第95話:背中を預けるために
一、 焦土に響く命の音と、残酷な現在地
忘却の深淵。教国ルミナの地下数万メートルに存在する、星の原初マナが荒れ狂う混沌の海。
その上層に位置する焦土の空洞には、暗黒と、硫黄の入り混じった生温かい蒸気だけが立ち込めていた。
先ほどの崩落からどれほどの時間が経過したのか、誰にも分からない。
太陽の光など届くはずもなく、昼夜の概念すら喪失したこの空間では、ただ岩肌から滴り落ちる地下水の音だけが、時を刻む唯一の時計であった。
「……ハァ……ハァ……っ」
少年料理人アルは、自身のエプロンの破片を使い、近くの岩から削り取った原初岩塩と発光苔をすり潰し、即席の『傷薬』のようなものを作っていた。
マナ(熱)を生み出す『炉』は依然として沈黙したままであり、アルの手は凍傷と裂傷でひどく腫れ上がっている。それでも、彼は小さな手を休めることなく、倒れている仲間たちの元へと這いずり回っていた。
「カルム……これ、右腕に塗るね。痛いかもしれないけど、我慢して……」
アルは、石畳に座り込んでいるカルムの元へ向かい、炭化して黒焦げになった右腕の付け根(まだ生きている肉との境界線)に、すり潰した苔のペーストを慎重に塗り込んだ。
「……痛くも痒くもねぇよ。神経が全部死んじまってるからな」
カルムは、残された左目で自らの右腕を見下ろし、自嘲気味に鼻を鳴らした。
炭化した右腕は、触れるだけで黒い灰がパラパラと零れ落ちる。肩関節から下は完全に生命活動を停止しており、もはや腕の形を保った「死骸」がぶら下がっているに過ぎなかった。
さらに致命的なのは、彼の体内にあったマナ回路が完全に焼き切れてしまったことだ。炎を生み出す器官が失われ、カルムはただの、右腕を失った重傷の少年に成り下がってしまっていた。
「……ごめんね、カルム」
アルが、苔を塗りながらポロポロと涙をこぼした。
「僕が……弱いから……。僕がもっと早く使徒を倒せていれば、カルムがこんな無理をしなくて済んだのに……っ」
「だから、お前が謝んなって言ってんだろ」
カルムは、残された左手でアルの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「俺が勝手に命を燃やしたんだ。俺が弱くて、あの神様どもを焼き殺せなかっただけの話だ。……お前が気に病む必要は、一ミリもねぇ」
カルムの声は平坦だったが、その左目には、言いようのない【無力感】と【血の滲むような悔しさ】が色濃く沈殿していた。
相棒を護りたくて、命を投げ出した。しかし、相手の装甲を削るだけで終わり、結果として自分は戦う力を失い、アルをさらに絶望的な状況へと追い込んでしまった。
その事実が、カルムの誇り高き魂を、内側からギリギリと締め付けていたのだ。
アルは、カルムの処置を終えると、次にエレナの元へと向かった。
エレナは、血と泥にまみれた石畳の上に仰向けに倒れていた。
美しい白磁の甲冑は砕け散り、彼女の身体には無数の裂傷が走っている。特に両腕は、エノクの神威を素手で防ごうとした代償として、骨が何箇所も複雑骨折を起こし、赤黒く腫れ上がって完全に形を崩していた。
「エレナさん……今、腕を固定するから……」
アルは、拾い集めた硬い苔の茎と、引き裂いた自分の服を使って、エレナの両腕を不器用ながらも固定しようと試みた。
その時。
「……アル……殿……」
エレナの紫に腫れ上がった目蓋が、微かに震え、青い瞳が暗闇の中に姿を現した。
「エレナさんッ! 目が覚めたんだね!」
アルが、涙声で彼女の顔を覗き込んだ。
「……あぁ……。君の……泥スープのおかげで……な……」
エレナは、乾き切った唇を動かし、かすれ声で答えた。
彼女の視線が、ゆっくりと自分の身体へ、そして自分の傍らに転がっている【無惨な残骸】へと向けられた。
二、 騎士の目覚めと、砕けた盾の虚無
エレナの視線の先。
そこには、柄の根元から粉々に砕け散った『星霜の聖剣』の破片が散らばっていた。
かつて最高位聖騎士長としての証であり、教国の誇りであり、そして何より、アルたちを幾度となく護り抜いてきた不滅の盾。
「……星霜が……」
エレナの瞳が、激しく揺れ動いた。
「ごめんなさい、エレナさん……。僕が、拾い集めたんだけど……刃は粉々になってて……直せそうにないんだ……」
アルが、うつむきながら謝罪した。
「……アル殿が謝る必要はない。……折れたのは、私の力が至らなかったからだ」
エレナは、自らの両腕を動かそうとした。
しかし、指先一つピクリとも動かない。激痛すら通り越し、両腕は鉛のように重く、完全に感覚が麻痺していた。
「腕も……砕かれたか。……完敗、だな」
エレナは、再び焦土の天井へと視線を戻し、自嘲するような、そして途方もなく虚ろなため息を漏らした。
「私は……神の剣としての過去を捨て、君の作る食卓を護る『不滅の盾』になると誓った。……それなのに、君を護るどころか、自分の剣すらも折られ、無様に地に這いずり回っている。……私は、なんて無力なのだ……」
エレナの瞳から、一筋の涙が泥にまみれた頬を伝って流れ落ちた。
彼女の心もまた、カルムと同様に、強烈な無力感に苛まれていた。
過去のトラウマを乗り越え、覚悟を決めた。素手になってもアルを護ると誓った。
しかし、精神論ではどうにもならない『絶対的な力不足』の前に、彼女の誇りは完膚なきまでにへし折られたのだ。
「エレナさん、そんなこと言わないで! エレナさんが盾になってくれたから、僕たちは生きてるんだよ!」
アルが、必死にエレナを励まそうとする。
「……生きてる、か。だが……この状態で、どうやって君を護れというのだ」
エレナは、悲痛な声でアルを遮った。
「見てみろ、アル殿。私の両腕は砕け、剣はない。カルム殿は右腕とマナを失った。君自身も、マナが枯渇し、愛用の包丁を折られた。……我々は今、ただの傷ついた弱者に過ぎない。……使徒が追ってくれば、指一本で全滅するだろう」
エレナの言葉は、残酷なまでに正確な『現実』であった。
彼らは奇跡的に生き延びたが、戦力としては完全にゼロ……いや、マイナスであった。
セリアも、オルタも、意識を取り戻す気配すらない。
この暗闇の深淵で、彼らはただ、死の時間を引き延ばしているに過ぎないのだ。
三、 力なき者たちの対話
「……騎士様の言う通りだ」
瓦礫の向こう側から、カルムが壁を伝いながら、足を引きずってアルとエレナの元へと近づいてきた。
「カルム殿……」
エレナが、視線だけでカルムを捉える。
「俺たちは、完全に負けた。あの神様どもとの間には、絶望的な戦力差があった。……覚悟だの、絆だの、そんなもんじゃひっくり返せねぇくらいの、純粋な『火力』の差がな」
カルムは、残された左手で、瓦礫の上に腰を下ろした。
彼の炭化した右腕が、微かな振動で灰を落とす。
「カルム……でも、僕たちは諦めないって……」
アルが、食い下がるように言った。
「ああ、諦めねぇよ。絶対に、あいつらをぶっ飛ばして、俺たちの食卓を取り戻す」
カルムの左目は、暗闇の中でもギラギラと獣のような光を放っていた。
「だけどよ、アル。……今の俺たちじゃ、お前の背中を護れねぇんだよ」
カルムの言葉が、重く、鋭く、アルの胸に突き刺さった。
「……え?」
「お前は、包丁が折れても戦うって言った。新しい包丁を手に入れて、神様の法則を解体するってな。……俺は、お前のその覚悟を信じてる。お前なら、絶対にできる」
カルムは、自身の使えなくなった右腕を見下ろした。
「だけど、今の俺を見てみろ。マナ回路が焼け落ちて、火が出せねぇ。右腕は使い物にならねぇ。……ただの、足手まといの不良品だ」
「そんなことないッ! カルムは僕の相棒だ! 足手まといなんかじゃないッ!」
アルが、涙を浮かべて激しく首を振る。
「……現実を見ろ、アル」
カルムの声が、かつてないほどに厳しく、そして悲痛な響きを帯びた。
「使徒どもは、容赦しねぇ。あいつらは、お前を殺すためなら手段を選ばねぇ。……そんな戦場に、今の俺がついていって、どうなる? お前は、俺をかばって戦わなきゃならなくなる。俺が盾になるどころか、お前の足を引っ張って、最悪……お前を死なせることになる」
「……っ……」
アルは、言葉に詰まった。
カルムの言っていることは、論理的で、反論の余地がないほど正しかったからだ。
「エレナ、あんたもそうだろ」
カルムが、倒れているエレナへと視線を向けた。
「……あぁ」
エレナは、静かに目を閉じた。
「私の両腕は砕け、盾となる剣もない。……今の私は、アル殿の足枷でしかない。私がいることで、アル殿の生存確率を下げてしまう」
「二人とも……なんでそんなこと言うの……。僕たちは、ずっと一緒に旅してきたじゃないか……! 一緒に、温かいご飯を食べてきたじゃないか……っ!」
アルの悲痛な叫びが、焦土の暗闇に空しく響いた。
アルにとって、カルムやエレナ、オルタたちと一緒に食卓を囲むことこそが、旅の目的であり、彼自身の存在意義であった。
彼らが「自分は足手まといだ」と言って離れていくようなことは、絶対に認めたくなかった。
四、 守るための残酷な選択
「アル。俺はお前を護るために、強くなりてぇんだ」
カルムは、アルの肩を、残された左手で強く掴んだ。
「お前が安心して料理を作れるように。お前の背中を、誰にも脅かされないように。……俺は、お前の『最強の相棒』でありてぇんだよ」
カルムの左目から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
「だけど、今の俺じゃダメだ。……火を失った俺は、一から……いや、ゼロから自分を鍛え直さなきゃなんねぇ。マナに頼らない、神の法則すらもぶち抜ける『究極の肉体』と『新しい炎(魂)』を、見つけ出さなきゃなんねぇんだ」
「カルム……」
「そのためには……お前と一緒じゃダメなんだ」
カルムの言葉は、まるで鋭いナイフのように、アルの心を切り裂いた。
「お前と一緒にいれば、俺は絶対にお前に甘えちまう。お前の作る温けぇスープを飲んで、安心しちまう。……今の俺に必要なのは、安心じゃねぇ。血を吐いてでも強くなるための、極限の地獄だ」
カルムは、アルから手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「だから……俺は、お前から離れる」
「……ッ!」
アルの瞳が、限界まで見開かれた。
「この忘却の深淵……ここには、星の原初マナが渦巻いてる。俺の焼け焦げた身体を鍛え直すには、これ以上ない最悪で最高の環境だ。……俺は、この地獄の底を一人で彷徨って、絶対に強くなってやる」
「ダメだよ! そんな身体で一人になったら、死んじゃうかもしれないじゃないか!」
アルが、カルムのエプロンにしがみつこうとする。
「死なねぇよ」
カルムは、優しくアルの手を解いた。
「俺は、お前の相棒だぞ? お前の作った飯を、また腹いっぱい食うまでは、絶対に死ぬわけがねぇ」
カルムの決意は、鋼のように固まっていた。
彼はアルを嫌いになったわけではない。むしろ、アルを誰よりも大切に想い、アルに「背中を預けてもらう」資格を取り戻すために、あえて孤独という名の地獄へと足を踏み入れようとしているのだ。
「……カルム殿の言う通りだ」
血の海の中で、エレナが静かに口を開いた。
「アル殿。……私も、ここで君とは道を違えねばならない」
「エレナさんまで……っ!」
「私は、不滅の盾としての力を完全に失った。……このまま君についていっても、ただの荷物になるだけだ。……私は、私自身の力で、両腕の傷を癒し、折れた星霜に代わる『真の盾』を見つけ出さねばならない」
エレナは、痛みで歪む顔に、かつての気高き騎士としての微笑みを浮かべた。
「私も、強くなる。神の理不尽に踏み躙られない、絶対の盾として生まれ変わる。……そのために、私は私自身の過酷な試練へ向かわねばならないのだ」
カルムと、エレナ。
彼らは、それぞれが己の無力さを骨の髄まで噛み締め、そして、アルを真に護り抜くための力を得るために、【一時的な別離】という残酷な選択を自らの意志で下したのだ。
五、 剥き出しの心と血の誓い
「……いやだ……」
アルは、両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくった。
「いやだ……いやだよ……っ! みんながいなくなったら、僕は……誰のためにご飯を作ればいいの……。一人で……どうやって戦えばいいの……っ!」
これまでの旅、アルは決して一人ではなかった。
どんな強敵が現れても、隣にはカルムの炎があり、前にはエレナの盾があり、後ろにはオルタのサポートがあった。
だからこそ、アルは絶望せずに包丁を振るうことができたのだ。
それが今、すべて失われようとしている。
武器は折れ、マナは枯渇し、仲間たちは己を鍛えるために離れていく。
完全なる孤独。
それは、スラムのゴミ捨て場で一人震えていた時の、あの凍りつくような絶望と同じだった。
「泣くな、シェフ」
カルムが、アルの前にしゃがみ込み、その頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「俺たちは、お前を捨てるわけじゃねぇ。……お前が強くなるための時間を、俺たちが稼ぐんだ」
「僕が……強くなる……?」
「そうだ。お前は言っただろ? 神様の法則を解体する、最高の包丁を手に入れるって。……お前は、一人でそれを見つけ出さなきゃなんねぇ。俺たちが守ってちゃ、お前は本当の意味で『神を斬る特異点』にはなれねぇんだよ」
カルムの言葉は、痛いほどにアルの胸に響いた。
アルもまた、気づいていたのだ。
自分がこれまで、どれだけ仲間たちの力に守られ、甘えてきたかということに。
自分の火力が足りなかったから、仲間たちをこんな目にあわせてしまったのだと。
自分が本当に神の理不尽をぶち壊し、仲間たちの居場所を護るためには、自分自身が極限まで強くなり、誰も届かない領域の【最高の料理人】にならなければならない。
「アル殿」
エレナが、血に濡れた顔でアルを見つめた。
「君は、一人ではない。……離れていても、私たちの心は常に君の作った食卓と共にある。……君の胸の『炉』が再び燃え上がる時、私たちもまた、必ず君の元へ駆けつけると誓おう」
カルムとエレナの剥き出しの想い。
それは、絶望のどん底にあって、互いの鎖を断ち切り、より強靭な絆として結び直すための、血の滲むような『誓い』であった。
「……うぅ……っ……」
アルは、腕で乱暴に涙を拭った。
まだ涙は止まらない。寂しくて、怖くて、心が張り裂けそうだった。
でも、仲間たちがこれほどの覚悟を決めて、自分のために強くなろうとしてくれているのに、自分だけがここで泣き言を言って立ち止まるわけにはいかない。
「……わかった」
アルは、血塗れの顔を上げ、漆黒の瞳に宿る【修羅の覚悟】をさらに強く燃やした。
「僕も……強くなる。……一人で、最高の包丁を見つけて、胸の炉をもう一度燃やして……絶対に、神様の理不尽を解体できる料理人になってみせるッ!」
アルは、自分の胸元から、折れた『黒鉄の包丁の柄』を取り出し、それを両手で固く握り締めた。
「そして……絶対に、またみんなで集まるんだ。僕が世界で一番美味しいご飯を作って待ってるから……絶対に、絶対に生きて帰ってきてねッ!」
アルの悲痛な、だが力強い決意の叫びが、焦土の暗闇に木霊した。
六、 背中を預けるために
「へっ……約束だぜ、シェフ」
カルムは、満足そうに八重歯を見せて笑い、立ち上がった。
「次に会う時は、お前のその泥スープじゃなくて、極上のフルコースを食わせてもらうからな。……それまで、死ぬんじゃねぇぞ」
「アル殿。……君の未来に、星霜の導きがあらんことを」
エレナもまた、動かない腕のまま、心の中で最高の敬礼をアルへと送った。
焦土の空洞。
忘却の深淵の入り口で、チーム『最高の厨房』は、最大の絶望を前にして、発展的な解消(解散)を宣言した。
すべては、再び笑い合って食卓を囲むため。
すべては、神という理不尽な暴力を打ち砕き、互いに安心して『背中を預けるため』に。
カルムは、左手一本で瓦礫の壁を伝い、焦土のさらに奥深く、原初マナが荒れ狂う混沌の深淵へと向かって、一人で足を引きずりながら歩み始めた。
彼の背中は、傷だらけで、右腕は炭化して垂れ下がり、見るも無惨な姿だった。
しかし、その足取りには、決して折れることのない闘志と、相棒への絶対的な信頼が満ち溢れていた。
アルは、そのカルムの遠ざかる背中を、涙で滲む視界の中で、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。
(いってらっしゃい、カルム。……エレナさん)
アルは、折れた包丁の柄を胸に抱きしめ、一人、焦土の暗闇に取り残された。
意識を失っているセリアと、壊れたオルタを傍らに置き、彼は己の無力さと孤独に、完全に一人で立ち向かわねばならない。
神の理を越える包丁は、どこにあるのか。
枯渇した『炉』を再び燃やすための火種は、どうやって見つけるのか。
すべてが未知であり、極限のサバイバルが彼を待ち受けている。
教国ルミナの地上では、使徒たちによる『大氷期』の神罰が進行し、世界は絶対静止の氷の中へと沈みゆこうとしている。
その冷たい世界の片隅で。
少年料理人アルの、己のすべてを賭けた孤独な【再起の旅】が、いま、ひっそりと、だが圧倒的な熱を秘めて幕を開けようとしていた。




