第97話:残されたアルと仲間たち
一、 重い歩みと、暗闇の道標
ズリッ……、ズリッ……。
忘却の深淵。光が死に絶え、星の原初マナが毒のように渦巻く果てしない暗黒の底で、小さな足音が泥を擦る音だけが、等間隔に響いていた。
少年料理人アルは、自身の何倍もの重さを持つ二つの「命」を引きずりながら、過酷な岩場を歩み続けていた。
背中には、マナ回路を破砕され意識を失っている新・聖騎士長セリア。
そして腰には、引き裂いたエプロンの布をロープ代わりに結びつけ、機能停止した機甲素体オルタをソリのようにして牽引している。
「……ハァ……ハァ……ッ……ハァ……」
アルの呼吸は、すでに限界をとうに超えていた。
ただでさえ三使徒との激戦で全身の骨が軋み、筋肉は断裂しかかっているというのに、大人の女性一人と、金属でできた重い自動人形を同時に運ぶのは、マナを持たない彼にとって文字通りの地獄であった。
足を踏み出すたびに、両膝がガクガクと震え、爪先からは血が滲んで岩肌に赤い足跡を残していく。
(……重い……。でも……絶対に、立ち止まらない……)
アルは、額から滴る汗と血を拭うこともせず、ただ前だけを見据えていた。
彼の漆黒の瞳の奥では、【真理の目】が黄金の光を帯びて静かに回転を続けている。
この原初マナが荒れ狂う深淵は、普通に歩けば一瞬で致死量の毒素を吸い込み、あるいは突然噴出するマグマに飲み込まれてしまう極限環境だ。
だが、覚醒したアルの『真理の目』には、この狂った空間が巨大な【食材の構造】として視覚化されていた。
『あそこの岩の隙間からは、毒の強いアク(原初マナ)が噴き出している。……ここは避けて、右側の筋(気流の安定したルート)を通る』
『あの地面の色が変わっている部分は、熱が通り過ぎて焦げやすい(マグマの薄い地殻)。……踏まないように、迂回する』
アルは、世界を解体し、安全なルートを『下ごしらえ』するように見極めながら、一歩一歩、確実に行き先を選んでいた。
彼が目指しているのは、真理の目が捉えた遥か遠くの『特異点の光』。
神の理不尽すらも断ち切る最高の包丁を打ち直すための、伝説の金属と概念が眠る場所。
「……待っててね。僕が……絶対にみんなを、安全な場所まで連れて行くから……っ」
アルは、ズキズキと痛む折れた包丁の柄を胸に抱きながら、孤独な歩みを止めなかった。
二、 目覚める新聖騎士長と絶望の吐露
それからどれほどの時間が経っただろうか。
アルの体力が限界に達し、比較的マナの気流が穏やかな岩陰を見つけて、セリアとオルタをそっと下ろした時のことだった。
「……う……ぁ……」
アルの背中から下ろされたセリアが、小さくうめき声を上げ、ゆっくりと青い瞳を開いた。
「セリアさん! 気がついたんだね!」
アルが、疲れ切った顔にパッと安堵の笑みを浮かべて覗き込んだ。
セリアは、ぼんやりとした視界の中でアルの顔を捉え、次いで周囲の絶望的な暗闇と、立ち込める硫黄の匂いに気づいた。
「ここは……。私は……どうなったのですか……」
セリアは身体を起こそうとしたが、胸の奥に走る激痛に顔を歪め、再び石畳に倒れ込んだ。
「動いちゃダメだ、セリアさん。エノクの攻撃で、君のマナ回路はボロボロになっている。……ここは、奈落の底が崩落して落ちてきた、忘却の深淵だよ」
アルの説明を聞き、セリアの瞳に戦慄と、そしてすべてを諦めたような虚無の色が広がった。
「そう……ですか。私たちは、神の裁きによって地の底へと落とされたのですね。……エレナ先輩と、カルム殿は?」
「……二人は、強くなるために、一人で別の道へ行ったよ。僕たちは、また必ず集まるって約束したんだ」
アルは、寂しさを押し殺して気丈に答えた。
その言葉の意味を瞬時に理解したセリアは、自嘲するように乾いた笑いを漏らした。
「……なるほど。彼らは、使徒に打ち勝つ力を得るために、己を過酷な試練へ投じたのですね。……それなのに、あなたはなぜ、こんな私を背負って歩いているのですか?」
セリアの青い瞳が、鋭くアルを睨んだ。
「私は、かつてあなたたちを殺そうとした教国の犬です。しかも今はマナ回路を破壊され、歩くことすらできない、ただの重荷に過ぎない。……カルム殿たちが強くなるために足手まといを切り捨てたのなら、あなたも私をここに捨てていくべきですッ!」
セリアの言葉には、強烈な自己嫌悪と、絶望が込められていた。
教国の完璧な『神の剣』であろうとした彼女の誇りは、セラフィナに不用品として捨てられ、さらに三使徒の前に手も足も出ずに敗北したことで、完全に粉々に砕け散っていたのだ。
「私を捨てなさい、アル様……。私のようなバグの失敗作は、この暗闇で一人朽ち果てるのがお似合いなのです……っ」
セリアは、アルから顔を背け、石畳に涙をこぼした。
だが、アルはセリアの言葉に、少しも動じることはなかった。
彼は、セリアの頭を優しく撫でることもなく、ただ毅然とした、料理人としての真っ直ぐな声で言い放った。
「……食材を無駄にする料理人は、いないよ」
三、 泥水の中の食卓
「え……?」
セリアが、思いがけない言葉に目を丸くして振り返る。
「君はゴミなんかじゃない。……傷ついて、マナが出なくなったからって、君の『命』そのものが無価値になるわけじゃないんだ」
アルは、立ち上がり、岩陰の近くに転がっていた神聖金属の破片を拾い集め始めた。
「僕にとって、料理を作るってことは、命の可能性を最大限に引き出すってことだ。……君が自分で自分を『失敗作』だって言うなら、僕が君を、世界で一番温かくて、強い人間に『調理』してあげるよ」
アルは、そう言って、先ほどと同じように岩肌から削り取った原初岩塩と、道中で『真理の目』を使って安全を確認しながら採取してきた発光苔、そして灰色の粘性キノコを取り出した。
「ちょっと待っててね。今、ご飯にするから」
アルは、折れた黒鉄の包丁の柄——その根元に残ったわずかな鉄の破片を使って、キノコと苔を細かく刻み始めた。
トントン、トントン……。
刃が折れているため、切るというよりは潰すような不格好な音。だが、その音には、アルの『絶対に命を繋ぐ』という執念がこもっていた。
地下水を集め、岩の亀裂から噴き出す地熱に当てて煮込む。
マナがなくても、工夫次第で熱は生み出せる。
アルは『真理の目』で食材の「アク」を丁寧に取り除き、少ない素材の旨味を極限まで引き出していった。
数十分後。
「はい、お待たせ。……味は保証できないけど、身体は温まるよ」
アルは、平らな石の破片にすくった緑色の泥水のようなスープ——【真理創生・焦土の泥スープ】を、セリアの口元へと差し出した。
「こんな……泥のようなものを……」
セリアは戸惑った。教国で無菌の栄養ペレットしか口にしてこなかった彼女にとって、それは視覚的にも嗅覚的にも抵抗のある物体だった。
だが、アルの真剣な瞳に気圧され、彼女は恐る恐る、そのスープを一口すすった。
「……っ……」
瞬間。
セリアの身体に、強烈な衝撃が走った。
味は、信じられないほど苦く、硫黄の臭いがした。決して「美味しい」と言えるものではない。
しかし——そのスープが胃の腑に落ちた瞬間、冷え切っていた彼女の身体の芯から、ブワァァァッ! と爆発的な『熱』が湧き上がってきたのだ。
原初岩塩のミネラルと、深淵の過酷な環境で生き抜く苔の生命力が、アルの『真理の目』による完璧な調合によって、一種の強壮剤のような役割を果たし、セリアの細胞を強制的に叩き起こしたのだ。
「あ……温かい……。痛みが……引いていく……」
セリアは、両手で石の破片を包み込み、貪るようにその泥スープを飲み干した。
涙が、再び彼女の頬を伝う。
だが今度の涙は、絶望の涙ではなく、腹の底から湧き上がる『生への渇望』と、アルの不器用な優しさに触れたことへの温かな涙であった。
「美味しい……。こんなに泥臭いのに……どうしてこんなに、涙が出るほど美味しいのですか……っ」
「……よかった。やっぱり、君は失敗作なんかじゃない。ちゃんと『温かい』を感じられる、立派な人間だよ」
アルは、血だらけの顔で、嬉しそうに微笑んだ。
アルは次に、機能停止しているオルタの元へ向かった。
彼は、道中で見つけた『熱を蓄える性質を持つ特殊な鉱石』を地熱で温め、それをオルタの補助ジェネレーターの付近に配置した。
『――――ピー……。外部熱源を検知。……補助バッテリー、再起動プロセスへ移行……。現在出力、一パーセント……』
オルタのルビー色の瞳が、微かに明滅した。
まだ完全な再起動には程遠いが、それでもアルの工夫によって、オルタの「死」は確実に遠ざけられていた。
四、 迫る原初の影と、料理人の知恵
「……アル様。あなたは、本当に不思議な方ですね」
スープを飲み終え、少し顔色を取り戻したセリアが、壁に背を預けながら呟いた。
「マナも持たず、武器も折られたというのに、なぜそんなにも真っ直ぐに立っていられるのですか。……使徒の絶対的な力を前にして、絶望しないのですか?」
「絶望したよ。すごく怖かったし、悔しかった」
アルは、折れた包丁の柄を優しく撫でた。
「でも、落ち込んでる暇はないんだ。カルムたちも頑張ってる。僕も、みんなにご飯を作るために、最高の包丁を見つけなきゃいけないから」
その時だった。
ゴゴゴ……ッ。
岩陰の向こう側から、低い地鳴りのような唸り声が聞こえてきた。
「……っ!?」
セリアが顔を強張らせる。
暗闇の中から姿を現したのは、岩石とマグマが融合したような異形の魔物——【原初の泥鬼】であった。
深淵の環境に適応した、知性のない捕食者。使徒に比べれば遥かに格下だが、マナを持たない今のアルや、重傷のセリアにとっては、間違いなく死を意味する脅威だ。
「アル様、逃げてくださいッ! 今の私たちでは、あの魔物には太刀打ちできません!」
セリアが叫ぶ。
だが、アルは逃げなかった。
彼は立ち上がり、丸腰のまま、魔物とセリアの間に立ちはだかった。
「アル様!?」
「……大丈夫。武器がなくても、料理はできる」
アルの漆黒の瞳の奥で、【真理の目】が黄金に輝く。
魔物の構造。岩石の硬度、マグマの温度、そして筋肉の収縮のタイミング。
それらすべてが、アルにとっては「解体すべき巨大な肉の塊」として視覚化されていた。
さらにアルの目は、魔物だけでなく、周囲の【環境の因果】をも完璧に読み取っていた。
(魔物の真上にある岩盤は、原初マナの風化で脆くなってる。……そして、足元には、数秒後に噴出する間欠泉の脈動……!)
「グルアァァァァァァッ!!」
原初の泥鬼が、アルを噛み砕こうと突進してくる。
「今だッ!」
アルは、足元に落ちていた鋭い石の破片を拾い上げ、魔物に向かってではなく、魔物の『足元の地面(地殻の薄い部分)』に向かって全力で投げつけた。
カキィィンッ!!
石の破片が地面に突き刺さった瞬間。
ドバァァァァァァァァァァッ!!!!
アルが狙い澄ました通り、地殻の亀裂から超高圧の熱水(間欠泉)が爆発的に噴き出したのだ!
「グギャアァァァァァッ!?」
魔物の足元から噴き上げた熱水は、マグマで構成された魔物の下半身を急激に冷却し、その動作を完全に硬直させた(急冷による組織破壊)。
「そして、上ッ!」
アルは、魔物が熱水で怯んだ隙に、間髪入れずに別の石を拾い、今度は『魔物の頭上にある脆い岩盤の基部』へと投げつけた。
アルの『真理の目』が見極めた、岩盤を支える最後の「因果の糸(重心)」。
ガラガラガラッ……ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
天井から崩落した数トンの巨大な岩塊が、身動きの取れなくなった魔物の頭上に直撃し、その巨体を跡形もなく押し潰した。
「……え……?」
セリアは、目の前で起きた光景に、言葉を失って呆然としていた。
魔法も使わず、剣も振るわず。
ただの石ころを二つ投げただけで、巨大な魔物を一瞬にして圧殺してしまったのだ。
五、 残された者たちの絆
「ふぅ……。ちょっと荒っぽい『下ごしらえ』になっちゃったけど、なんとかなったね」
アルは、額の汗を拭いながら、魔物の残骸を振り返ってホッと息をついた。
「アル、様……。今のは、一体……」
セリアが、震える声で尋ねた。
「料理と同じだよ」
アルは、ニコッと笑って答えた。
「硬いお肉は、お湯で茹でてから(熱水)、重い石で叩いて柔らかくする(岩盤落下)。……周りにあるもの全部が、僕にとっては調理器具みたいなものだからね」
セリアは、アルのその屈託のない笑顔を見て、激しい衝撃を受けていた。
これが、特異点。
主神アルファが恐れ、使徒たちが排除しようとした存在の真の姿。
彼は、力で相手をねじ伏せるのではない。世界そのものを理解し、調和し、あらゆる理不尽を『自分の土俵(厨房)』へと引きずり込んで解体してしまう、究極の適応能力。
(神の教律など……この少年の生きる力の前では、どれほど薄っぺらく、色褪せたものか……)
セリアの胸の奥底で、かつての狂信の氷が完全に溶け去り、代わりに熱く、人間らしい『誇り』の火種が灯った。
「……アル様」
セリアは、痛む身体を壁に預けながら、ゆっくりと立ち上がった。
「セリアさん、まだ寝てなきゃダメだよ!」
「いいえ。私は……もう自分を失敗作などとは呼びません」
セリアの青い瞳が、迷いのない真っ直ぐな光を放った。
「カルム殿やエレナ先輩が戻ってくるまで……いえ、あなたがその『最高の包丁』を手に入れるまで。……私は、あなたのお荷物ではなく、あなたの『剣』として、この命の限りあなたを護り抜くと誓います」
マナ回路を失い、ボロボロになった元・聖騎士。
だが、アルの泥スープと、その生きる姿勢に魂を救われた彼女は、今度こそ誰に強制されたわけでもない、自らの意志による真の騎士として生まれ変わったのだ。
「セリアさん……。うん、ありがとう! 一緒に、最高の包丁を見つけに行こう!」
アルが、嬉しそうに頷いた。
『――――ピー……。マスター・アル。セリア殿。……ワタクシも、バックアップ完了次第、すぐにお二人のサポートへ復帰します……』
足元のオルタからも、微弱だが確かな電子音が響いた。
残されたアル、セリア、そしてオルタ。
絶望のどん底に取り残された彼らであったが、その絆は敗北を経てさらに強靭なものへと鍛え上げられていた。
アルの『真理の目』が見据える暗闇の先。
伝説の特異点の光が眠る場所へ向けて、残された者たちの過酷で、しかし希望に満ちた反撃の旅が、今度こそ本格的に歩みを進め始めたのである。




