第96話:カルムの背中と誓いの旅立ち
一、 遠ざかる足音と、残された静寂
ズリッ……、ザクッ……。
光が完全に死に絶えた忘却の深淵の入り口で、泥と瓦礫を踏みしめる不規則な足音だけが、果てしなく暗く冷たい空間に響いていた。
少年料理人アルは、血と泥にまみれた石畳の上に両膝をつき、両手で折れた『黒鉄の包丁の柄』を胸元に強く抱きしめながら、その足音が闇の中へと溶けていくのを、ただじっと見つめ続けていた。
相棒、カルムの背中。
先ほどまで、あんなに大きく、誰よりも頼もしかったその背中は、今は無惨なほどに傷ついていた。
極限覚醒の炎【全界焦土咆哮】を放ち、自らの命とマナを完全に薪として燃やし尽くした代償。
彼の右腕は肩の付け根から指先まで完全に黒焦げの炭と化し、一歩歩くごとに、ポロポロと黒い灰を虚空に撒き散らしている。
マナ回路が焼け落ちた彼の身体からは、かつてのような群青と緋色の極光炎はおろか、わずかな熱気すら立ち上っていない。
引きずる足取りは重く、今にもその場に倒れ伏してしまいそうなほど限界を迎えていることは、アルの目から見ても明らかだった。
(カルム……。行かないで……カルム……っ)
アルの喉の奥で、声にならない悲鳴が何度も何度も込み上げては、それを必死に噛み殺していた。
奥歯が砕けそうなほど食い縛り、唇からは新たな血が滲む。
涙が、泥で汚れたアルの頬を止めどなく伝い落ち、冷たい石畳に黒い染みを作っていく。
引き止めたい。
今すぐ走り寄って、その傷だらけの背中にしがみついて、「僕を一人にしないで」と泣き叫びたかった。
スラムのゴミ捨て場で、冷たい雨に打たれて死にかけていたあの夜。
アルの前に現れ、震える自分を泥の中から引っ張り上げてくれたのは、カルムだった。
『へっ、お前、料理が作れんのか。なら、俺の胃袋を満たしてみろ。その代わり、お前を狙うクソ野郎どもは、俺の火で全部焼き尽くしてやる』
そう言って、意地悪そうに、でもどこまでも温かい八重歯を見せて笑ってくれたあの日から。
アルにとって、カルムという存在は、ただの仲間以上のものだった。
自分という空箱に『料理を作る意味』を与えてくれた恩人であり、どんな暗闇の中でも絶対に消えない『太陽』であり、何があっても自分の背中を預けられる、世界でたった一人の【最強の相棒】だった。
そのカルムが、今、自分から離れていく。
火を失い、腕を失い、二度と生き返れないかもしれない本当の地獄へと、たった一人で足を踏み入れようとしているのだ。
それは、アルがこれまで抱えてきたどんな物理的な痛みよりも、心を深く、残酷に切り裂くものであった。
ズリッ……。
カルムの足音が、遠くなる。
闇の奥底から吹き上げる原初マナの蒸気が、彼の痩せこけた背中を白く霞ませていく。
「……っ……うぅぅぅぅ……っ」
アルは、折れた包丁の柄を握る両手に、骨が白く透けるほどの力を込めた。
(泣いちゃダメだ。……僕が泣いたら、カルムの覚悟が……無駄になっちゃうッ!)
カルムは、アルを捨てたのではない。
『お前が安心して料理を作れるように、お前を真に護れる最強の相棒になるために、強くなって帰ってくる』と、そう誓ってくれたのだ。
自分の火力が足りなかったから。自分の包丁が神の法則に折られてしまったから。
だから、カルムは自分を責めず、己の無力さを呪い、地獄へ向かう道を選んだのだ。
これ以上、カルムの背中にすがりつくのは、彼の気高き決意に対する裏切りでしかない。
ズリッ……、ザクッ……。
ついに、カルムの姿が濃密な闇と蒸気の向こう側へと完全に消えた。
彼が歩いた跡には、右腕からこぼれ落ちた黒い灰だけが、点々と残されている。
足音も、やがて地下水の滴る音にかき消され、アルの周囲には、途方もなく重く、冷たい『完全なる静寂と孤独』だけが残された。
「……カルム……」
アルは、空っぽになった暗闇に向かって、かすれた声で呟いた。
「いってらっしゃい。……絶対に、生きて帰ってきてね。……僕も、絶対に強くなるから……っ」
その誓いは、誰に聞かれることもなく、冷たい焦土の底へと静かに吸い込まれていった。
少年料理人アルは、これまでの旅で常に隣にあった「最強の炎」を完全に失い、己の無力さと向き合いながら、本当の意味での孤独な旅立ちの瞬間に立たされていた。
二、 地獄の深淵、マナ無き戦士の歩み
その頃。
アルと別れ、忘却の深淵の奥深くへと歩みを進めていたカルムは、言葉通りの【生き地獄】を味わっていた。
「……ハァ……ハァ……ッ……ハァ……ッ」
カルムの荒い呼吸が、静寂の空間に痛々しく響く。
教国の地下数万メートルに広がるこの『忘却の深淵』は、地上とは全く異なる物理法則と環境に支配されている。
星の核から直接漏れ出す【原初マナ】が、大気中に高濃度で充満しており、通常の人間であれば、この空気を数回吸い込んだだけで肺の細胞がマナの圧力に耐えきれず破裂してしまう。
魔法使いであっても、自らのマナで強固な防壁を展開し続けなければ、数十分で命を落とす極限の猛毒環境であった。
だが、今のカルムには、その身を守るためのマナが一切ない。
極限覚醒のオーバーロードにより、彼の体内にあったマナ回路は完全に焼け落ち、ただの一般人以下のボロボロの肉体しか残されていないのだ。
「……ゲホッ……ガァッ……!」
カルムは、歩きながら何度も咳き込み、黒ずんだ血の塊を吐き出した。
吸い込む空気が、まるで熱したガラスの破片のように喉から肺へと突き刺さる。
皮膚は爛れ、原初マナの放射線のような熱波が、彼の身体を外側からじわじわと焼き焦がそうとしている。
そして何より、右腕の喪失によるバランスの崩れと、喪失感が彼を苦しめていた。
炭化してぶら下がっているだけの右腕は、ただの重りとして彼の体力を奪う。痛みがないこと自体が、逆に神経が完全に死滅しているという残酷な現実を常に突きつけてくる。
(……クソが。……マナがねぇってのは……ここまで息苦しいもんだったかよ)
カルムは、残された左手で岩壁にすがりつきながら、必死に前へと進んでいた。
彼の脳裏に、使徒たちの冷酷な顔がフラッシュバックする。
『覚悟という心理活動は、マナの絶対量を増やす魔法ではない』
『あなたと我々の間にある出力差は、一ミリも埋まらない』
第二使徒エノクの言葉は、正しかった。
カルムは、相棒を護るために己の命すら投げ出した。覚悟は100点満点だった。
それでも、届かなかった。神の持つ圧倒的な「防御力」と「法則」の前に、自分の炎は無残に打ち砕かれたのだ。
(力が……火力が足りなかった。……俺の魂を全部燃やしても、神様には届かなかった)
カルムは、左の拳を岩壁に強く叩きつけた。
ドスッ!
拳の皮が破れ、血が滲む。マナによる強化がないため、ただの生身の痛みがダイレクトに脳天を突く。
(俺は……アルの相棒だ。あいつの厨房を、あいつの笑顔を護るための、最強の火だ。……それなのに、俺は火を失っちまった)
幻聴が聞こえる。
『お前はもう用済みだ』
『火の出せない魔法使いなんて、ただのゴミだ』
『アルの足手まといになる前に、ここで死んでしまえ』
己の弱さを責める、内なる絶望の声。
深淵の濃密な闇と原初マナの毒が、カルムの精神を徐々に狂わせ、死の淵へと誘い込もうとしている。
膝が震え、今にも崩れ落ちそうになる。ここで横たわって目を閉じれば、すべての苦しみから解放される。
だが——。
「……黙れよ、クソッタレが」
カルムは、血まみれの口元を歪め、闇に向かって凄絶な笑みを浮かべた。
「俺は……あのスラムのゴミ捨て場で、とっくに死んでたはずの命だ。……アルのスープを食って、生き返った命だ。……あいつが『強くなる』って泣きながら誓ったのに、俺がここでくたばるわけにはいかねぇんだよッ!!」
カルムの潰れていない左目が、暗闇の中でギラリと獣のように光った。
マナがない?
腕がない?
だからなんだ。
「火がねぇなら……俺の魂そのものを、神の法則すら焼き切れる『新しい炎』に叩き直すまでだッ!」
カルムは、岩壁から手を離し、自らの足だけで再び歩み始めた。
原初マナの熱波が皮膚を焦がそうと、肺が悲鳴を上げようと、彼の足取りは止まらない。
彼の心の中には、アルが作ってくれた、あの泥水のような『焦土の泥スープ』の温かさが、微かに、だが絶対に消えない炎として残っていた。
あの味は最悪だった。だが、あのスープには、アルの『死なないでくれ』という必死の想いが詰まっていた。
その想いを裏切ることなど、カルムの誇りが絶対に許さない。
「待ってろ、神様ども。……次会う時は、お前らのその涼しい顔ごと、俺の新しい火でドロドロに溶かしてやるからなッ!」
カルムの背中が、さらに深い、混沌の深淵の奥底へと消えていく。
それは、魔法使いとしての死を受け入れ、純粋な『魂の修羅』として生まれ変わるための、途方もなく泥臭く、果てしない地獄の試練の第一歩であった。
三、 這いずる白銀、不滅の騎士の再起
カルムが闇へと消えたのとは別の方向。
焦土の空洞の反対側に広がる、崩壊した地下神殿の瓦礫群。
そこを、這いずるようにして進む一つの影があった。
元・最高位聖騎士長、エレナ・ルミナス。
彼女の姿は、かつての気高く美しい『教国の白銀』と謳われた姿からは、想像もつかないほどに凄惨なものであった。
純白の白磁の甲冑は完全に粉砕され、身に纏うのは引き裂かれた布切れと、己の血の塊だけ。
何よりも致命的なのは、彼女の両腕であった。
三使徒の神威を素手で防ごうとした代償として、彼女の腕の骨は複雑骨折を起こし、関節は外れ、筋肉はズタズタに断裂している。
アルが苔と布切れで応急処置をしてくれたものの、両腕は完全にぶら下がっているだけで、指一本動かすことすら不可能な状態だ。
ズリッ……、ズリッ……。
エレナは、動かない両腕を脇に抱え込むようにし、膝と足の力、そして肩を地面に擦り付けながら、まるで尺取り虫のように少しずつ、少しずつ前へと進んでいた。
「……ハァ……ッ……ハァ……ッ」
泥が傷口に入り込み、激痛が脳を焼く。
顔の半分はセラフィナのヒールに踏みにじられた激しい皮下出血で赤紫に腫れ上がり、視界もままならない。
彼女が誇りとしていた『星霜の聖剣』は、刃を失い、完全に破壊された。
(……私は、なんて惨めで、無様な姿を晒しているのだ……)
エレナは、肩で息をしながら、己の現状を冷静に見つめていた。
剣を失い、盾となる腕を砕かれた。
不滅の騎士としてのアイデンティティは、あの使徒たちとの圧倒的な戦力差の前に、完膚なきまでに叩き折られた。
セラフィナの嘲笑が耳の奥で響く。
『神の剣を捨て、泥にまみれたバグの顔を、もっとよく見せてごらんなさい!』
『あなたは『誰かを護る』などという偽善に酔いしれた、哀れな虫けらですわ!』
その通りだ、とエレナは思った。
私は、自分の力を過信していた。
アル殿を護ると誓ったくせに、最後は自分の剣すら維持できず、あまつさえアル殿が身を挺して私を庇おうとする始末。
私は、何も護れてなどいなかった。ただの『盾の形をした張り子』に過ぎなかったのだ。
「……くっ……」
エレナの唇から、血の混ざった悔し涙がこぼれる。
だが、彼女は這い進むのをやめなかった。
どれほど無様でも、どれほど惨めでも、彼女の青い瞳に宿る『光』だけは、決して消えてはいなかったのだ。
(アル殿は……泣きながら、それでも前を向いた。カルム殿も、己の右腕を失いながら、地獄へ向かった。……彼らが、私の命を繋いでくれたのだ。私がここで立ち止まることは、彼らの覚悟に対する最大の侮辱だッ!)
エレナは、泥にまみれた顔を上げ、暗闇の先を見据えた。
彼女が目指しているのは、当てのない放浪ではない。
かつて最高位聖騎士長として、教国の最深部に関する『機密文献』を閲覧した記憶が、彼女の脳内にあった。
教国ルミナの地下深く、忘却の深淵のどこかに、主神アルファがこの世界に降臨するよりも前の時代……【古代神聖帝国】の初代聖騎士が残したとされる『原初の武具』と『真なる盾の試練』が眠る場所があるという伝承。
教国はその場所を「異端の遺跡」として封印し、歴史から抹消した。
だが、今のエレナに必要なのは、神から与えられた紛い物の剣ではない。
神の法則すらも弾き返す、人間の魂と完全に共鳴する『本物の盾』の力だ。
「……待っていてくれ、アル殿。……カルム殿」
エレナは、折れた腕の痛みに耐えながら、泥の地面を強く蹴った。
「私は……必ず見つけ出す。神の理不尽すらも跳ね返す、真の不滅の力を。……そして次こそは、君たちの背中を、絶対に護り抜いてみせるッ!」
血と泥にまみれた元・聖騎士長。
彼女もまた、己の誇りを一度完全に砕かれた上で、真なる騎士として生まれ変わるための、過酷で孤独な巡礼の旅へとその身を投じていったのである。
四、 深淵の底の試練、魂の火種
一方、カルム。
彼は、忘却の深淵のさらに深部へと足を踏み入れていた。
そこは、もはや「空間」という言葉すら当てはまらない、混沌の極みであった。
ゴオォォォォォォォォォォ……ッ!!
星の核から直接噴き出す、超高圧縮の【原初マナの暴風】が、上下左右の概念を狂わせながら吹き荒れている。
岩石は空中に浮かび、あるいは突如としてマグマのように赤熱し、次の瞬間には絶対零度に凍りつく。
物理法則が完全に破綻した、星の胎内そのもの。
「……ゲハッ……ハァ……ッ……!」
カルムは、猛烈なマナの暴風に吹き飛ばされそうになるのを、左手で岩にしがみついて必死に耐えていた。
マナを持たない彼の肉体にとって、この環境はまさに死のミキサーの中にいるようなものだ。
皮膚は裂け、血液は沸騰しそうになり、鼓膜は轟音によってとうの昔に破れている。
(……やべぇな。……想像以上の地獄だぜ……)
カルムは、かすむ右目で前方を見た。
暴風の向こう側に、蠢く巨大な影がいくつも見えた。
【原初の魔物】。
地上にいる魔物とは次元が違う、純粋なマナの塊が意思を持ったような、形定まらぬ異形の怪物たち。
通常であれば、教国の聖騎士一個大隊がかりで挑んでも全滅するような化け物が、この深淵には無数に生息しているのだ。
「……グルルルルルォォォォォォッ!!」
一体の巨大な岩とマグマで構成された魔物が、カルムの存在(異物)に気づき、咆哮を上げて突進してきた。
その口から、すべてを溶かす高熱のブレスが放たれる。
「……チッ!」
カルムは、避けるために足に力を込めた。
だが、疲労とダメージの蓄積により、肉体が反応しない。
右腕がないことによる重心のズレが、彼の回避行動を一瞬遅らせた。
ドガァァァァァァァァンッ!!
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
カルムの身体が、熱線の余波を受けて空中に跳ね飛ばされ、黒い岩肌に激しく激突した。
背中の骨が折れる嫌な音が響き、口から血の塊が噴き出す。
「……ハァ……ハァ……っ」
カルムは、岩のくぼみに転がり落ちたまま、動けなくなった。
魔物が、地響きを立てながら確実に彼にトドメを刺そうと近づいてくる。
(……ここまでか……。……やっぱり、マナがねぇと……ただのゴミだな……)
死の予感が、カルムの脳髄を撫でる。
視界が暗転し、魔物の巨大な影が彼を完全に覆い隠そうとした、その時。
『カルム……! 待っててね、カルム……!』
脳裏に、アルの声が響いた。
あの焦土で、自分を必死に生かそうと泥スープを作ってくれた、泣き顔のアルの姿。
『僕も……強くなる。だから……絶対に生きて帰ってきてねッ!』
ドクンッ。
カルムの、完全に沈黙していたはずの胸の奥底。
マナ回路が焼け落ち、完全なる虚無となっていたその灰の底で。
何かが、小さく、だが強烈な【熱】を持って脈打った。
(……ふざけんな)
カルムは、見開いた左眼で、眼前に迫る魔物の巨大な顎を睨みつけた。
(あいつが……あんなに泣きながら誓ったのに。……俺がこんな所で、ただの魔物のエサになって終わるわけにはいかねぇんだよッ!!)
「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!」
カルムは、折れた足で大地を蹴り、立ち上がった。
右腕はない。マナもない。
なら、残された左拳に、俺の『命のすべて』を叩き込むだけだ!
カルムは、迫り来る魔物のマグマの顎に向かって、一切の躊躇なく、素手の左拳を真っ直ぐに突き出した!
「死ねェェェェェェェェェェェッ!!!!」
ゴワァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
その瞬間。
カルムの左拳が魔物に触れる直前。
彼の拳の先端から、マナとは全く異なる、血のように赤く、そしてどこまでも深い【真紅の熱線】が、一瞬だけ爆発的に噴き出したのだ!
「……なっ!?」
ズドォォォォォォォンッ!!
カルムの一撃は、魔物のマグマの装甲を紙のように撃ち抜き、その巨大な巨体を跡形もなく吹き飛ばした。
「……ハァ……ハァ……」
魔物の残骸が降り注ぐ中、カルムは呆然と自分の左拳を見つめた。
今のは、なんだ。
マナじゃない。魔法の炎でもない。
自分の「絶対に死なない」「絶対にアルの元へ帰る」という剥き出しの生命力そのものが、物理的な熱として一瞬だけ外部へ放出されたのだ。
「……へっ……。……なるほどな……」
カルムの口元に、血に染まった凶暴な笑みが浮かんだ。
マナ回路がなくても。右腕がなくても。
人間の『魂の熱』は、限界を超えれば、神の法則すらも凌駕する本物の火種になり得る。
「……面白ぇじゃねぇか。……この地獄で……俺の魂を、極限まで叩き直してやる……ッ!」
カルムの左目に、再び獣の光が完全に宿った。
彼は、原初マナの暴風が吹き荒れる深淵のさらに奥底——星の核が赤熱する究極の試練の場へと向かって、己の血で道を作りながら、ただ一人、修羅の歩みを再開したのである。
五、 誓いの空箱、特異点の覚醒
一方、アル。
彼は、カルムとエレナが旅立った後の焦土の空洞に、ただ一人取り残されていた。
周囲には、意識を失ったセリアと、完全に沈黙したオルタ。
そして、彼の手の中には、刃を失った『折れた黒鉄の包丁の柄』。
「……ハァ……っ」
アルは、石畳の上に座り込み、涙の跡が残る顔で、深呼吸を繰り返していた。
怖い。寂しい。
これまでの旅で、いつも隣にいてくれた二人の温かさが、突然スッポリと消え去ってしまった。
この暗闇の中で、もし再び使徒が襲ってきたら。魔物が現れたら。
自分一人で、この二人を護らなければならない。
圧倒的な孤独とプレッシャーが、アルの細い肩にのしかかる。
「……でも、泣いてる暇なんて、ない」
アルは、両手で自分の頬をパンッ! と強く叩いた。
痛みが、彼の意識を現実に引き戻す。
カルムとエレナは、自分を信じて背中を預けてくれたのだ。
彼らが命懸けで強くなろうとしている間に、自分がここでうずくまっていてどうする。
彼らが帰ってきた時に、安心して食卓につけるような『最強の厨房』を、自分が一人で作り上げなければならないのだ。
アルは、立ち上がり、折れた包丁の柄を胸のエプロンにしっかりと結びつけた。
「僕は……料理人だ。僕にできるのは、世界を『解体』して、美味しく『調理』することだけだ」
アルは、目を閉じ、己の胸の奥底へと意識を集中させた。
マナを生み出す『炉』は、いまだに冷え切り、空っぽのままだ。
だが、その灰の底には、カルムの炎の記憶、エレナの盾の記憶、オルタの光の記憶、そして奈落の人々の笑顔の記憶が、確かに『熱』として残っている。
「……神様の法則が、理不尽で、冷たくて、誰も幸せにしないものなら。……僕が、その法則を綺麗に捌いてやる」
アルは、目を見開いた。
その瞬間。
アルの漆黒の瞳の奥で、【真理の目】が、かつてないほどの圧倒的な黄金の輝きを放って完全覚醒した。
視界が、一変する。
ただの暗闇だった焦土の空洞が、無数の『因果の糸』と『マナの奔流』が複雑に絡み合う、巨大な光の海となってアルの目に映し出された。
岩石の組成、地殻変動の脈動、原初マナの流れ。
それらすべてが、アルにとっては「解体すべき巨大な食材」の構造として理解できた。
「……視える。……僕が、新しい包丁を見つけるための道が」
アルの真理の目は、忘却の深淵の果てにある、ある一点の強烈な【特異点の光】を捉えていた。
教国の歴史よりも古く、星の創世から存在し続けている、究極の金属と概念が眠る場所。
神の法則すらも断ち切る『真理の刃』を打ち直すための、伝説の厨房の在り処。
「待っててね、カルム、エレナさん。……オルタ、セリアさん」
アルは、セリアの身体を背負い、オルタの機甲素体を毛布代わりの布で包んで引きずりながら、力強い足取りで歩み始めた。
「僕が……絶対に、世界で一番温かい食卓を……みんなのために作ってみせるからッ!」
同じ星の深淵の中で。
カルムは魂の炎を鍛え上げるために。
エレナは真の不滅の盾を見つけ出すために。
そしてアルは、神の法則を解体する最高の包丁を打ち直すために。
絶対的な敗北と無力さを味わい、すべてを失った三つの魂が、いま、それぞれが己の『極星』を目指して、絶望のどん底から真の覚醒への第一歩を踏み出した。
それは、やがて来る神々との最終決戦において、世界を根本からひっくり返す【奇跡の反撃】の幕開けであった。




