第100話:必ず再会する場所で
一、 星の心臓部、伝説の厨房遺跡
忘却の深淵、その最深層付近に横たわる巨大な地底湖。
原初マナが荒れ狂う猛毒の空間にあって、その湖の周辺だけは信じられないほどに清澄な空気が満ちていた。
青白く発光する地下水面に反射するのは、湖の中央にある小島にそびえ立つ、超巨大な黒曜石の建造物——太古の神話時代に作られたとされる【巨大厨房遺跡】の威容であった。
「……すごい。本当に……厨房だ」
少年料理人アルは、セリアに背負われていた機甲素体オルタを共に支えながら、その小島へと続く石橋をゆっくりと渡り切った。
眼前に広がるのは、見上げるほどに巨大な石の竈。その内部には、星の核から直接引き込まれた【原初のマグマ】が、静かに、しかし途方もない熱量を持って赤熱している。
周囲には、巨大な獣の骨から削り出されたようなまな板や、見慣れぬ古代金属で鋳造された調理器具の残骸が散乱していた。
壁面には、名も知らぬ古代文字と壁画が刻まれており、そこには「命を調理し、星の理を紡ぐ者たち」の姿が描かれている。
「アル様……。ここは、教国の歴史書にも一切記されていない場所です。……神がこの世界を管理し始めるよりもずっと昔、世界を『調理』していた者たちがいたということでしょうか」
新・聖騎士長セリアが、息を呑んで周囲を見渡した。
彼女の青い瞳に映る遺跡は、教国の無機質な白亜の神殿とは全く異なる、野性的で、生命の躍動感に満ち溢れた力強い空間であった。
『――――環境分析。……異常なマナの高密度圧縮ポイントを検出。……マスター・アル、あの巨大な竈の中心に……とてつもない質量を持つ【特異点】の反応があります』
オルタのルビー色の瞳が点滅し、合成音声が遺跡の最奥を指し示した。
アルの【真理の目】もまた、その一点を捉えていた。
黄金に輝く瞳の奥で、無数の因果の糸が絡み合い、最終的に一つの小さな、しかし爆発的な光の塊へと収束しているのが視える。
それは、アルが探し求めていたもの。
三使徒の神威によって叩き折られた『黒鉄の包丁』に代わる、神の法則(理不尽)すらも綺麗に解体できる【最高の包丁の素材(古代神聖金属の原核)】。
そして、枯渇して冷え切ってしまったアルの胸の『炉』を、再び限界を超えて燃え上がらせるための【原初の火種】が、そこに眠っているのだ。
「……うん。視えるよ、オルタ。……僕が探してたものが、あそこにある」
アルは、胸元に大事に結びつけた『折れた黒鉄の包丁の柄』をギュッと握り締めた。
「でも、その前に……」
アルは足を止め、ゆっくりと背後——自分たちが渡ってきた石橋の向こう側、濃密な暗闇の深淵へと視線を向けた。
二、 帰還する不滅、泥の中の再会
ガションッ……! ズシンッ……!
アルが視線を向けた暗闇の奥から、規則正しく、そして恐ろしいほどに重厚で力強い足音が響いてきた。
「……何者ですか!?」
セリアが、反射的に落ちていた金属の破片を構え、アルの前に立ち塞がる。
魔物か、それとも使徒の追手か。
だが、アルの顔には恐怖の色は微塵もなかった。
彼の『真理の目』は、暗闇の奥から近づいてくるその足音の【因果の糸(体温)】を、誰よりも正確に読み取っていたからだ。
「セリアさん、大丈夫だよ。……帰ってきたんだ」
アルの言葉と同時に、原初マナの青白い蒸気を切り裂いて、一つの影が姿を現した。
「……待たせたな、アル殿」
その声は、深淵の暗闇を打ち払うような、気高く、澄み切った響きを持っていた。
「エレナさんッ!!」
アルの漆黒の瞳から、嬉し涙がパッと弾けた。
石橋の向こうから歩みを進めてきたのは、かつての脆い白磁の甲冑を捨て去り、黒銀の騎士衣を身に纏ったエレナ・ルミナスの姿であった。
彼女の両腕は、先ほどまで複雑骨折で垂れ下がっていたというのに、今は鋼のように力強く完治し、その左腕には無骨で重厚な【真なる不滅の大盾】がしっかりと装着されている。
彼女の全身からは、教国の神聖マナではなく、彼女自身の魂の熱と原初マナが融合した【真白銀と緋色の極光】が、静かに、しかし圧倒的な密度で放たれていた。
「エレナ……先輩……! そのお姿は……それに、その大盾は……っ」
セリアが、信じられないものを見るように目を見開いた。
彼女が知る最高位聖騎士長エレナ・ルミナスよりも、今の彼女は遥かに強靭で、本物の【騎士(守護者)】としての威圧感を放っていたからだ。
「セリア……。お前も、アル殿のスープに魂を救われたのだな。……かつての愚かな教律は、もうお前の目には宿っていない。……見事な面構えになったではないか」
エレナは、セリアの顔を見て、優しく、しかし誇り高く微笑んだ。
エレナは石橋を渡り切り、アルの前に片膝を突いた。
「アル殿……。私は、もう二度と君の背中で、無様に剣を折られるような真似はしない。……己の魂を鋳直し、神の理不尽すらも跳ね返す、真なる盾を手に入れてきた」
エレナは、己の左腕にある大盾を、トンッ……と静かに地面に響かせた。
「カルム殿が不在の今……君が新しい包丁を打ち直し、再びその炉に火を灯すまで。……いや、その後も永遠に。……私が、君の『最高の厨房』を護り抜く不滅の城壁となろう」
その誓いは、ただの言葉ではなかった。
エレナの魂から放たれる熱が、アルの身体を優しく、力強く包み込み、先ほどの敗北の絶望感を綺麗に洗い流してくれた。
「……うん……っ! おかえり、エレナさんッ!」
アルは、泣きながらエレナの首に抱きついた。
エレナも、傷ついたアルの小さな背中を、再生した両腕で力強く、愛おしそうに抱きしめ返した。
一度は絶望の泥水の中でバラバラになりかけた絆。
それが今、己の無力さを骨の髄まで噛み締めた上で、さらなる強靭な鋼となって、この伝説の厨房遺跡で再び結び直されたのだ。
三、 遥か彼方の修羅、魂の共鳴
エレナの帰還という絶対的な安心感を得て、アルの胸の奥底で、完全に冷え切っていたはずの『炉』が、トクン……と小さな、しかし確かな鼓動を打ち始めた。
仲間がいる。
自分の帰りを、自分の作る食卓を待ってくれている人たちがいる。
それが、アルにとって何よりの【着火剤(立ち上がる理由)】なのだ。
(カルム……)
アルは、エレナの肩越しに、忘却の深淵のさらに暗く、深い奥底へと視線を向けた。
ここにはいない、もう一人の大切な相棒。
自らのマナ回路を焼き切り、右腕を炭化させてまで、アルの背中を護るために『最強の炎』を求めて地獄へ向かった男。
彼は今、どこで、どんな極限の試練と戦っているのだろうか。
――その頃。
忘却の深淵、アルたちのいる地底湖からさらに数千メートル下層。
星の核が直接露出し、空気がマグマのように沸騰する【究極の焦土】において。
「オオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムの、血を吐くような咆哮が轟いていた。
彼の手には、武器はない。マナ回路もない。右腕は炭化してぶら下がっているだけ。
しかし、彼の周囲には、教国の聖騎士一個大隊でも敵わないような『原初の魔物』の死骸が、何十体も山のように積み重なっていた。
「……ハァ……ハァ……っ……ハァ……っ」
カルムは、残された左拳を血で真っ赤に染めながら、荒い息を吐き出していた。
彼の左目には、極限の死地を潜り抜けた者だけが宿す、底知れぬ【真紅の修羅の光】が輝いている。
マナ(魔法)という便利なシステムを失ったことで、彼は逆に、己の肉体と魂の限界を引き出す純粋な『格闘術』と、生命力そのものを物理的な熱として放出する『魂の炎』を覚醒させつつあった。
『……グルルルルォォォォォォォッ!!』
新たな巨大な岩の魔物が、カルムの背後から襲いかかろうとする。
「……遅ぇよ、クソ雑魚が」
カルムは振り返ることすらなく、己の身体を極限まで捻り、左拳による裏拳を魔物の顔面へと叩き込んだ。
ゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
拳から爆発的に噴き出した真紅の魂の熱が、魔物の頭部を一瞬にして蒸発させ、その巨体を粉々に吹き飛ばした。
「……待ってろよ、アル。……神様ども」
カルムは、自らの血を舐めとり、不敵な八重歯を見せてニヤリと笑った。
「俺の火種は……もう、誰にも消せねぇくらいデカく育ち始めてるぜ。……必ず、最高に美味ぇ飯を食うために……お前の隣に帰ってやるからなッ!」
空間は離れていても。
彼らの魂は、同じ星の深淵で、同じ【反撃の誓い】を胸に、強烈に共鳴し合っていた。
アルの心には、カルムのその熱い鼓動が、確かに届いていたのである。
四、 特異点の胎動、神殺しの刃を求めて
「……行こう」
アルは、エレナから身体を離し、涙を拭って真っ直ぐに前を向いた。
その視線の先にあるのは、巨大厨房遺跡の最奥に鎮座する、あの巨大な竈と【特異点の光】。
「セリアさん。オルタ。……そして、エレナさん」
アルは、仲間たちを振り返り、力強く宣言した。
「ここが、僕たちの新しい厨房だ。……ここで、神様の理不尽を全部切り刻める【最高の包丁】を打ち直して……僕の胸の『炉』に、もう一度、誰も消せないくらい大きな火を灯すッ!」
「はい、アル様。……あなたの剣として、この命の限りお供します」
セリアが、敬礼の姿勢で深く首を垂れた。
『――――ワタクシの全システムを、マスターの環境構築(調理サポート)へ最適化します。……共に、世界を解体しましょう』
オルタが、ルビー色の瞳を力強く明滅させた。
「あぁ。君が包丁を握る時……このエレナ・ルミナスが、君の背中を、君の孤独を、君のすべてを護り抜こう。……我ら『最高の厨房』の反撃の狼煙を、ここから上げるのだッ!」
エレナが、真なる大盾を掲げ、気高く微笑んだ。
三人の仲間たちの言葉を受け、アルは大きく深呼吸をした。
胸元の折れた『黒鉄の包丁の柄』が、まるでアルの決意に呼応するように、かすかに、しかし確かに脈動するように温かさを増していく。
「よし……ッ!」
アルは、巨大な竈へと続く階段を、一歩、また一歩と力強く登り始めた。
完膚なきまでの完全敗北。
絶対的な戦力差の前に、一度はすべてを失い、絶望の泥水を舐めた彼ら。
だが、その敗北こそが、彼らに足りなかったものを教え、精神論だけではない、本物の【強さ】を掴み取るためのスタートラインであった。
神の法則が絶対だと言うのなら。
使徒の防御が完璧だと言うのなら。
それを真っ向からぶち壊し、綺麗に解体し、自分たちの温かい食卓という『新しい理』を世界に証明してやる。
教国ルミナの地上では、使徒たちの放つ神威によって、すべてが真っ白に漂白される【大氷期】が着実に進行し、世界は死の静寂へと沈みゆこうとしていた。
しかし、その冷たい世界の最深部、星の心臓である忘却の深淵において。
少年料理人アルと、不滅の盾エレナ。
そして、遥か彼方で己の魂を燃やす修羅の相棒、カルム。
彼らは、それぞれの死線と絶望を乗り越え、必ず再会する場所——神の理不尽を焼き尽くすための【究極の火蓋】を切るための準備を、いま、完全に整えようとしていた。
絶望から這い上がり、真の特異点として覚醒した者たちによる、世界をひっくり返す最大の反撃。
その壮絶なる決戦の足音は、静かに、だが確実に、冷たい世界の下から響き始めていたのである。




