第87話:打ち砕かれる炎
一、 煙塵の焦土と、迫り来る三影
ジュウゥゥゥゥ……ッ。
奈落の空間全体を覆っていたマグマと灼熱の蒸気が、寒冷な神聖抑圧マナに触れて、徐々に白く冷たい霧へと変わっていく。
「……ハァ……ハァ……っ……!」
少年料理人アルは、膝を突き、倒れかけた相棒カルムの身体を両腕で必死に支えていた。
アルの胸の『炉』は、休むことなく熱を放ち、カルムの冷えていく肉体へ体温を注ぎ込もうとしている。しかし、カルムの全身の毛術回路(マナ回路)は、先ほどの命を薪にした【極限覚醒】によって完全に焼き尽くされており、アルの熱を受け止める器(回路)そのものが崩壊していた。
「カルム! しっかりして! 目を開けてよ、カルムッ!!」
アルの叫びが、虚しく白い霧の中に消えていく。
カルムの右腕の皮膚は、炭のように黒く焦げ付き、触れるだけでボロ壊れるように灰を散らしていた。彼の右目の瞳孔は開きかけ、胸の上下は今にも止まりそうなほどに浅く、途切れ途切れだ。
「……へっ……泣くなよ……シェフ……」
カルムの唇から、血の泡とともにかすかな声が漏れた。
「俺の火……全部、出し切ったんだ……。あの……神様どもに……俺たちの火力が……届いたろ……?」
「届いたよ! すごかったよ! だから、もう喋らないでッ!」
アルの涙が、カルムの黒焦げの頬にポタポタと落ちる。
だが、アルも、カルムも、そして満身創痍で倒れているエレナやセリアも、知っていた。
絶望は、何一つ去っていないということを。
ザッ……。ザッ……。
白く立ち込める蒸気の向こう側から。
重く、規則正しい足音が、三つ、同時に近づいてくる。
「……見事な炎でしたよ、野良犬」
蒸気を押し分けて姿を現したのは——第一使徒補佐メリエル、第二使徒エノク、そして第三使徒バアル。
メリエルの背中の十二枚の光の羽は、数枚が焦げ落ちていた。
バアルの巨大な『無の聖杖』の先端は赤く歪み、背中の『白銀の概念鏡』には亀裂が入っていた。
エノクの純白の法衣にも、焦げ跡が残っている。
カルムの命を燃やした覚醒の炎は、確かに神の代行者である彼らに「傷」を負わせたのだ。
しかし——それだけであった。
使徒たちの眼差しには、恐怖も、焦りも、敗北の影すらも存在しない。
彼らの身体を包む神聖マナが、一瞬にして自らの負傷を自己修復し、焦げた法衣や損傷した聖杖を、元の完璧な白銀の姿へと戻していく。
「自らの命と引き換えにして放った最大出力の爆発……それが、我々の表層の装甲をわずかに削っただけで終わる。……これが、人間と使徒との間に横たわる、埋めることのできない『構造の差』です」
メリエルが、修復された『創世の法典』を静かに開きながら、冷酷に言い放った。
二、 打ち砕かれる炎
「……な……に……っ!?」
カルムの潰れかけた右目が、信じられないというように見開かれた。
自分の寿命を削り、骨を砕き、命の最後の1滴までを薪にして燃やし尽くした【全界焦土咆哮】。
深海の海竜すらも温め、神の法則すらも焼き切った、己の人生史上「最高の火力」。
それが——相手の装甲をかすり傷程度に削り、数秒で元通りに再生されて終わったという、絶望的な現実。
「バカな……。俺の……俺の全存在をかけた火が……効いてねぇ……だと……!?」
カルムの全身が、ガタガタと激しく震え出した。
恐れていたのではない。
自分の「自慢の火」が、相棒を護るために放った「最強の拳」が、敵の決定的なダメージにすら成り得なかったという、圧倒的な【力不足】の事実。
その残酷な現実が、カルムの胸を鋭く抉り、彼の誇りと絶望を同時に打ち砕いたのだ。
「カルム……ッ!」
アルが、カルムの身体を強く抱きしめる。
「無駄な足掻きでしたね」
第二使徒エノクが、一歩前へ踏み出した。
「あなたがどれほど命を燃やそうと、我が『絶対静止』の概念を消し去ることはできない。……燃え尽きた蝋燭に、二度目の火が灯ることはありません」
エノクが、細身の指先を、崩れ落ちるカルムの額へと突き向けた。
「今度こそ、あなたのその不快な熱の根源(毛術回路)を、二度と再生できぬよう完全凍結して差し上げましょう」
エノクの指先から、絶対零度の氷の針が、死の閃光となって放たれた!
「やめろォォォォォォッ!!」
アルが、カルムの前に己の小さな身体を投げ出した。
カキィィィィィィィィィィンッ!!!!
アルの黒鉄の包丁が、エノクの氷の針と激しく衝突し、凄まじい衝撃波がアルの全身を襲う。
「がはっ……!」
アルは口から血を吹き出しながらも、踏み止まり、エノクの攻撃をギリギリで弾き返した。
「アル殿……! 下がれ……ッ!」
血溜まりの中で意識を取り戻したエレナが、折れた聖剣の柄を握り締め、震える腕でアルの前に這い出そうとする。
「ダメだ、エレナさん! 動いちゃダメだ!」
アルが叫ぶ。
「ふふふ……無惨ですわねぇ、バグの群れ」
上空に浮遊する新・聖女セラフィナが、白磁の仮面を揺らして嘲笑した。
「不滅の盾は砕かれ、最強の炎は鎮火し、残されたのは包丁を持っただけの無力な子供一人。……これが、神の教律に背いた者たちの哀れな末路ですわ!」
三、 概念封殺の絶対絶望
「排除シーケンス、最終フェーズへ移行」
第三使徒バアルが、修復された巨大な『無の聖杖』を掲げ、重低音の合成音を奈落に響かせた。
「領域内の全生物の生命活動運動を、強制ゼロへと固定(固定化)。……抵抗の試み、すべてを無効化する」
バアルの背中に背負われた『白銀の概念鏡』が、先ほどのカルムの炎によって刻まれた亀裂を完全に修復し、眩いばかりの死の光を放ち始めた。
ズズズズズズズズズズズズッ……!!
奈落の空間全体に、物理法則そのものを麻痺させる【概念封殺結界】が再展開される。
「う……あぁ……っ!?」
アルは、両膝を強く床に叩きつけた。
重力ではない。
自分の全身の細胞、マナの巡り、そして胸の『炉』の回転そのものが、上空からの不可視の力によって「動くな」と命じられ、無理やり固定されているのだ。
指一本動かせない。
黒鉄の包丁を握り直すことすら、途方もない重圧に阻まれる。
カルムは完全に力を使い果たしてピクリとも動かず、エレナとセリアは血の海で虫の息、オルタは機能停止。
そして、アル自身も、使徒たちの圧倒的な神威の前に、完全に「詰み」の状態へと追い詰められていた。
「理解できましたか、特異点」
第一使徒補佐メリエルが、宙から静かに降り立ち、アルの目と鼻の先へと着地した。
彼女の手に握られた『創世の法典』から、冷たく清らかな光が漏れ出ている。
「あなたの存在そのものが、この世界にとっての『エラー』なのです。……あなたが熱を放てば放つほど、周囲の人間は無駄な希望を抱き、結果としてより深い絶望へと叩き落される」
メリエルが、アルの顎に、冷たい指先をそっと触れさせた。
その指先から流れ込む絶対零度の冷気が、アルの脳内を、思考を、直接凍らせようと侵入してくる。
「あなたの旅は、ここで終わりです。……あなたが守ろうとした仲間も、この奈落の人々も、すべて我が法典の中に漂白され、永遠の静寂へと還るのです」
「……いや……だ……」
アルの口から、血の混ざった掠れた声が漏れる。
「……みんなを……連れて……温かい……食卓に……帰るんだ……ッ!」
アルは、金縛りのような概念封殺の重圧に抗い、血を吹き出しながら、必死に『黒鉄の包丁』を持ち上げようとした。
【真理の目】が、真っ赤に染まった視界の中で、最後の力を振り絞って黄金に明滅する。
因果の糸を探す。
この三体の使徒を、この絶望の空間を解体するための『結び目』を。
だが——。
視えない。
メリエルの書き換えた法則、バアルの概念封殺、エノクの絶対静止。
三つの神威が重なり合ったこの完璧な空間には、アルの包丁で切れるような「縫い目(糸)」すら存在しなかったのだ。
神の完璧な計算式。そこには、人間が入り込む隙など、最初から一ミリも用意されていなかった。
「無駄です」
メリエルが、哀れむように目を伏せた。
「さようなら、特異点」
四、 滅びの光と、砕け散る炎
メリエルが、『創世の法典』の全ページを、頭上へと高く掲げた。
ギュイィィィィィィィィィンッ!!
神座の塔の頂点から、教国ルミナ全体を覆う黒銀の暗雲から、そして三体の使徒の神聖光環から。
一斉に、世界そのものを漂白し、消滅させる【滅びの神聖光柱】が生成された。
その光柱の標的は——アル、カルム、エレナ、セリア、オルタ、そして奈落に眠る何百人もの不適合者たち。
この絶望の空間に存在するすべての生命を、一瞬で「無」へと還すための、完全なる神罰。
「……ここまで……なのか……」
セリアが、涙を流しながら目を閉じた。
エレナも、折れた聖剣の柄を握りしめたまま、静かに刃のなくなった天を見上げた。
カルムは、アルの足元で、ただ呼吸を繋ぐことしかできない。
光が、降り注ぐ。
アルたちの視界が、真っ白な【死の光】によって埋め尽くされていく。
絶望。
圧倒的な戦力差。
自分たちがどれほど命を燃やし、絆を叫ぼうとも、神の絶対的な武力の前には、ただ打ち砕かれることしかできなかったという、残酷すぎる現実。
チーム『最高の厨房』の旅が、この白銀の教国の最深部において、完全なる【敗北】という名の終焉を迎えようとしていた、その瞬間——。




