第99話:エレナの誓い
一、 孤独な巡礼と、泥に散る血の跡
ズリッ……、ズリッ……。
忘却の深淵、その西側に位置する廃墟の亀裂。
原初マナが毒のように澱み、岩肌から噴き出す硫黄の蒸気が視界を奪う闇の中で、元・最高位聖騎士長エレナ・ルミナスは、死に瀕した肉体をただ自身の執念のみで前へと動かしていた。
両腕は複雑骨折を起こし、関節は不自然に外れ、二本の鉛の棒のように胸元で力なく垂れ下がっている。
手足の感覚はすでに薄れ、一歩擦り寄せるたびに、破れた皮膚と肉の隙間に尖った黒い岩片が食い込み、生々しい激痛が脳髄を直接突き刺した。
だが、エレナは叫ぶことすらもしなかった。
吐き出す息は常に血の混ざった浅い喘ぎであり、彼女が通った後ろには、途切れ途切れの赤い血の線が泥の上に刻まれ続けていた。
(……倒れるな……。膝を突くことなど……許されない……ッ)
エレナは、腫れ上がった目蓋を必死に押し開き、かすむ視界の先を凝視した。
彼女は、自分自身の醜悪な無力さを知っていた。
三使徒との激戦において、自分は「不滅の盾」を自称しながら、アルの命を護り切ることができなかった。
己の愛剣『星霜』は、メリエルの神威とバアルの概念封殺の前に悲鳴を上げて砕け散り、自身は素手で敵に挑むという暴挙の果てに、両腕の骨を粉砕されて地面にのたうち回る破目となったのだ。
神の理不尽な攻撃の前に、自分の背負ってきた誇りなど、ただの脆い紙細工に過ぎなかった。
もしあの崩落が起きなければ。もしアルが土壇場で機転を利かせ、自分たちにあの不格好で温かい泥スープを飲ませてくれなければ……自分はとっくに冷たい屍となって、泥の中で朽ち果てていたはずなのだ。
(アル殿は……包丁を折られ、熱を奪われながらも、一度として『諦める』という選択をしなかった。……カルム殿もまた、自らの右腕を炭化させ、マナを失いながらも……相棒としての背中を護るために、独り修羅の地獄へと足を踏み入れられた……)
エレナの青い瞳の奥で、静かな、しかし決して消えることのない【灼熱の火種】が揺らめいた。
相棒であったカルムは、もうここにはいない。
自らのマナ回路を焼き切り、自慢の右腕を失った彼は、さらなる強さを求めて忘却の深淵の最深部へと消えて行った。
アルの背中を、横で支えていた最大の火力が、今は不在なのだ。
ならば——誰がアルを護るのか。
誰が、あの無垢で優しい少年料理人が、再び世界に食卓を取り戻すまでの間、あらゆる脅威をその身で受け止め、踏み止まらねばならないのか。
(……私だ)
エレナは、血で固まった奥歯を噛み締め、両膝を泥に突き立てながらも、上身を起こした。
(カルム殿が不在の今……私が、あの少年の唯一無二の盾とならねばならない。……二度と、あのような惨めな姿でアル殿を泣かせるわけにはいかないのだッ!)
二、 古代の記憶と、封印の神殿
エレナが目指していた場所は、当てのない彷徨の果てにあるものではなかった。
かつて最高位聖騎士長として、教国の最深部に保管されていた『禁忌の秘録』を閲覧した記憶。
そこに記されていた、教国ルミナが成立する以前——【古代神聖帝国】の時代に存在したとされる、最初の不滅の騎士たちの遺跡。
主神アルファが提示した「抑圧と静止の理」に従う以前の人間たちは、己の魂と血を直接武具に通わせ、神の理不尽と戦っていたという。
教国はそれを「神への不敬なる異端」として歴史から抹消し、地下深くに封印した。
ズズズ……ッ。
岩盤の亀裂を通り抜けた先。
エレナの前に現れたのは、原初マナの青白い蒸気に包まれた、巨大な黒曜石の神殿であった。
地上を覆う幾何学的な白亜の建築とは真逆の、無骨で、荒々しく、しかし生命の力強さに満ちた異形の建造物。
その入口には、巨大な盾を象った黒い石碑が立ち並び、碑文には太古の文字でこう刻まれていた。
『――不滅とは、壊れぬ鎧の事にあらず。……護るべき者の為に、幾度壊れようとも立ち上がり続ける【魂の剛毅】をこそ、不滅と呼ぶ――』
「……『不滅』の、真義か……」
エレナの唇から、かすかな溜息が漏れた。
彼女はこれまで、主神アルファから賜った『星霜の聖剣』と『白磁の甲冑』という、与えられた物質の頑強さに頼り切っていた。
「壊れない金属」を纏っていたからこそ、自分は不滅の盾であると錯覚していたのだ。
だが、使徒の神威によって金属が砕かれた時、彼女の「不滅」も同時に砕け散った。
それは物質の限界ではなく、彼女自身の「魂の依存」が引き起こした当然の敗北であった。
(星霜が砕けたのは……私が、剣の持つ力に甘えていたからだ。……本当の盾とは、物質の硬さにあらず。……アル殿を護り抜くという、この魂の強度そのものだッ!)
エレナは、折れた両腕を胸元に不自然に引き寄せたまま、重い黒曜石の神殿の扉へと、自身の身体ごと叩きつけるようにして押し入った。
ガギィィィィンッ……!
地響きとともに、古代の封印が破られ、神殿の内部から重厚で古びたマナの圧力が溢れ出した。
三、 真理の試練と、魂の肉体化
神殿の内部は、静寂に満ちていた。
中央に佇むのは、装飾の一切を排した、黒く重厚な【巨大な大盾】の形をした石像。
そして、その石像の足元には、数千年の時を経てもなお、冷めることのない【原初の練成陣】が、淡い緋色の光を放って回転していた。
『――汝、神の与えし装具を失いし者よ――』
頭上に、意志を持った古代のマナの記憶(残滓)が、地響きのような声音となって響き渡った。
『――神の理に抗い、己が身を以て誰かを護らんと欲するか。……ならば、示すが良い。……汝の【魂の強度】を。……この練成陣は、汝の肉体と精神を薪とし、真なる不滅の器を鋳直す試練の場なり――』
『――ただし、試練に耐えかねれば、汝の魂は破砕し、二度と輪廻の環へは戻れぬ。……壊れし腕のまま、死を選ぶか。それとも……――』
古代の意志が発する問いかけに対し、エレナは迷うことなく、一歩前へ踏み出した。
「問いかけるまでもない」
エレナの青い瞳に、迷いの色は微塵もなかった。
「私は……自らの不甲斐なさゆえに、大切な仲間を危険に晒した。……アル殿の作る温かな食卓を、教国の冷たい理不尽から護ると誓ったのだ。……今更、死など恐れるものかッ!」
エレナは、引き摺る足で、緋色に回転する原初の練成陣の真ん中へと、自らの身体を投げ入れた。
ズガァァァァァァァァァァァンッ!!!!
その瞬間。
練成陣から放たれたのは、エレナの激痛を数千倍に増幅し、彼女の肉体と骨、そしてマナ回路を分子レベルで一度解体する【再創生の大火】であった!
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
エレナの絶叫が、黒曜石の神殿にこだまする。
両腕の折れた骨が、無理やりに引っ張られ、正しき位置へと整列させられていく。
砕けた関節に原初マナの高密度結晶が滑り込み、彼女の断裂した筋肉と神経を、激しい火花とともに再結合していく。
肉体を一度壊し、再構築する凄まじい苦痛。
通常の人間であれば、最初の数秒で精神が耐えきれずに発狂し、ショック死するレベルの暴威。
だが、エレナの意識は、暗転することすら許されなかった。
(耐えろ……っ! この程度の苦痛……! アル殿が包丁を折られ、血を吐いた痛みに比べれば……何ほどのことがあろうかッ!)
エレナの脳裏に、アルの笑顔が浮かぶ。
ガレアの街で、スラムの泥の中で、そしてこの忘却の深淵で……いつでも自分たちを思いやり、温かいスープを作ってくれた、あの小さな少年料理人の姿。
『エレナさん。君が盾になってくれたから、僕たちは生きてるんだよ』
アルの言葉が、彼女の魂を支える絶対の柱となる。
(カルム殿が不在の今……私が折れることは、アル殿の死を意味するのだ!……私に集え、原初のマナよ! 私の血肉となりて、神の理不尽を跳ね返す【絶対の盾】となれぇぇぇぇぇッ!!)
四、 騎士の誓いと、真なる不滅の芽吹き
オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
エレナの全身から、かつての青白銀の神聖マナではなく、彼女自身の魂と血が原初マナと融合した【真白銀と緋色の極光】が爆発的に吹き上がった!
練成陣が激しく明滅し、神殿中央の巨大な石像が、彼女の放つ魂の強度に反応して、バキバキと音を立てて崩れ落ちる。
石像の内部から姿を現したのは——主神アルファの与えた華美で繊細な『星霜の聖剣』などではない。
無骨で、極厚で、あらゆる攻撃を受け止めるために削り出された、黒曜石と原初神聖金属の混ざり合う【真なる不滅の大盾】。
バキィィィィィィィィィンッ!!
練成陣の光が収束し、エレナの身体が、神殿の石畳の上に着地した。
「……ハァ……ハァ……ハァ……っ」
エレナは、ゆっくりと両手を前に突き出した。
動く。
先ほどまで粉々に砕け、垂れ下がっていた両腕が。
原初マナによる肉体再創生を経て、かつてよりも遥かに頑強で、密度の高い、鋼のような筋肉と骨格を伴って完全に完治していた。
さらに、彼女の胸の奥底。
教国の神聖回路とは異なり、彼女自身の命とアルへの誓いが直接練り上げられた【原初不滅回路】が、脈打つように強烈な熱を帯びて循環を始めていた。
「これが……魂の……力か……」
エレナは、ゆっくりと立ち上がり、目の前に鎮座する『真なる不滅の大盾』の把手を、再生した両手で固く握り締めた。
ズシリ……ッ。
手に伝わる、圧倒的な質量と重厚感。
それは、かつての星霜のような「与えられた美しさ」ではない。
彼女自身が血を流し、苦痛に耐え抜き、誰かを護るという誓いを立てたからこそ、彼女の魂に引き寄せられた「本物の盾」であった。
エレナは、大盾を己の左腕に装着し、深く、深く息を吐き出した。
彼女の青い瞳には、迷いも、敗北の傷跡も、何一つ残されていなかった。
そこにあったのは、己の限界を突き抜け、真の不滅の騎士として覚醒した者だけが宿す、不屈の輝き。
「カルム殿……。聞こえるか」
エレナは、静寂の神殿の中で、姿なき相棒に向かって言葉を紡いだ。
「君が己の炎を極限まで鍛え直すために、孤独な修羅の道を選んだように……私もまた、己の魂を鋳直し、真の盾を手に入れた」
エレナは大盾を床に突き立て、重厚な地響きを鳴らした。
「君が戻るまでの間……いや、君が戻ってきてからも。……アル殿の背中は、このエレナ・ルミナスが絶対に誰にも触れさせん。……神の理不尽が襲いかかろうとも、この盾が破られることは二度とないッ!」
五、 誓いを胸に、再開の地へ
エレナは、黒曜石のマントを翻し、神殿の出口へと足を進めた。
彼女の身体を包むのは、かつての壊れやすい白磁の甲冑ではなく、彼女の魂の熱そのものが実体化したような、無駄のない黒銀の騎士衣。
両腕には、いかなる神威の衝撃をも殺し、分散させる原初の概念防壁が常時展開されている。
敗北は、彼女を壊さなかった。
どころか、与えられた偽りの強さを剥ぎ取り、彼女を「本当の不滅の騎士」へと進化させるための、必要な下ごしらえに過ぎなかったのだ。
(アル殿……。待っていてくれ)
エレナの真理の目は開いていない。
しかし、覚醒した彼女の魂の感応は、忘却の深淵の果てで、アルが仲間たちと共に『古代の厨房』へと到達したことを、かすかなマナの脈動を通して感じ取っていた。
(君が最高の包丁を手に入れ、自らの炉に再び火を灯すまで……私は君の不滅の城壁となろう。……そして、カルム殿が戻った時、胸を張って彼に背中を預けられるよう……私は走り続けるッ!)
カルム不在の絶望を、己の覚悟で完全に塗り替えたエレナ・ルミナス。
彼女の足取りには、先ほどまでの悲壮感は微塵もなかった。
あるのは、大好きな仲間たちの食卓を護るという、絶対の誇りと騎士の誓いのみ。
暗黒の深淵を切り裂き、気高く覚醒した不滅の盾が、少年料理人の元へ向かって力強く駆け出していく。




