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神殺しのフルコース ~少年料理人と修羅の創世食卓~  作者: solune
第4章:聖都ルミナ編

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第95話:背中を預けるために

一、 焦土に響く命の音と、残酷な現在地

忘却の深淵。教国ルミナの地下数万メートルに存在する、星の原初マナが荒れ狂う混沌の海。

その上層に位置する焦土の空洞には、暗黒と、硫黄の入り混じった生温かい蒸気だけが立ち込めていた。


先ほどの崩落からどれほどの時間が経過したのか、誰にも分からない。

太陽の光など届くはずもなく、昼夜の概念すら喪失したこの空間では、ただ岩肌から滴り落ちる地下水の音だけが、時を刻む唯一の時計であった。


「……ハァ……ハァ……っ」


少年料理人アルは、自身のエプロンの破片を使い、近くの岩から削り取った原初岩塩と発光苔をすり潰し、即席の『傷薬』のようなものを作っていた。

マナ(熱)を生み出す『炉』は依然として沈黙したままであり、アルの手は凍傷と裂傷でひどく腫れ上がっている。それでも、彼は小さな手を休めることなく、倒れている仲間たちの元へと這いずり回っていた。


「カルム……これ、右腕に塗るね。痛いかもしれないけど、我慢して……」


アルは、石畳に座り込んでいるカルムの元へ向かい、炭化して黒焦げになった右腕の付け根(まだ生きている肉との境界線)に、すり潰した苔のペーストを慎重に塗り込んだ。


「……痛くも痒くもねぇよ。神経が全部死んじまってるからな」


カルムは、残された左目で自らの右腕を見下ろし、自嘲気味に鼻を鳴らした。


炭化した右腕は、触れるだけで黒い灰がパラパラと零れ落ちる。肩関節から下は完全に生命活動を停止しており、もはや腕の形を保った「死骸」がぶら下がっているに過ぎなかった。

さらに致命的なのは、彼の体内にあったマナ回路が完全に焼き切れてしまったことだ。炎を生み出す器官が失われ、カルムはただの、右腕を失った重傷の少年に成り下がってしまっていた。


「……ごめんね、カルム」

アルが、苔を塗りながらポロポロと涙をこぼした。

「僕が……弱いから……。僕がもっと早く使徒を倒せていれば、カルムがこんな無理をしなくて済んだのに……っ」


「だから、お前が謝んなって言ってんだろ」


カルムは、残された左手でアルの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。


「俺が勝手に命を燃やしたんだ。俺が弱くて、あの神様どもを焼き殺せなかっただけの話だ。……お前が気に病む必要は、一ミリもねぇ」


カルムの声は平坦だったが、その左目には、言いようのない【無力感】と【血の滲むような悔しさ】が色濃く沈殿していた。

相棒を護りたくて、命を投げ出した。しかし、相手の装甲を削るだけで終わり、結果として自分は戦う力を失い、アルをさらに絶望的な状況へと追い込んでしまった。

その事実が、カルムの誇り高き魂を、内側からギリギリと締め付けていたのだ。


アルは、カルムの処置を終えると、次にエレナの元へと向かった。


エレナは、血と泥にまみれた石畳の上に仰向けに倒れていた。

美しい白磁の甲冑は砕け散り、彼女の身体には無数の裂傷が走っている。特に両腕は、エノクの神威を素手で防ごうとした代償として、骨が何箇所も複雑骨折を起こし、赤黒く腫れ上がって完全に形を崩していた。


「エレナさん……今、腕を固定するから……」


アルは、拾い集めた硬い苔の茎と、引き裂いた自分の服を使って、エレナの両腕を不器用ながらも固定しようと試みた。


その時。


「……アル……殿……」


エレナの紫に腫れ上がった目蓋が、微かに震え、青い瞳が暗闇の中に姿を現した。


「エレナさんッ! 目が覚めたんだね!」

アルが、涙声で彼女の顔を覗き込んだ。


「……あぁ……。君の……泥スープのおかげで……な……」


エレナは、乾き切った唇を動かし、かすれ声で答えた。

彼女の視線が、ゆっくりと自分の身体へ、そして自分の傍らに転がっている【無惨な残骸】へと向けられた。


二、 騎士の目覚めと、砕けた盾の虚無

エレナの視線の先。

そこには、柄の根元から粉々に砕け散った『星霜の聖剣』の破片が散らばっていた。

かつて最高位聖騎士長としての証であり、教国の誇りであり、そして何より、アルたちを幾度となく護り抜いてきた不滅の盾。


「……星霜が……」


エレナの瞳が、激しく揺れ動いた。


「ごめんなさい、エレナさん……。僕が、拾い集めたんだけど……刃は粉々になってて……直せそうにないんだ……」

アルが、うつむきながら謝罪した。


「……アル殿が謝る必要はない。……折れたのは、私の力が至らなかったからだ」


エレナは、自らの両腕を動かそうとした。

しかし、指先一つピクリとも動かない。激痛すら通り越し、両腕は鉛のように重く、完全に感覚が麻痺していた。


「腕も……砕かれたか。……完敗、だな」


エレナは、再び焦土の天井へと視線を戻し、自嘲するような、そして途方もなく虚ろなため息を漏らした。


「私は……神の剣としての過去を捨て、君の作る食卓を護る『不滅の盾』になると誓った。……それなのに、君を護るどころか、自分の剣すらも折られ、無様に地に這いずり回っている。……私は、なんて無力なのだ……」


エレナの瞳から、一筋の涙が泥にまみれた頬を伝って流れ落ちた。


彼女の心もまた、カルムと同様に、強烈な無力感に苛まれていた。

過去のトラウマを乗り越え、覚悟を決めた。素手になってもアルを護ると誓った。

しかし、精神論ではどうにもならない『絶対的な力不足』の前に、彼女の誇りは完膚なきまでにへし折られたのだ。


「エレナさん、そんなこと言わないで! エレナさんが盾になってくれたから、僕たちは生きてるんだよ!」

アルが、必死にエレナを励まそうとする。


「……生きてる、か。だが……この状態で、どうやって君を護れというのだ」


エレナは、悲痛な声でアルを遮った。


「見てみろ、アル殿。私の両腕は砕け、剣はない。カルム殿は右腕とマナを失った。君自身も、マナが枯渇し、愛用の包丁を折られた。……我々は今、ただの傷ついた弱者に過ぎない。……使徒が追ってくれば、指一本で全滅するだろう」


エレナの言葉は、残酷なまでに正確な『現実』であった。

彼らは奇跡的に生き延びたが、戦力としては完全にゼロ……いや、マイナスであった。

セリアも、オルタも、意識を取り戻す気配すらない。

この暗闇の深淵で、彼らはただ、死の時間を引き延ばしているに過ぎないのだ。


三、 力なき者たちの対話

「……騎士様の言う通りだ」


瓦礫の向こう側から、カルムが壁を伝いながら、足を引きずってアルとエレナの元へと近づいてきた。


「カルム殿……」

エレナが、視線だけでカルムを捉える。


「俺たちは、完全に負けた。あの神様どもとの間には、絶望的な戦力差があった。……覚悟だの、絆だの、そんなもんじゃひっくり返せねぇくらいの、純粋な『火力』の差がな」


カルムは、残された左手で、瓦礫の上に腰を下ろした。

彼の炭化した右腕が、微かな振動で灰を落とす。


「カルム……でも、僕たちは諦めないって……」

アルが、食い下がるように言った。


「ああ、諦めねぇよ。絶対に、あいつらをぶっ飛ばして、俺たちの食卓を取り戻す」


カルムの左目は、暗闇の中でもギラギラと獣のような光を放っていた。


「だけどよ、アル。……今の俺たちじゃ、お前の背中を護れねぇんだよ」


カルムの言葉が、重く、鋭く、アルの胸に突き刺さった。


「……え?」


「お前は、包丁が折れても戦うって言った。新しい包丁を手に入れて、神様の法則を解体するってな。……俺は、お前のその覚悟を信じてる。お前なら、絶対にできる」


カルムは、自身の使えなくなった右腕を見下ろした。


「だけど、今の俺を見てみろ。マナ回路が焼け落ちて、火が出せねぇ。右腕は使い物にならねぇ。……ただの、足手まといの不良品だ」


「そんなことないッ! カルムは僕の相棒だ! 足手まといなんかじゃないッ!」

アルが、涙を浮かべて激しく首を振る。


「……現実を見ろ、アル」

カルムの声が、かつてないほどに厳しく、そして悲痛な響きを帯びた。


「使徒どもは、容赦しねぇ。あいつらは、お前を殺すためなら手段を選ばねぇ。……そんな戦場に、今の俺がついていって、どうなる? お前は、俺をかばって戦わなきゃならなくなる。俺が盾になるどころか、お前の足を引っ張って、最悪……お前を死なせることになる」


「……っ……」

アルは、言葉に詰まった。

カルムの言っていることは、論理的で、反論の余地がないほど正しかったからだ。


「エレナ、あんたもそうだろ」

カルムが、倒れているエレナへと視線を向けた。


「……あぁ」

エレナは、静かに目を閉じた。


「私の両腕は砕け、盾となる剣もない。……今の私は、アル殿の足枷でしかない。私がいることで、アル殿の生存確率を下げてしまう」


「二人とも……なんでそんなこと言うの……。僕たちは、ずっと一緒に旅してきたじゃないか……! 一緒に、温かいご飯を食べてきたじゃないか……っ!」


アルの悲痛な叫びが、焦土の暗闇に空しく響いた。

アルにとって、カルムやエレナ、オルタたちと一緒に食卓を囲むことこそが、旅の目的であり、彼自身の存在意義であった。

彼らが「自分は足手まといだ」と言って離れていくようなことは、絶対に認めたくなかった。


四、 守るための残酷な選択

「アル。俺はお前を護るために、強くなりてぇんだ」


カルムは、アルの肩を、残された左手で強く掴んだ。


「お前が安心して料理を作れるように。お前の背中を、誰にも脅かされないように。……俺は、お前の『最強の相棒』でありてぇんだよ」


カルムの左目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。


「だけど、今の俺じゃダメだ。……火を失った俺は、一から……いや、ゼロから自分を鍛え直さなきゃなんねぇ。マナに頼らない、神の法則すらもぶち抜ける『究極の肉体』と『新しい炎(魂)』を、見つけ出さなきゃなんねぇんだ」


「カルム……」


「そのためには……お前と一緒じゃダメなんだ」


カルムの言葉は、まるで鋭いナイフのように、アルの心を切り裂いた。


「お前と一緒にいれば、俺は絶対にお前に甘えちまう。お前の作る温けぇスープを飲んで、安心しちまう。……今の俺に必要なのは、安心じゃねぇ。血を吐いてでも強くなるための、極限の地獄だ」


カルムは、アルから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。


「だから……俺は、お前から離れる」


「……ッ!」

アルの瞳が、限界まで見開かれた。


「この忘却の深淵……ここには、星の原初マナが渦巻いてる。俺の焼け焦げた身体を鍛え直すには、これ以上ない最悪で最高の環境だ。……俺は、この地獄の底を一人で彷徨って、絶対に強くなってやる」


「ダメだよ! そんな身体で一人になったら、死んじゃうかもしれないじゃないか!」

アルが、カルムのエプロンにしがみつこうとする。


「死なねぇよ」

カルムは、優しくアルの手を解いた。


「俺は、お前の相棒だぞ? お前の作った飯を、また腹いっぱい食うまでは、絶対に死ぬわけがねぇ」


カルムの決意は、鋼のように固まっていた。

彼はアルを嫌いになったわけではない。むしろ、アルを誰よりも大切に想い、アルに「背中を預けてもらう」資格を取り戻すために、あえて孤独という名の地獄へと足を踏み入れようとしているのだ。


「……カルム殿の言う通りだ」


血の海の中で、エレナが静かに口を開いた。


「アル殿。……私も、ここで君とは道を違えねばならない」


「エレナさんまで……っ!」


「私は、不滅の盾としての力を完全に失った。……このまま君についていっても、ただの荷物になるだけだ。……私は、私自身の力で、両腕の傷を癒し、折れた星霜に代わる『真の盾』を見つけ出さねばならない」


エレナは、痛みで歪む顔に、かつての気高き騎士としての微笑みを浮かべた。


「私も、強くなる。神の理不尽に踏み躙られない、絶対の盾として生まれ変わる。……そのために、私は私自身の過酷な試練へ向かわねばならないのだ」


カルムと、エレナ。

彼らは、それぞれが己の無力さを骨の髄まで噛み締め、そして、アルを真に護り抜くための力を得るために、【一時的な別離】という残酷な選択を自らの意志で下したのだ。


五、 剥き出しの心と血の誓い

「……いやだ……」


アルは、両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。


「いやだ……いやだよ……っ! みんながいなくなったら、僕は……誰のためにご飯を作ればいいの……。一人で……どうやって戦えばいいの……っ!」


これまでの旅、アルは決して一人ではなかった。

どんな強敵が現れても、隣にはカルムの炎があり、前にはエレナの盾があり、後ろにはオルタのサポートがあった。

だからこそ、アルは絶望せずに包丁を振るうことができたのだ。


それが今、すべて失われようとしている。

武器は折れ、マナは枯渇し、仲間たちは己を鍛えるために離れていく。

完全なる孤独。

それは、スラムのゴミ捨て場で一人震えていた時の、あの凍りつくような絶望と同じだった。


「泣くな、シェフ」


カルムが、アルの前にしゃがみ込み、その頭をガシガシと乱暴に撫でた。


「俺たちは、お前を捨てるわけじゃねぇ。……お前が強くなるための時間を、俺たちが稼ぐんだ」


「僕が……強くなる……?」


「そうだ。お前は言っただろ? 神様の法則を解体する、最高の包丁を手に入れるって。……お前は、一人でそれを見つけ出さなきゃなんねぇ。俺たちが守ってちゃ、お前は本当の意味で『神を斬る特異点』にはなれねぇんだよ」


カルムの言葉は、痛いほどにアルの胸に響いた。


アルもまた、気づいていたのだ。

自分がこれまで、どれだけ仲間たちの力に守られ、甘えてきたかということに。

自分の火力が足りなかったから、仲間たちをこんな目にあわせてしまったのだと。


自分が本当に神の理不尽をぶち壊し、仲間たちの居場所を護るためには、自分自身が極限まで強くなり、誰も届かない領域の【最高の料理人】にならなければならない。


「アル殿」

エレナが、血に濡れた顔でアルを見つめた。


「君は、一人ではない。……離れていても、私たちの心は常に君の作った食卓と共にある。……君の胸の『炉』が再び燃え上がる時、私たちもまた、必ず君の元へ駆けつけると誓おう」


カルムとエレナの剥き出しの想い。

それは、絶望のどん底にあって、互いの鎖を断ち切り、より強靭な絆として結び直すための、血の滲むような『誓い』であった。


「……うぅ……っ……」


アルは、腕で乱暴に涙を拭った。

まだ涙は止まらない。寂しくて、怖くて、心が張り裂けそうだった。

でも、仲間たちがこれほどの覚悟を決めて、自分のために強くなろうとしてくれているのに、自分だけがここで泣き言を言って立ち止まるわけにはいかない。


「……わかった」


アルは、血塗れの顔を上げ、漆黒の瞳に宿る【修羅の覚悟】をさらに強く燃やした。


「僕も……強くなる。……一人で、最高の包丁を見つけて、胸の炉をもう一度燃やして……絶対に、神様の理不尽を解体できる料理人になってみせるッ!」


アルは、自分の胸元から、折れた『黒鉄の包丁の柄』を取り出し、それを両手で固く握り締めた。


「そして……絶対に、またみんなで集まるんだ。僕が世界で一番美味しいご飯を作って待ってるから……絶対に、絶対に生きて帰ってきてねッ!」


アルの悲痛な、だが力強い決意の叫びが、焦土の暗闇に木霊した。


六、 背中を預けるために

「へっ……約束だぜ、シェフ」


カルムは、満足そうに八重歯を見せて笑い、立ち上がった。

「次に会う時は、お前のその泥スープじゃなくて、極上のフルコースを食わせてもらうからな。……それまで、死ぬんじゃねぇぞ」


「アル殿。……君の未来に、星霜の導きがあらんことを」

エレナもまた、動かない腕のまま、心の中で最高の敬礼をアルへと送った。


焦土の空洞。

忘却の深淵の入り口で、チーム『最高の厨房』は、最大の絶望を前にして、発展的な解消(解散)を宣言した。


すべては、再び笑い合って食卓を囲むため。

すべては、神という理不尽な暴力を打ち砕き、互いに安心して『背中を預けるため』に。


カルムは、左手一本で瓦礫の壁を伝い、焦土のさらに奥深く、原初マナが荒れ狂う混沌の深淵へと向かって、一人で足を引きずりながら歩み始めた。

彼の背中は、傷だらけで、右腕は炭化して垂れ下がり、見るも無惨な姿だった。

しかし、その足取りには、決して折れることのない闘志と、相棒への絶対的な信頼が満ち溢れていた。


アルは、そのカルムの遠ざかる背中を、涙で滲む視界の中で、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。


(いってらっしゃい、カルム。……エレナさん)


アルは、折れた包丁の柄を胸に抱きしめ、一人、焦土の暗闇に取り残された。

意識を失っているセリアと、壊れたオルタを傍らに置き、彼は己の無力さと孤独に、完全に一人で立ち向かわねばならない。


神の理を越える包丁は、どこにあるのか。

枯渇した『炉』を再び燃やすための火種は、どうやって見つけるのか。

すべてが未知であり、極限のサバイバルが彼を待ち受けている。


教国ルミナの地上では、使徒たちによる『大氷期』の神罰が進行し、世界は絶対静止の氷の中へと沈みゆこうとしている。

その冷たい世界の片隅で。

少年料理人アルの、己のすべてを賭けた孤独な【再起の旅】が、いま、ひっそりと、だが圧倒的な熱を秘めて幕を開けようとしていた。

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