第23話 世界五位は、建物を守る仕事をしていた
窓の向こうから、大阪の街が消えた。
暗くなったわけではない。
霧が出たわけでもない。
さっきまで道路を走っていた車も、向かいの建物も、空も、すべてが白とも灰色ともつかない何かに置き換わっている。
それ以上に異常だったのは、音だった。
大阪の中心部にあるオフィスビルなら、窓を閉めていても車の走行音やクラクション、街のざわめきが微かに聞こえている。
それが一瞬で消えた。
完全な無音だった。
「……始まった」
深町が青ざめた顔で呟いた。
神代はすぐに手元の観測器へ目を落とした。
「前駆粒子濃度五・八。まだ上昇している。空間異常は地下だけじゃない。建物の外周に沿って急速に広がっているぞ」
「瀬尾、外と連絡取れます?」
返事がない。
俺は振り向いた。
瀬尾は少し前まで、館内の避難状況を確認するため管理事務所の外へ出ていた。凛も一階出口付近で、避難してくる人たちが地下側へ入り込まないよう誘導している。
無線を呼ぶ。
「瀬尾、聞こえますか。凛も返事してください」
ノイズすらない。
スマホを見る。
圏外。
九条が窓際まで行きかけて、途中で足を止めた。
「触らないほうがいいよな?」
「絶対にやめてください」
「分かってる。聞いただけだ」
八王子や横浜で経験したことが、すでに俺たちの行動を変えている。
あのとき何も知らなかったら、誰かが窓を開けようとしたかもしれない。外が見えないなら近くで確かめようとしたかもしれない。
けれど今回は違う。
何が起きているか分からないからこそ、触れない。
近づきすぎない。
そして、未来で起きたことをそのまま再現しない。
「深町さん」
俺は、建物の中央で立ち尽くしている青年を見る。
「今、何が分かります?」
「……全部です」
「全部?」
「このビルです。地下二階から屋上まで、壁も床も階段も、どこが内側でどこから外なのかも……さっきよりはっきり分かる」
深町は胸元を押さえながら、苦しそうに息を整えた。
「でも変なんです。建物が分かるんじゃない。俺が、この建物を一つの箱として持ってるみたいな感じがする」
未来の《閉鎖領域》。
一定範囲を通常空間から切り離し、独立した領域として固定する能力。
深町は今、それを意図せずビル全体へ使っている。
未来では、この状態が八十一秒続く。
そのあと何がきっかけで戻ったのかまでは、まだ分からない。
けれど八十一秒を待つ気にはなれなかった。
すでに俺たちが介入したことで、事故そのものが二時間も早まっている。
未来の八十一秒が、今も八十一秒だという保証なんてどこにもない。
「佐伯君」
神代が低い声で呼んだ。
「地下の反応が急激に強くなっている。この閉鎖現象は深町君だけで起こしているものではないかもしれない。地下の前駆領域と、彼の能力が干渉している可能性がある」
「なら、深町さんをここから離せば――」
「それは危険だ。本人が『建物がついてくる』と感じている以上、移動させることで領域がどう変形するか予測できない」
八方塞がりに思えた。
深町を外へ出すこともできない。
このまま待つこともできない。
地下へ原因を確認しに行くなど論外だ。
未来掲示板を見る。
その選択肢が頭をよぎった。
けれど、今の未来はもう俺たちが来る前のものとは違っている。
元の歴史では、深町は一人で地下へ向かった。
今日は地下へ行っていない。
元の歴史では、十八時四十二分に事故が起きた。
今日は十六時四十二分より前から閉鎖が始まっている。
過去の攻略情報をそのままなぞれば、むしろ判断を誤るかもしれない。
だから俺は、目の前の深町に聞いた。
「深町さん。この建物を一つの箱として感じるって言いましたよね」
「はい」
「箱を小さくすることはできますか?」
深町がこちらを見る。
「小さく?」
「ビル全部じゃなくて、一部分だけを『内側』にするんです」
九条がすぐ意味を理解した。
「地下だけ閉じ込めるのか?」
「できるならです。今は建物全部が深町さんの能力に巻き込まれてる。でも、この人の仕事はビル管理なんですよ」
俺は深町を見る。
「この建物の区画、全部分かりますよね?」
「設備図面なら頭に入ってますけど……」
「地下二階の電気室。そこだけを一つの建物みたいに考えられませんか?」
深町の表情が変わった。
「電気室だけ……」
そこへ神代が口を挟む。
「試す価値はある。現状でも異常の中心は地下二階だ。閉鎖範囲をそこまで縮められるなら、地上部分を通常空間へ戻せる可能性がある」
「でも、地下で火災が起きてるんですよね」
「だからこそ先に電源を落とす」
深町の顔から迷いが消えた。
能力者としてではない。
設備管理の人間として。
「管理盤から地下二階の幹線だけ切れます。消防設備系統は別なので生かせます。発煙元が配電盤なら、まず負荷を切ってから主遮断器を落とすべきです」
「遠隔でできます?」
「ここからできます」
深町が管理端末へ向かった。
さっきまで青ざめていた人間と同じとは思えないほど、手順に迷いがない。
監視画面を開き、電気系統を確認する。
「テナント側は避難中だから、地下設備の負荷を落としても問題ない。ポンプ系統……切ります。空調系統、停止。地下二階一般電源、停止」
画面の表示が一つずつ変わる。
最後に。
主遮断。
「落とします」
深町が操作した。
建物の一部照明が消える。
非常灯が点いた。
「完了しました」
「じゃあ次です」
俺は深町を見る。
「地下二階の電気室だけを、意識してください」
「簡単に言いますね」
「すみません。他に言い方が分からなくて」
深町が少しだけ笑った。
「俺もやり方なんて分かりませんよ」
「でも、電気室なら分かるんでしょう?」
「……分かります」
彼は目を閉じた。
「壁の位置も、防火扉も、ケーブルの貫通部も、天井の高さも全部分かる。月に何回も点検してる場所ですから」
それだ。
未来で世界五位になる理由。
能力を得たから、突然何もないところから強くなったわけではない。
この人は能力を得る前から、建物の内側と外側を考える仕事をしていた。
防火区画。
電気室。
機械室。
人が安全に使える空間を作るため、どこで区切り、どこを閉じれば被害を広げずに済むかを学んできた。
《閉鎖領域》という能力に。
深町律ほど向いている人間は。
もしかすると最初からいなかったのかもしれない。
「電気室は一つの防火区画です」
深町がゆっくりと言った。
「廊下とは防火扉で分かれてる。壁も床も耐火構造。ここからここまでなら……一つの箱として考えられる」
「ビル全体じゃなくて、そこだけです」
「やってみます」
次の瞬間。
神代の観測器が大きな警告音を鳴らした。
「反応が動いた!」
俺たちは窓を見る。
白く消えていた景色の端に。
色が戻った。
最初は細い線だった。
それが左右へ広がり、向かいの建物の輪郭が見える。道路が戻り、車が現れ、夕方の大阪の空が窓いっぱいに広がっていく。
同時に。
街の音が一気に戻ってきた。
クラクション。
車。
人の声。
そして俺のスマホが大量の通知を受信する音。
「戻った……」
九条が窓の向こうを見て呟く。
深町は目を閉じたままだ。
「まだです」
声が震えている。
「地下だけ、残ってます。電気室が……外から切れてる」
神代の観測器を確認する。
「前駆反応の範囲が縮小している。建物全体から地下二階の一角へ……本当に領域を狭めたぞ」
俺はすぐ無線を取った。
「凛、聞こえますか!」
『聞こえます! 佐伯さん!?』
久しぶりに聞いた声のように感じた。
「そっちは無事ですか?」
『無事です。突然ビル全体が見えなくなって、瀬尾さんと外に出てた人たちで大騒ぎしてました! 中はどうなってるんですか?』
「深町さんが止めてます。残ってる人は?」
『七階に三人、六階に二人。避難途中で建物が消えて動けなくなってたみたいです。今また降り始めてます』
五人。
未来では。
おそらくその人たちも。
八十一秒間、一緒に消えていた。
今日は。
もう外へ出られる。
「全員そのまま避難させてください。地下には絶対に近づかないで」
『分かりました!』
通信を切ったあと。
俺は深町を見る。
額に汗が浮いている。
「体調は?」
「頭が……ちょっと重いです。でもまだ大丈夫」
「もう十分です。地下の領域も解除できますか?」
「分かりません」
「なら無理にやらないでください。地上が戻った時点で目的は達成してます」
深町が苦しそうに笑った。
「さっきから、そればっかりですね」
「何がです?」
「何か起こせじゃなくて、やめろとか休めとか」
「最近、能力者に無茶させないルールが出来たので」
「誰が作ったんですか?」
「俺たちらしいです」
「らしい?」
「そこは後で説明します」
今は。
未来の話をしている場合ではない。
◇
地上へ残っていた最後の五人が避難を完了したのは、それから三分後だった。
建物の外には消防車が到着し、周辺には規制線が張られている。突然ビルが見えなくなったという通報も複数入っているらしく、これまでのように「原因不明の小さな事故」で済ませられる規模ではなかった。
俺たちも地上へ出ることになった。
ただし深町は。
出口の前で一度立ち止まった。
「まだ地下が分かる」
「外に出たら、ついてきそうですか?」
「今は……ないです。地下の電気室だけが、ここから遠く離れた箱みたいに感じます」
慎重に。
一歩。
建物の外へ出る。
何も起きない。
二歩。
三歩。
前駆粒子の観測値も大きく変化しない。
俺たちは全員、ようやく外へ出た。
夕方の大阪。
普通の街。
つい数分前まで。
そこから九階建てのビルが一つ消えていたなんて。
景色だけ見れば分からない。
深町は歩道まで来ると、力が抜けたように座り込んだ。
「深町さん!」
「大丈夫です。ちょっと……安心したら力抜けただけで」
「頭痛は?」
「あります。あと、すごく眠いです」
それ以上の聞き取りはやめた。
救急隊へ状態を伝え、本人の同意を取ったうえで医療機関で診てもらうことにする。
「能力の検査は今日はなしですからね」
俺が念を押すと、九条が横で呆れたように笑った。
「病院運ばれる奴にまで言うのかよ」
「言っとかないと、この人、設備のほう確認しに戻りそうじゃないですか」
深町が担架へ乗る前にこちらを見る。
「……戻っちゃ駄目ですか?」
「ほら!」
「仕事なんですけど」
「地下二階が別空間になってるかもしれない建物へ戻る仕事なんてありません!」
九条が腹を抱えて笑い、神代まで顔を背けた。
未来の世界五位。
今のところ。
相当な仕事人間らしい。
◇
地下二階の異常が消えたのは、午後五時十二分だった。
深町が病院へ搬送されてから、およそ二十分後。
本人が建物から十分に離れたことで能力が解除されたのか、前駆領域そのものが沈静化したのかはまだ分からない。
ただ、遠隔カメラで電気室が再び通常空間へ戻ったことが確認され、消防による安全確認も始まった。
発煙元は配電設備の一部。
未来掲示板にあった通りだった。
しかし未来とは違い。
大規模火災にはならなかった。
人的被害もなかった。
そして建物が通常空間から消えていた時間は。
「四十六秒です」
瀬尾が記録を確認しながら言った。
「最初に外との通信が切れてから、深町さんが地上部分を戻すまで四十六秒。未来の八十一秒より三十五秒短くなってます」
「しかも元の未来では自然に戻った可能性が高い」
神代が続けた。
「今回は深町君自身が閉鎖範囲を縮小した。能力を初回発現時に意識的に制御したと考えていいだろう」
「世界初ですか?」
「その表現をするなら、世界初の前駆覚醒能力の意識的制御だな」
ここ数日。
世界初が多すぎる。
人類が一年後に経験する予定だったものを。
俺たちが片っ端から前倒ししているような気がして。
少し怖くなった。
「佐伯君」
神代が俺を見る。
「今日のことについて、一つ決めておいたほうがいい」
「何です?」
「元の未来の発生時刻を、今後は安全基準に使わないことだ」
俺も。
同じことを考えていた。
未来では十八時四十二分。
今日の異常は、十六時台から始まった。
俺たちが現地へ来た。
深町が地下へ入らなかった。
電気設備を先に確認した。
たったそれだけでも。
出来事の順番が変わる。
「未来情報は、『何が起きる可能性があるか』を見るために使う。でも『いつ起きるから、それまでは安全』とは考えない」
「そうだ。君が未来を変えるほど、元の時刻表は信用できなくなる」
皮肉だった。
未来掲示板を使って助ければ助けるほど。
未来掲示板をそのまま信用できなくなる。
でも。
たぶん。
それでいい。
未来を変えるというのは。
そういうことだ。
◇
深町の検査結果を待つ間。
俺はようやく未来掲示板を開いた。
検索する。
《大阪中央第七ビル 前駆覚醒》
トップに出てきた記事は、すでに変わっていた。
『〖歴史資料〗大阪第三前駆覚醒事案――《領域縮小》初成功』
元の未来にあった。
建物が八十一秒間消失した事故。
その記録は。
もうない。
代わりに。
別の歴史が出来ている。
『二〇二六年九月二十七日十六時四十二分頃、大阪市内のオフィスビルにおいて第三例目となる前駆覚醒が確認された』
『覚醒者・深町律はビル全体へ無意識に展開された閉鎖領域を地下二階電気設備区画まで縮小し、避難中だった五名を含む全館利用者の退避経路を復旧』
『人的被害なし』
俺は。
そこで一度。
画面を閉じそうになった。
人的被害なし。
たった五文字。
それを見るだけで。
大阪まで来た意味は十分だった。
けれど。
続きがある。
『この事例以降、アーク・フロンティアは前駆覚醒者への対応において、「能力そのものではなく、本人が能力発現以前から持つ専門技能・職業経験・身体感覚を制御訓練の基準にする」という方針を採用した』
「……なるほど」
俺がその内容を読み上げると、九条が眉を寄せた。
「何が?」
「深町さんが制御できたの、世界五位だからじゃなかったみたいです」
「じゃあ何で?」
「ビル管理の人だったからです」
九条が眉を寄せる。
「どういうことだよ」
「この人、能力が出る前から建物を区切って考えるのが仕事だった。防火区画とか電気室とか、ここからここまでが一つの設備区画だってずっと理解してた。その経験が《閉鎖領域》の制御にそのまま使えたんです」
東雲小春も。
高校まで剣道をやっていた。
境界を認識して切る《断界》。
森川千紘も。
能力が本当に音に関係するなら、発現前から聴覚に大きな変化が出ていた。
そして深町律は。
建物を守るための仕事をしていた。
未来では。
能力名やランキングばかりを見ていた。
でも。
その力を使うのは。
能力を得る前から生きてきた一人の人間だ。
そこを無視して。
能力だけ訓練しても。
たぶん上手くいかない。
「これ、東雲さんにも使えそうですね」
瀬尾が言った。
「能力を無理やり覚えさせるんじゃなくて、本人が今までやってきたことから使い方を探す?」
「そういうことだと思います」
未来の攻略情報を。
ただ過去へ持ってくるんじゃない。
現在の本人と組み合わせて。
今の時代に合った攻略法へ作り直す。
それが。
俺たちのやることなのかもしれない。
◇
さらに未来掲示板を読み進める。
『深町律、同年十月よりアーク・フロンティア前駆現象対策部へ技術協力』
「十月……」
未来ではもっと後に入るはずだった。
神代朔夜。
東雲小春。
そして今度は深町律。
俺たちが歴史を変えるたび。
アークに集まる時期が早くなっている。
ただし。
今すぐ勧誘するつもりはない。
深町には仕事がある。
今日まで守ってきた建物も。
同僚もいる。
協力してくれるなら。
そこからでいい。
未来の所属欄へ合わせるために。
現在の人生を無理やり曲げる必要なんてない。
俺はランキングを開いた。
世界一位、神代朔夜。
世界二位、九条蓮司。
世界三位、白石凛。
世界四位、東雲小春。
世界五位、深町律。
未来の世界上位五人。
これで。
全員と。
現在のアーク・フロンティアがつながった。
まだ正式な所属ではない人もいる。
能力すら目覚めていない人もいる。
でも。
一年前。
本来なら互いの存在すら知らなかった人間たちが。
すでに。
同じ未来へ向かい始めている。
俺は少しだけ笑った。
「何だ?」
九条に聞かれる。
「いえ。最初にランキング見たときは、五人集めるなんてとんでもない話だと思ってたんです」
「集まったじゃねえか」
「まだ集めてませんよ。つながっただけです」
「似たようなもんだろ」
「違います」
今なら。
その違いが分かる。
人を集めることと。
人が集まれる場所を作ることは。
たぶん。
全然違う。
アーク・フロンティアが世界最強になるなら。
後者でありたい。
そう思いながら画面を閉じようとしたところで、新しい通知が表示された。
『未来情報が更新されました』
ここ数日。
この表示を見るたび。
嫌な予感しかしない。
「今度は何だよ」
九条も同じことを思ったらしい。
「まだ開いてません」
「じゃあ開くな」
「そういうわけにもいかないでしょう」
通知を押す。
表示されたのは。
ランキングでも。
前駆覚醒でもなかった。
『〖歴史〗二〇二六年十月――日本政府が初めて《前駆覚醒者》の存在を認識した経緯』
俺は黙った。
俺がタイトルを読み上げると、隣の九条が眉をひそめた。
「政府?」
「みたいです」
記事の日付を見る。
二〇二六年十月二日。
五日後。
その冒頭には。
一行。
こう書かれていた。
『すべての始まりは、大阪中央第七ビル消失未遂事案を撮影した一本の動画だった』
俺は窓の外へ目を向けた。
規制線の外。
消防車。
警察。
集まった人たち。
その中で。
何人もの人が。
スマホをこちらへ向けている。
今回ばかりは。
俺たちだけで。
秘密にしておくことは。
もう無理だった。




