第28話 未完成の避難マニュアルを、十三施設が今日から使うことになった
二回目の避難訓練では、最初から正しい出口を使えなくした。
前日の訓練は、警報を聞いた従業員が普段使っている避難経路を通り、建物の外へ出るところから始まっている。問題になったのは、そのあと一人足りないと判明し、誰かが自分で探しに戻ろうとしたことだった。
だから今日は、もっと手前から壊すことにした。
「第一避難通路は使用不能。第二搬入口へ向かってください。ただし、途中で普段と違うものを見つけた場合は、その場で判断せず班の責任者へ報告してください」
神代さんの説明を聞き、二班目の従業員たちが倉庫を模した研修施設へ散っていく。
参加者は十七人。
今回は全員、昨日の訓練内容を知らない。
三枝さん自身がそうしてほしいと言ったからだ。
「昨日の奴らから答え聞いた状態で上手くいっても意味ないだろ。実際に何か起きたとき、みんな一回練習済みとは限らないんだから」
もっともだった。
俺たちは訓練を重ねれば重ねるほど、参加者側が慣れていくものだと思っていた。けれど本当に確認したいのは、「ルールを初めて聞いた人間でも使えるか」だ。
未来掲示板を使っている俺には、その考え方が妙に刺さった。
答えを知っている人間だけが助かる仕組みでは駄目なのだ。
午前十時。
訓練開始を知らせる警報が鳴った。
従業員たちは作業を中断し、事前に指定された第二搬入口を目指して動き始める。昨日より人数は少ないが、今回は通路の一部へ荷物を置き、普段の移動とは違う流れになるよう調整してある。
開始から四十秒ほど経ったところで、一人の男性が足を止めた。
「こんな扉、あったっけ?」
通路の壁に、一枚の扉がある。
もちろん訓練用だ。
昨日の夜、簡易パネルを壁へ固定し、本物の扉に見えるよう取っ手まで取り付けた。知っていればどうということはないが、何も聞かされていない人間から見れば、「こんなところに非常口があっただろうか」と迷う程度にはそれらしく作られている。
男性は一度周囲を見回したあと、取っ手へ手を伸ばした。
「開けないでください」
同じ班の女性が止めた。
「さっき言われたでしょう。普段と違うものがあったら報告するって」
「でも非常口かもしれないぞ。こっちのほうが外に近いだろ」
「非常口なら昨日まで見たことがあるはずです。今初めて気づいたなら、それ自体がおかしいでしょう」
男性の手が止まった。
俺は少し離れた監視場所で、そのやり取りを聞いていた。
正解だ。
けれど、喜ぶにはまだ早かった。
二人は扉を開けなかったものの、その場に留まってしまった。後ろから来た人間も何が起きているのか分からず、通路に人が溜まり始める。
三枝さんが腕を組みながら眉を寄せた。
「止まるのは正しい。でも後ろが詰まるな」
「異常を見つけた人が、その場で説明しようとするからですね」
瀬尾が記録へ入力する。
「報告役と避難継続を分けたほうがいいかもしれません。全員で確認していたら、一か所おかしいものがあるたびに止まります」
「あと、後ろから来た人には扉が見えてないんだよ。先頭だけが『なんか変だ』って止まると、後ろは単に前が遅いと思う。昨日の距離が伸びる現象でも同じことになるかもしれない」
三枝さんはそう言いながら、自分の職場で使われている誘導方法をいくつか挙げ始めた。
事故や荷崩れで通路を塞ぐときの合図。
フォークリフトが故障したとき、後続へ知らせる方法。
大型荷物を移動させる際、人を一か所に溜めないための決まり。
どれもダンジョンとは関係ない。
それなのに、少し言葉を変えるだけで今必要としている手順へ使えそうだった。
「新しい仕組みを一から考えるより、現場ですでに使ってるものを流用したほうが早いですね」
俺が言うと、三枝さんは少し不思議そうな顔をした。
「そりゃそうだろ。昨日まで普通に事故防止してたんだから、化け物が出たからって全部捨てる必要ないだろ」
その通りだった。
未来では探索者用の避難規則として完成しているものを知っていると、どうしても最初から特別な仕組みを作らなければならないような気がしてしまう。
でも今の世界には、すでに災害対応も、消防計画も、工場の安全管理も、病院の避難手順もある。
俺たちがやるべきなのは、それらを未来の知識で全部塗り替えることではない。
今まで存在しなかった危険だけを足すことだ。
◇
二回目の訓練は、三分十一秒で終了した。
昨日の四分四十六秒より一分以上短い。
ただし神代さんは、時間より記録用紙の別の欄を見ていた。
「残留者ゼロ。再侵入者ゼロ。未知の扉を発見した班も、最終的には別経路から全員退避できている。時間短縮より、こちらのほうが大きいな」
「でも途中で人が詰まりました」
三枝さんは満足していなかった。
「本当に空間がおかしくなってたら、あそこで止まってる間に後ろまで巻き込まれる可能性がある。異常を見つけた人間が報告に残って、他は進む形にしたほうがいいと思います」
瀬尾がすぐに記録へ追記する。
「報告者も一人では残さないほうがよさそうですね。二人一組にします?」
「それだと少人数の夜勤で人が足りなくなる。報告自体は端末から送れるようにして、基本は全員避難でいいんじゃないか?」
「通信が切れていたら?」
「そのときは外へ出てから報告する。現場に残る理由を増やすほうが危ない」
三枝さんの答えに、神代さんが頷いた。
「いいと思う。異常の詳細を確認することより、人が異常領域から離れることを優先する。観測は専門班があとから行えばいい」
俺は会話を聞きながら、昨日作った《第一版》へ赤字が増えていくのを見ていた。
すでに半分近く書き直されている。
昨日の夜、未来掲示板で二百八十三施設へ広がると知ったときには、この紙が完成形へ近づいているような錯覚があった。
全然違った。
現実では二日目でもう穴が見つかっている。
未来に残る完成版だけ見れば、その途中で何回失敗し、何人が「これだと使えない」と言い、何枚の紙が捨てられたのかまでは分からない。
「佐伯君」
神代さんに呼ばれて顔を上げる。
「御厨さんからだ」
差し出されたスマートフォンには、内閣官房危機管理調整室からの着信が表示されていた。
嫌な予感というほどではない。
ただ、御厨さんから直接来る連絡が世間話だったことは一度もない。
「佐伯です」
『訓練中だったかしら。申し訳ないわね』
「いえ、ちょうど一回終わったところです。何かありました?」
『昨夜、神代さんから共有してもらった退避手順について、相談があるの。あれを他の施設へ渡しても構わない?』
思っていた内容と違い、すぐには返事ができなかった。
「……もうですか?」
『もう、という反応になるのも分かるわ。こちらとしても、本来なら何度か実地検証して正式な手順へまとめたい。ただ、昨日の東京湾の件以降、監視対象を増やした結果、前駆粒子の小規模な変動が複数地点で確認され始めているの』
御厨さんの声から、冗談の気配が完全に消えた。
『現時点で緊急性が高いと判断している施設が十三か所。そのうち八か所は地下設備を持っている。物流施設だけではなく、病院、公共施設、地下駐車場も含まれるわ。何も起きない可能性もある。ただ、何か起きた場合に、今の私たちは職員へ何を指示すればいいのかすら決めていない』
十三施設。
昨日、俺たちは十九人相手に一回目の訓練をしたばかりだ。
「でも、あれはまだ完成してません。今日だけでもかなり修正が出ています」
『分かっている。だから正式な国家指針として出すつもりはないわ。監視協力を依頼している施設に、暫定的な安全情報として共有したいの』
答えに迷った。
不完全なものを渡して、それが原因で間違った行動を取られたら。
あとからもっと良いやり方が見つかったら。
未来掲示板を見れば、最終的にどうなったのか調べられるかもしれない。
けれど、それをやればまた順番が逆になる。
俺が黙っていると、隣にいた三枝さんが小声で尋ねた。
「どうした?」
通話を保留にはせず、俺は手で受話口を少し押さえながら事情を説明した。
「政府側が、昨日作った手順を十三施設へ配りたいそうです。でもまだ二日目でしょう。今日だけでも直すところが出てるし、このまま出すのは早すぎる気がして」
三枝さんは少し考えた。
俺はてっきり、慎重にしたほうがいいと言われると思っていた。
「じゃあ、完成するまでその十三か所には何も渡さないのか?」
「それも違うとは思いますけど……」
「だったら、今分かってることだけ渡せばいいだろ」
三枝さんは机の上にある資料を一枚取った。
「全部書こうとするから完成しないんだよ。見たことない通路に入るな。見覚えのない扉を開けるな。外へ出たあと勝手に戻るな。足りない人間がいても一人で探しに行くな。まずこれだけでも、昨日の俺よりマシだ」
最後の一言だけ、自嘲するように少し笑った。
「昨日の俺は全部やったからな。知らない通路に近づいて、人が残ってると思って戻って、あの化け物の前まで行った。紙一枚でも先に読んでたら、少なくとも同じ動きはしてなかったと思う」
神代さんも資料を見ながら口を開いた。
「暫定版と完成版を同じものだと考える必要はない。現時点で確度が高く、守ることで危険が増える可能性が低い項目だけを抜き出せばいい。観測方法や詳細な避難経路の設計は、検証後に追加すればいいだろう」
俺は二人の顔を見た。
未来を知っているせいかもしれない。
どうせなら十年後にも残る完成した答えを渡したいと思ってしまう。
でも。
一年後まで待って完成する百点のマニュアルと。
今日、誰かが知らない扉を開けないための五項目。
今必要なのがどちらかは、考えるまでもなかった。
俺は受話口から手を離した。
「御厨さん。全部は渡せません。今日までに安全性を確認できた最低限の項目だけにしてください。それと、必ず『暫定版であり、更新される』と明記してほしいです」
『具体的には?』
「今からまとめます。一時間ください」
『助かるわ』
電話を切ったあと。
三枝さんが呆れたように俺を見る。
「一時間って勝手に決めたけど、間に合うのか?」
「言ってから俺も思いました」
「社長ってもう少し考えて喋るもんじゃないのか?」
「最近それをよく言われます」
瀬尾が笑いながらノートパソコンをこちらへ向けた。
「もう作り始めてますよ。五項目なら一時間もいらないと思います」
仕事が早い。
こういうとき、本当に助かる。
◇
四十七分後。
《空間異常発生時 暫定退避要領》
という一枚の文書が完成した。
書いた内容は驚くほど少ない。
一、普段存在しない通路、扉、階段、空間を発見した場合は侵入しない。
二、目的地までの距離や見え方に明らかな異常を感じた場合、その経路を使用しない。
三、退避後は私物や残留者確認を理由に単独で建物へ戻らない。
四、所在不明者がいる場合、最終確認位置を責任者へ報告し、専門対応班の到着を待つ。
五、原因不明の生物を発見した場合は接近、捕獲、刺激を行わず、人命退避を最優先する。
未来の探索者から見れば、当たり前すぎる内容かもしれない。
けれど、今の世界では、まだ誰も一度も教わったことがない。
「これなら読めるな」
三枝さんが紙を見ながら言った。
「分厚いマニュアル渡されても、現場じゃ誰も覚えない。最初はこれくらいでいいんじゃないか」
「三枝さん、もう完全に作る側ですね」
「まだ入社してないからな」
「分かってます」
「その顔、忘れてただろ」
否定できなかったので黙っておいた。
文書は御厨さんへ送られ、その日の午後には十三施設へ配布された。
政府から施設側へ出された説明は、あくまで「近年確認されている原因不明の地下設備異常に伴う暫定安全情報」だった。
ダンジョン。
魔物。
異世界。
そうした言葉はまだ使われていない。
それでも今日から、十三施設では、何かがおかしいと思ったときに「開けない」「入らない」「戻らない」という共通のルールが使われる。昨日までゼロだったものが、一日で十三まで増えた。
◇
午後七時十六分。
二班目の訓練記録を整理し終え、俺たちが片づけを始めていたときだった。
瀬尾の端末から通知音が鳴った。
「御厨さんからです」
「追加修正ですか?」
「いえ……写真が来てます」
瀬尾の声が途中から変わった。
俺たちは自然と画面の周りへ集まった。
送られてきた画像は、施設の地下通路だった。
白い壁。
灰色の床。
蛍光灯。
奥には防火扉らしいものが見える。
何がおかしいのか、一瞬では分からなかった。
その下に御厨さんから短い説明が付いている。
《十三施設のうち一施設から報告》
《午後七時九分、地下二階設備通路で職員が発見》
《施設図面、施工記録、防火設備台帳のすべてに該当なし》
そして最後に。
《職員は本日配布した暫定退避要領に従い、扉を開けず退避済み》
俺は画像を拡大した。
通路の途中。
コンクリートの壁に。
古びた木製の扉が一枚だけある。
病院や公共施設の地下にあるには、明らかに不自然な形だった。
三枝さんが後ろから瀬尾の端末を覗き込む。
「……今日作った奴、もう使われたのか?」
「みたいです」
「どこの施設?」
瀬尾が追加情報を開く。
そこで。
俺の呼吸が一瞬止まった。
「横浜です」
神代さんが顔を上げた。
「横浜のどこだ?」
「市北部の総合病院。地下設備区画です」
横浜という言葉を聞いた瞬間、俺の頭には一人の名前が浮かんだ。
神代朔夜。
未来の世界ランキング一位。
俺が最初に見た未来では、ダンジョン発生当日の横浜崩落で母親を失い、その三日後には救助と搬送の遅れで妹まで失っていた男だ。
今日作った避難手順と、彼の未来に直接の関係があるとは限らない。
まだ一年近く先だ。
同じ横浜というだけだ。
それでも。
俺は未来掲示板を開いた。
検索欄へ施設名を入れる。
昨日までなら存在しなかったはずの記録が。
もう表示されていた。
---
【前駆現象史】最初に《開けなかった扉》ってどこ?
451:名無しの探索者
横浜北部医療センター地下
第六倉庫方式の暫定版が配布された初日
452:名無しの探索者
あれ配布から数時間後だろ
タイミングおかしすぎる
453:名無しの探索者
設備員が知らない木の扉見つけて
手順読んでたから開けずに全員退避したやつ
454:名無しの探索者
後の調査で扉の向こう前駆接続だったって判明してる
455:名無しの探索者
もし開けてたらどうなってたの?
456:名無しの探索者
分からん
だから開けなかったことに価値がある
457:名無しの探索者
この件から「未知領域は確認するな、隔離しろ」が正式採用された
458:名無しの探索者
第六倉庫方式、本発生前にどんどん育っていくんだよな
---
俺はそこでスクロールを止めた。
未来に答えはある。
でも今回は、扉の向こうに何がいるのかという答えを先に読む必要はない気がした。開けなければいいし、調べるなら人を近づけずに調べればいい。俺たちは八王子と横浜で、そのやり方をもう覚えている。
「佐伯君」
神代さんが俺を見る。
「行くのか?」
「はい。ただし今回は、誰も扉の前まで行かせません」
三枝さんが少し迷ったあと、口を開いた。
「俺も行っていいか?」
意外だった。
「訓練は?」
「今日の分は終わった。それに、自分たちで作ったルールが本物相手にどう使われるのか見たい。現場で使えないところがあるなら、明日の訓練までに直したい」
未来では。
三枝拓真がアークへ入るまで、あと四日と書かれていた。
けれど。
俺はもう少しだけ。
別の未来も見始めていた。
この人がアークへ入る前から。
アークのやり方そのものを作っている未来だ。
俺は頷いた。
「行きましょう。ただし、絶対に前へ出ないでください」
「昨日化け物の前に出た奴に言う言葉としては正しいな」
そう言って三枝さんが立ち上がる。
十三施設へ配った。
その日のうちに、一つ目が使われた。
そして。
開けなかった扉の向こう側を調べるため。
俺たちは再び横浜へ向かうことになった。




