第94話:カルムの決意
一、 灰の右腕と、届かなかった火
熱い。いや、冷たいのか。
感覚の混濁した深い泥沼の底から、カルムの意識は浮上していった。
「……ッ……ぐ……ぉ……」
重い目蓋をこじ開けた瞬間、全身の細胞という細胞が悲鳴を上げ、脳髄を直接針で刺されるような凄まじい激痛が走った。
呼吸をするたびに、肺の奥で血の泡が弾ける。
焦土の空洞に漂う硫黄と土埃の匂いが、塞がりかけた左目と、かろうじて開いた右目の視界をぼんやりと覆っていた。
「ここ……は……」
カルムは、乾き切った唇を動かし、掠れた声を出した。
脳裏に、直前の記憶がフラッシュバックする。
第二使徒エノクの絶対零度、第三使徒バアルの概念封殺、そして第一使徒補佐メリエルの法則改変。
圧倒的で、絶対的で、無慈悲な神の武力。
アルが踏み躙られ、エレナが血の海に沈むのを見た。
その瞬間、己の魂が爆発し、命と寿命のすべてを薪にして、極限覚醒の炎【全界焦土咆哮】を放った。
物理法則すらも力ずくで焼き切り、三使徒の防壁へ真正面から叩きつけた、俺の人生で最高の、最強の炎。
だが。
(……効かなかった……)
カルムは、石畳に横たわったまま、奥歯をギリッと噛み締めた。
自分の全存在を懸けた一撃が、使徒たちの装甲を数ミリ削っただけで、いとも容易く再生されてしまったあの絶望の光景。
覚悟は決まっていた。死ぬ気で殴った。
なのに、俺の火力は、あいつらの防御力という「数値」の前に、完膚なきまでに打ち砕かれたのだ。
「……クソが……ッ」
カルムは、身体を起こそうとして、自分の『異変』に気がついた。
力が入らない。
いや、違う。感覚が、ないのだ。
カルムは、首だけを動かして、自分の右腕を見た。
これまで、アルの作ったご飯を口に運び、敵を殴り飛ばし、極光炎を放ってきた自慢の右腕。
そこにあったのは、腕ではなかった。
「……あ……」
肩から指先まで、完全に黒焦げの【炭の塊】と化していた。
皮膚も、筋肉も、血管も、すべてが焼け焦げ、触れるだけでボロボロと黒い灰となって崩れ落ちていく。
極限の炎を放った代償。自分の身体が許容できる熱量の限界を遥かに超えたマナを無理やり排出した結果、右腕の細胞が完全に死滅してしまったのだ。
「俺の……右腕……」
カルムは、呆然とその黒い炭の塊を見つめた。
痛みすらない。すでに神経が完全に焼き切れてしまっているからだ。
使えなくなった右腕。もう二度と、この腕で炎を放つことも、アルの背中を護るために拳を握ることもできない。
自分の無力さと、完全敗北の代償が、黒い灰となってカルムの目の前に突きつけられていた。
二、 残された命と、最悪の味
「……へっ……ざまぁねぇな……」
カルムは、自嘲気味に笑おうとして、再び激しく咳き込んだ。
血の塊が喉を詰まらせる。
だが、その時、口の中に残っている【不気味な味】に気がついた。
泥と、硫黄と、強烈なえぐみ。
お世辞にも食べ物とは呼べないような、ドロドロとした液体の味。
「……なんだ、この……クソまずい味は……」
カルムは、その味に心当たりがあった。
意識を失う寸前、喉の奥に流し込まれた温かい液体。
エノクの冷気で完全に凍りついていた自分の心臓を、内側から強引に叩き起こしてくれた、あの不格好な熱。
カルムが視線を巡らせると、焦土の瓦礫の向こう側で、うずくまっている小さな影が見えた。
「アル……」
アルだった。
血と泥にまみれ、エプロンはボロボロに引き裂かれ、全身に痛々しい傷を負った少年料理人。
アルは、近くの小さな水溜まりの前で膝を抱え、自分の手の中に何かを大事そうに抱きしめていた。
カルムの視力でも、それが何なのかは分かった。
刃を失い、半ばから叩き割られた『黒鉄の包丁の柄』だ。
アルが一番大切にしていた包丁が、折れている。
アルの背中が、小刻みに震えているのが見えた。彼もまた、己の無力さと、神の理不尽の前に完膚なきまでに打ちのめされ、絶望の泥水の中で泣いていたのだ。
(アル……)
カルムは、声をかけようとして、言葉を飲み込んだ。
俺が……俺が弱かったからだ。
俺の火が使徒を焼き尽くせていれば、アルがあんな風に包丁を折られて、涙を流すことなんてなかったんだ。
相棒を護るための火だと言いながら、一番大事な時に火力が足りなかった。
だが、アルは泣き崩れたままではなかった。
カルムが見つめる中、アルはゆっくりと顔を上げた。
アルが手にした折れた包丁の柄を、自らの胸元へと強く抱きしめる姿が見えた。
そして、アルが立ち上がった時のその横顔。
血と涙に塗れたその漆黒の瞳には、絶望を飲み込み、神の理不尽を絶対に解体してやるという【修羅の覚悟】が、静かに、だが確かな熱を持って宿っていた。
アルは、折れていない。
完膚なきまでに負けて、武器を失って、すべてを奪われたのに。
あの小さな少年料理人は、己の無力さを噛み締めた上で、まだ立ち上がろうとしている。
俺たちの命を繋ぐために、あの『最悪にまずい泥スープ』を作って、一人で戦い続けようとしているのだ。
三、 喪失と、沈黙する火種
「……俺が……寝てる場合じゃねぇだろ……ッ!」
カルムは、残された左腕を地面につき、折れた骨が軋む激痛に耐えながら、必死に身体を起こそうとした。
「う……おおおおおぉぉぉぉぉっ……!」
全身の筋肉が断裂の悲鳴を上げ、傷口から新たな血が噴き出す。
だが、カルムは歯を食いしばり、半身を起こすことに成功した。
「アル……! 待ってろ、今……俺も……ッ」
カルムは、アルの隣に並び立つために、己の胸の奥底にある毛術回路(マナ回路)へ意識を集中させた。
極限覚醒で使い果たしたとはいえ、俺の魂の火種が完全に消えたわけじゃない。
もう一度、火を。
右腕が使えなくても、左腕で、足で、身体全体で、炎を纏って戦ってやる。
カルムは、左拳を強く握り締め、体内のマナを練り上げようとした。
——しかし。
「……え?」
カルムの左拳には、何も起きなかった。
群青の炎も、緋色の熱気も、一ミリたりとも発現しない。
「おい……嘘だろ……」
カルムは、焦りとともに、もう一度、さらに深く意識を集中させた。
胸の奥の、マナの泉があるはずの場所。
そこにあるのは……。
【完全なる虚無】であった。
「……マナが……ない……?」
カルムは、青ざめた顔で自分の胸を押さえた。
マナが「枯渇」しているのではない。マナを生み出し、体内に循環させるための『毛術回路そのもの』が、先ほどの極限覚醒のオーバーロードによって、完璧に焼け落ちて消滅してしまっていたのだ。
右腕の炭化だけではない。
カルムという人間の肉体から、魔法使いとしての機能が、根こそぎ失われてしまったという事実。
「火が……出ねぇ……」
カルムは、震える左手を見つめた。
ただの火種すら生み出せない。
これでは、ただの重傷を負った人間だ。スラムのゴロツキと殴り合っても負けるかもしれない、ただの弱い肉塊。
戦士としてのアイデンティティの完全なる喪失。
俺から『火』を取ったら、一体何が残るっていうんだ。
これじゃ、アルの背中を護るどころか、ただの足手まといにしかならねぇじゃないか。
絶望が、再びカルムの心を暗い淵へと引きずり込もうとする。
使徒との戦力差という現実の前に、自分は戦うための『武器』すらも完全に失ってしまったのだ。
四、 己の弱さと血の涙
「……クソッ……クソッ……クソがァァァァァッ!!」
カルムは、残された左手で、焦土の石畳を何度も何度も殴りつけた。
ドスッ……! ドスッ……!
左手の拳の皮が破れ、血が滲む。
だが、そんな痛みはどうでもよかった。
「なんでだよ……ッ! なんで、俺はこんなに弱いんだよッ!!」
カルムの左目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
スラムで野垂れ死にそうになっていた俺を、アルが拾ってくれた。
アルが作ってくれた温かいスープが、俺の冷え切っていた心を溶かし、生きる意味をくれた。
『俺のこの火は、お前の厨房を護るための火だ!』
そう誓ったはずだった。
第一使徒ガラテアと戦った時も、海竜の腹の中で死にかけた時も、俺はアルのために強くなろうと必死に炎を燃やし続けてきた。
俺は、アルの『最高の相棒』でいたかった。
あいつが安心して料理を作れるように、どんな理不尽な敵でも焼き尽くせる、最強の盾と矛でありたかったんだ。
「それなのに……なんだよ、これは……ッ」
カルムは、炭化した右腕と、火の出ない左手を見比べ、嗚咽を漏らした。
肝心な時に、力が足りなかった。
神様の壁の前に、手も足も出ずに叩き潰された。
挙句の果てに、火すら出せなくなって、あいつの隣に立つ資格すら失っちまった。
「俺は……アルの相棒失格だ……」
カルムは、泥に顔を押し当て、声を殺して泣いた。
血の混ざった泥の味が、口の中に広がる。
アルが作ってくれた、あの最悪にまずい泥スープの味。
味は最悪だったが、そこには確かにアルの「死なないでくれ」という必死の祈りと、命の温かさが込められていた。
あいつは、あんなにボロボロになっても、俺たちを生かすために包丁(折れた鉄片)を振るってくれた。
あいつは、絶対に諦めていない。
それなのに、俺がここで自分の不甲斐なさに泣いていて、どうするんだ。
五、 灰の中から掴み取る決意
ザクッ、ザクッ……。
泥を踏みしめる足音が、近づいてきた。
カルムがハッと顔を上げると、そこには、折れた包丁の柄をエプロンにしまい込み、血塗れの顔で歩み寄ってくるアルの姿があった。
「カルム……! 目が覚めたんだね!」
アルが、ボロボロの身体を引きずりながら駆け寄り、カルムの無事な左手を両手でギュッと握り締めた。
その手は小さくて、冷え切っていて、傷だらけだった。
「よかった……本当によかった……。カルムの息が止まりそうだったから、僕、すごく怖かったんだ……っ」
アルの漆黒の瞳から、安堵の涙が溢れ出す。
その顔を見た瞬間、カルムの胸の中で燻っていた「自分は足手まといだ」という惨めな感情が、スゥ……と消え去っていくのを感じた。
(……バカ野郎。あいつがこんなにボロボロになってんのに、俺が弱音を吐いてどうするんだ)
カルムは、泣き顔を悟られないように、乱暴に左手で顔の泥を拭い、不敵な笑みを浮かべた。
いつものように。どんな絶望の中でも、アルを安心させるために見せてきた、あの八重歯の笑顔を。
「……へっ。泣くなよ、シェフ。……俺が、こんな泥水の中で死ぬわけねぇだろ」
カルムは、アルの手を握り返した。
「だけどよ……お前の作ったあのドロスープ、マジで最悪の味だったぜ。……俺が死にかけたからって、あんな手抜き料理食わせるなんて、相棒として許せねぇな」
「ごめんね……。今は、あれしか作れなくて……」
アルが申し訳なさそうに俯く。
「謝ってんじゃねぇよ。……あのクソまずいスープのおかげで、俺は地獄の底から引き返してこれたんだ。……最高の温かさだったぜ」
カルムは、自分の炭化した右腕を、隠すことなくアルに見せた。
「……カルム、その腕……!」
アルが息を呑み、顔を青ざめさせる。
「ああ。どうやら、火を燃やしすぎちまったみたいだ。……右腕は炭になっちまったし、胸の中の回路も、全部スッカラカンだ。……俺はもう、魔法(火)が使えねぇ」
カルムは、残酷な現実をあっさりと口にした。
アルの瞳が、激しく揺れ動く。自分のせいで、カルムが力を失ってしまったのだと、自責の念がアルの顔に浮かぶ。
「アル。お前、今、自分のせいでこうなったって思っただろ」
カルムが、低い声で言った。
「だ、だって……僕がもっと強ければ……!」
「バカ言え。俺が勝手に命を燃やしたんだ。……お前を護りたくて、俺が自分で選んだことだ。お前が背負う必要は、一ミリもねぇ」
カルムは、残された左手でアルの頭をポンと撫でた。
「火が使えなくなったくらいで、俺が折れると思ってんのか? 右腕がねぇなら左腕で殴る。左腕がねぇなら足で蹴る。……俺の『相棒』を護るための力は、マナなんかじゃねぇ。俺の『魂』そのものだッ!」
カルムの左目に、再び強烈な光が宿った。
マナ(魔法)の光ではない。己の無力さを噛み締め、すべてを失った灰の中から、それでも前へ進むことを決意した【人間の闘志】の輝き。
「使徒どもがなんだ。神様の理不尽がなんだ。……俺たちの火力が足りなかったなら、あいつらの法則ごとブチ抜けるくらい、もっと強烈な『新しい力』を手に入れてやるだけだろ!」
カルムの言葉に、アルの瞳の奥で燻っていた『修羅の覚悟』が、パッと明るい黄金の炎となって呼応した。
「うん……! 僕も、絶対に諦めない。包丁が折れても……新しい、神様を切れる最高の包丁を手に入れるんだ!」
アルが、力強く頷く。
「へっ、それでこそ俺のシェフだ」
カルムは、立ち上がろうとして、足元をふらつかせた。
マナがなくても戦うと見栄を切ったものの、現実として肉体は極限のダメージを負っており、歩くことすらままならない。
「無理しちゃダメだ、カルム!」
アルが慌ててカルムの身体を支える。
「わりぃ……。どうやら、気合だけじゃ身体は動いてくれねぇらしい……」
カルムはアルの肩を借りながら、焦土の暗闇を見渡した。
血の海に倒れているエレナ。意識のないセリア。壊れたオルタ。
全員が、文字通りボロ雑巾のように打ちのめされ、生きているのが不思議なほどの状態だ。
「アル。俺たちは今、完璧に負けた。ゼロ……いや、マイナスからのスタートだ」
カルムが、真剣な顔でアルを見つめた。
「うん……」
「だがな、俺たちは生きている。生きてさえいれば、腹は減るし、強くなるチャンスは必ずある。……まずは、この地獄の底から這い上がる方法を見つけねぇとな」
カルムの決意。
それは、魔法使いとしての『火』を失い、最強の武器であった右腕を喪失したという絶望的な現実を受け入れた上で、それでもアルの隣に立ち、アルの背中を護るための「新しい戦士」として生まれ変わるという、血を吐くような覚悟であった。
己の無力さとの対峙を越え、絶望の底で再び前を向いた少年料理人と、火を失った相棒。
彼らがこの暗黒の深淵で、どのようにして仲間たちを救い出し、次なる反撃の糸口を掴むのか。
神に見捨てられた焦土の中で、二人の小さな、だが決して折れることのない誓いが、静かに響き渡っていた。




