。ただ、どう書く?」
考えてみれば当然だった。
俺たちは今日まで、「知らない扉を見つけても開けない」としか考えていなかった。
こちらが開けなければ安全だと思っていた。
でも。
向こう側に何かがいるなら。
向こうから開ける可能性がある。
神代さんが施設図面を確認しながら口を開いた。
「異常物を発見した区画を、扉一枚だけではなく一つ手前の防火区画から閉鎖する。これなら、仮に異常側が開いても直接人のいる場所までは来ない。病院なら防火設備をそのまま利用できる」
「倉庫でも防火シャッターがあります」
三枝さんがすぐに反応した。
「工場も大体ある。新しい設備を全部作るより、今ある防火区画を異常区画の隔離に使えないですか?」
御厨さんが二人の話を聞きながら頷く。
「それなら横展開しやすいわ。建物ごとに新しい専用設備を導入するとなれば時間も予算もかかるけれど、既存の防火・防煙区画を利用する形なら、一年以内でもかなりの数へ広げられる」
まただ。
昨日までなかった仕組みが、その場で形になっていく。
未来で完成された対策だけを読んでいたときには気づかなかった。
未来の常識というのは。
最初から誰かが百点の答えを知っていて、それを配った結果ではない。
一枚の扉を見つけた人が開けなかった。
倉庫で働く人が、ここで人が詰まると言った。
研究者が、人を近づける必要はないと判断した。
行政側が、既存設備なら広げられると考えた。
そういう小さな判断が重なって。
十年後には「常識」と呼ばれている。
◇
木製の扉は、出現から一時間五十二分後に消えた。
派手な音も光もなかった。
監視映像の中で一度画面が揺らぎ、次の瞬間には、そこに灰色のコンクリート壁しか残っていなかった。
ロボットを戻したあと、人間が区画へ入ったのは、前駆粒子濃度が通常値近くまで下がってからさらに三十分待ってからだった。
壁そのものには異常なし。
扉があった痕跡もない。
ただし測定記録には、明確な前駆粒子の上昇と空間距離の変動が残っている。
「今日のところは、それで十分だ」
榊原さんは採取したデータを確認しながら言った。
「扉を開けなくても、前駆接続だと判定できた。それが一番大きい。今後、同じものを見つけても『確認のために開ける』必要がなくなった」
施設管理責任者が、ほっとしたように息を吐いた。
「正直に言うと、昼間なら開けていたと思います」
「え?」
「設備担当の仕事ですから。本来存在しない扉があれば、まず中を確認しようとします。誰かが勝手に資材を置いたのか、改修業者が報告していないのか。今日の暫定手順が届いていなければ、発見した職員は普通に取っ手へ手をかけていたでしょう」
責任者はそこで言葉を切り、さっき取っ手が動いた映像へ目を向けた。
「開けていたら、どうなっていましたか?」
誰もすぐには答えなかった。
分からない。
何がいたのかも。
どこにつながっていたのかも。
だからこそ。
分からないまま開けなかったことに意味がある。
「開けなかったので、分からないままでいいんだと思います」
俺が答えると、責任者は少し驚いたようにこちらを見た。
「調査する側の人から、そう言われるとは思いませんでした」
「俺も少し前までなら、答えを知りたがったと思います。でも、知らなくても人が助かるなら、それでいいこともあるので」
未来掲示板は何でも教えてくれる。
少なくとも、検索すればかなりのことが分かる。
だから俺はつい、未来に答えがあるなら読んだほうがいいと思ってしまう。
けれど。
未来を知ることと。
危険な扉を開けることは違う。
知らなくても避けられる危険なら。
避けていい。
◇
問題は、病院側から次に出た質問だった。
「地下を封鎖するだけなら今回のようにできます。しかし、同じものが集中治療室の前に出た場合はどうしますか?」
施設管理責任者が開いたのは、院内の別の図面だった。
「患者を全員外へ退避させることは現実的ではありません。酸素供給設備や非常電源そのものが異常区画に入った場合、区画を閉鎖すれば病院機能が止まる可能性もあります」
倉庫では。
逃げればよかった。
病院では。
逃げられない人がいる。
そして建物を止めれば、その人たちの命に関わる。
三枝さんが図面を見ながら、しばらく黙っていた。
「設備を一か所にまとめてるのが危ないって話になります?」
「効率だけを考えれば集中させたほうが管理しやすい。しかし異常区画ごと隔離するなら、バックアップ系統を別区画に持つ必要が出るな」
神代さんの答えに、責任者も頷いた。
「非常電源はすでに複数あります。ただ、空間そのものが使えなくなるという災害は想定していませんでした」
「なら、病院用は別に作りましょう」
俺が言うと、御厨さんがこちらを見る。
「第六倉庫方式の病院版?」
「はい。倉庫用の手順へ無理に足すより、逃げられない人がいる前提で作ったほうがいいと思います。病院だけじゃなく、高齢者施設なんかも同じ問題が出るはずです」
「学校も少し違うわね。子ども自身に判断させる部分を減らす必要があるでしょうし、地下鉄ならそもそも地上へ出るまで時間がかかる」
御厨さんはそこまで言って、小さく息を吐いた。
「十三施設へ配っただけなのに、もう十三種類の問題が出そうね」
「十三施設だけで終わらせるつもりはありません。必要な施設には、もっと広げたいです」
俺が言うと、御厨さんが頷いた。
「ええ。ただ、配布した件数だけを成果にするのは危険ね。倉庫で使える手順でも、病院では通用しない部分がある。施設ごとに事情が違うもの」
御厨さんは、配布済みの十三施設をまとめた一覧に目を落とした。
「まずは配布先で見つかった問題を拾い上げて、手順を改める。そのうえで、学校や高齢者施設のように別の備えが必要な場所へも広げましょう。何か所へ配ったかより、その手順で本当に人を守れるかを確かめることが大切だわ」
俺は彼女の言葉を聞きながら、昨夜、未来掲示板で確認した数字を思い返していた。二百八十三施設。本発生までに第六倉庫方式が広がった施設の数として、十年後の記録に残っていた数字だ。
いつの間にか、俺はそこへ到達することが正解だと思い始めていたのかもしれない。
けれど、仮に二百八十三施設へ配り終えたあと、手順の届いていない病院が一つ見つかったらどうするのか。目標の数字に達したからといって、そこで止めていいはずがない。必要なら二百八十四か所でも、三百か所でも広げるべきだし、施設ごとに違う問題があれば、そのたびに手順を作り直せばいい。
未来の記録に残っている数字は、あくまで一つの結果だ。それを再現することより、今ここで助けられる人を増やすことのほうが大切だった。
「分かりました。配るだけで終わりにせず、現場の声を集めて改訂していきます」
「それと、病院版の試行施設はここでお願いするつもりよ」
御厨さんが施設管理責任者へ確認すると、男性は少し迷ったあと、はっきり頷いた。
「今日のことを見たあとで断る理由はありません。患者を守れる可能性があるなら協力します」
一枚の木製扉を。
一人の設備員が開けなかった。
それだけだったはずなのに。
今度は一つの病院が。
一年後へ向けて動き始めた。
◇
病院を出たのは、午後十一時を過ぎていた。
三枝さんは明日も訓練があるため、途中で倉庫会社の人に迎えに来てもらった。別れ際に「今日の分、明日の紙に足しといてくれ」と言っていたので、もう本人が入社前だという事実を忘れそうになる。
俺は駐車場に停めた車へ乗り込む前に、一度だけスマホを開いた。
調べたかったのは。
あの扉ではない。
《横浜北部医療センター 第六倉庫方式》
検索する。
すぐに十年後の記録が出た。
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〖前駆災害史〗病院向け隔離方式って最初どこ?
611:名無しの探索者
横浜北部医療センター
「開けなかった扉」の病院
612:名無しの探索者
物流向けだった第六倉庫方式を
「逃げられない人がいる施設」向けに作り直した最初の事例
613:名無しの探索者
あそこ本発生の日も病院機能止まらなかったんだよな
614:名無しの探索者
地下二階封鎖したまま救急受け入れ継続
非常電源と酸素供給の分散化を前年に終わらせてた
615:名無しの探索者
一年も前から何想定して設備改修してんだよって
当時は病院内でも揉めたらしい
616:名無しの探索者
結果的に横浜北部で最後まで患者受け入れてた病院の一つ
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俺の指が止まった。
本発生の日。
この病院は。
動いている。
その一文を読んだ瞬間。
別の記憶がつながった。
神代朔夜。
妹。
三日後。
『救助遅れ』
『避難所から病院へ運べなかった』
俺は検索欄へ戻った。
以前。
何度も入力した名前。
《神代朔夜 妹》
結果が表示される。
一番上のスレッドを開いた。
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〖質問〗神代朔夜の家族って今どうしてる?
74:名無しの探索者
父親は前駆現象研究のほうで有名だろ
75:名無しの探索者
妹も普通に生きてる
76:名無しの探索者
母親は横浜崩落で亡くなってるんだよな
77:名無しの探索者
妹は発生三日後に横浜北部医療センターへ搬送
一時かなり危なかったけど生還してる
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何度も。
読み返した。
以前は。
確かに書いてあった。
妹は三日後に死亡。
避難所から病院へ運べなかった。
俺はそれを読んだ。
だから覚えている。
でも。
今は違う。
生きている。
「……消えた」
声が出た。
隣にいた神代さんが振り返る。
「何がだ?」
すぐには答えられなかった。
目の前にいる人の娘だ。
一年後。
本来なら死んでいた。
その未来が。
今。
消えた。
「神代さん」
「何だ?」
「娘さんの未来が変わりました」
神代さんの表情が止まった。
俺は以前見た未来を、ゆっくり説明した。
ダンジョン発生から三日後。
避難所。
搬送の遅れ。
間に合わなかった病院。
そして。
今表示されている未来。
神代さんは途中で一度も遮らなかった。
最後まで聞いてから、俺のスマホを見る。
もちろん。
神代さんには何も映っていない。
それでも。
「今は?」
「生きています」
俺は答えた。
「三日後に、この病院へ運ばれて助かる未来になっています」
長い沈黙があった。
神代さんは視線を病院へ戻した。
夜の建物には、まだたくさんの明かりがついている。
「今日、あの扉を開けなかったからか?」
「それだけじゃないと思います」
俺は首を振った。
「扉を開けなかったから、この病院で前駆現象への対策が始まった。病院用の手順を作ることになった。設備を分散する話も出た。たぶん、それが一年間積み重なって……発生日にも、この病院が動いている未来になったんです」
一枚の扉を開けなかった。
ただそれだけでは。
一年後の一人の少女を救えない。
でも。
その判断が次の判断を生んだ。
それが施設を変え。
人を変え。
準備を変え。
一年後。
本来届かなかった病院まで。
一人の少女が届く未来になった。
神代さんはしばらく何も言わなかった。
やがて。
「佐伯君」
「はい」
「ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、今はそれで十分だった。
◇
帰りの車内で。
俺はもう一つだけ確認した。
神代朔夜。
二〇三六年。
探索者ランキング。
表示されている名前は。
一位。
《神代朔夜》
変わっていなかった。
父親を失わなくても。
妹を失わなくても。
世界一位のままだ。
以前。
俺は怖かった。
家族を救えば。
神代が弱くなるかもしれないと。
未来の世界一位ではなくなるかもしれないと。
でも。
少なくとも今の未来では。
そんなことはなかった。
人は。
不幸にならなければ強くなれないわけじゃない。
それが。
未来掲示板に。
はっきり数字で出ていた。
ただし。
経歴を確認すると。
一つだけ。
まだ変わっていない記録がある。
《母・神代美沙 ダンジョン本発生時の横浜崩落事故にて死亡》
父親の失踪は消えた。
妹の死亡も消えた。
でも。
《母・神代美沙 ダンジョン本発生時の横浜崩落事故にて死亡》
父親の失踪は消えた。
妹の死亡も消えた。
それでも、母親の記録だけは残っている。
おかしい。
神代さんには、最初に会った日にこの未来まで伝えてある。あの人も聞いただけで終わらせず、家族を横浜から避難させる準備を始めている。
それなのに、十九日前からこの一行だけが消えない。
未来を知っただけでは変わらない。それはもう分かっている。
けれど神代さんは、すでに未来を変えるために動いている。
なら。
まだ何かある。
発生日より前に横浜を離れる計画そのものが実行できなくなるのか。
美沙さんだけが、何らかの理由で横浜へ戻るのか。
それとも俺たちが、死亡につながる条件を一つ見落としているのか。
今はまだ分からない。
ただ、一つだけはっきりした。
神代さんが妻を見殺しにしようとしているわけでも、俺たちが放置しているわけでもない。
娘の未来を変えたように。
美沙さんを死なせる原因も、見つけなければならない。
俺はスマホに残る一行を、もう一度見た。
《母・神代美沙 ダンジョン本発生時の横浜崩落事故にて死亡》
これは結果だ。
原因じゃない。
なら、まだ調べられる。
そのとき。
助手席に置いていた仕事用スマホが震えた。
神代さんからのメッセージだった。
『佐伯君。一つ相談がある』
続けて。
もう一通。
『息子の朔夜が、最近私が関わっているアーク・フロンティアについて知りたがっている』
俺は画面を見たまま。
数秒。
固まった。
さらに三通目。
『未来のことは話していない。ただ、今日の病院の件を少し話したら、「一度その会社の人と話してみたい」と言っている』
思わず。
未来掲示板と仕事用スマホを見比べた。
十九日前。
俺は喫茶店から。
未来の世界一位を見ているだけで終わった。
本人の人生へ。
未来を理由に勝手に踏み込まないために。
あの日は。
話しかけなかった。
その相手が今。
自分から。
こちらを見始めている。
俺はすぐには返信しなかった。
未来でアークへ入るからでも。
世界ランキング一位だからでもない。
今度会うなら。
十九歳の自動車整備士志望として。
神代朔夜本人と話す。
そう決めてから。
神代さんへ返事を送った。
『ぜひお願いします。ただし、勧誘するかどうかは、会ってから決めます』
送信して。
少し考える。
やっぱり最後の一文は。
妙だったかもしれない。
相手は。
未来の世界一位なのだから。
けれど。
それでいい。
三枝拓真の正式加入まで。
あと四日。
病院向け退避手順は。
今日、作り始めたばかり。
そして。
未来の世界一位との。
初めての会話が。
ようやく始まろうとしていた。




