第88話:絶望の戦力差
一、 漂白される視界と、折れぬ意志の影
ドォォォォォォォォォォォォォンッ……!!
奈落の天井、そして教国ルミナの天空を埋め尽くしていた黒銀の暗雲から放たれたのは、世界そのものを漂白し、すべての物質と概念を「無」へと還元する巨万の神聖光柱であった。
光が空間を通過するだけで、衝撃波や大音響すらも打ち消され、ただ絶対的な純白の領域が急速に拡大していく。
触れた岩石は、一瞬にして分子レベルで分解されて白い粉末へと変わり、空気中に漂う微弱な熱運動ですらも、光の波動に飲み込まれて完全な静止へと追いやられていく。
「……諦めるな……ッ! 諦めるんじゃないッ!!」
奈落の底、瓦礫とマグマの残滓が入り交じる地獄の中で、少年料理人アルの血吐くような叫びが響いた。
アルの全身からは、胸の『炉』が命の根源を削り出して生み出す黄金のオーラが、途絶えかける光を放って噴き出していた。
彼の左右には、満身創痍の仲間たちがいた。
右肩から胸元にかけての甲冑を完全に打ち砕かれ、愛剣『星霜』を失いながらも、素手で己の全マナを練り上げる元・最高位聖騎士長エレナ。
エノクの冷気によってマナ回路を破砕されながらも、アルのスープによって「心」を取り戻し、血を吐きながら立ち塞がる新・聖騎士長セリア。
そして、機能の八割を停止させ、全身から青白い火花を散らしながらも、残された補助演算コアの全てをアルの防壁維持へと回している機甲素体オルタ。
「【絶対教律・不滅創世陣】ッ!!」
エレナとセリア、そしてオルタの残留マナが交差し、アルの放つ黄金の体温と融合する。
彼らが展開したのは、死力を尽くした最後の「全方位複合防衛結界」。
ドガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!!
上空から降り注いだ神聖光柱の群れが、彼らの展開した黄金と青白銀の複合結界へと正面から激突した。
空間が歪み、爆発的なエネルギーの干渉波が奈落全体を吹き飛ばす。
結界の表面は、降臨する神光に触れた先から一ミリ、また一ミリと削り取られ、ガラスが割れるような乾いた悲鳴を上げ続けていた。
「ぐ……あぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
「くっ……! 抑え……抑え込めぇぇぇぇっ!!」
エレナとセリアの口から、大量の鮮血が吹き出した。
あまりの重圧に、二人の膝の骨が嫌な音を立てて軋み、彼女たちの足元の石畳がクモの巣状に砕けて陥没していく。
しかし、誰一人として、その目を恐怖で逸らす者は存在しなかった。
心が折れたのではない。
逃げ出したいわけでもない。
自分たちがここで引けば、背後にいるアルが、そして彼らの作った「温かな食卓」という希望が、世界から永遠に消え去ってしまうことを誰よりも理解しているからだ。
過去のトラウマも、己の不完全さも、すべてを受け入れた上で、彼らの「護る」という覚悟は、過去の旅のどの瞬間よりも苛烈に、そして気高く燃え上がっていた。
ズドォォォォォォォンッ!!
直撃こそ免れたものの、崩壊する結界の余波が、彼らをまとめて数千メートル地下の奈落の壁へと吹き飛ばした。
「ガハッ……! ゲホッ……っ!」
壁に激しく叩きつけられ、血の海へと転がり落ちるアルたち。
だが、彼らは倒れなかった。
エレナは血で塗れた顔を上げ、セリアは折れたレイピアの柄を固く握り直し、アルはボロボロになった黒鉄の包丁を両手で握り締め、ゆっくりと、確実に、再び立ち上がった。
覚悟は決まっていた。
どれほどの神威が降り注ごうとも、彼らの胸にある「心」は、一微塵も挫けてなどいなかった。
二、 覚悟の限界と、神々の絶対領域
「……あはっ、あははははははッ!」
奈落の空中に浮遊する新・聖女セラフィナが、白磁の仮面を揺らして、甲高い嘲笑を響かせた。
「可哀想に! 本当に哀れな虫けらども!……まだそんな汚らしい目をして、主神アルファ様の神威を見上げているのですか? あなたがたの『覚悟』などという見苦しい悪あがきが、神の御心に届くとでもお思いになって?」
セラフィナの背後の神聖光環が、眩いばかりの光を放つ。
しかし、彼女の下に静かに佇む三体の使徒たちの表情には、嘲笑すら存在しなかった。
第一使徒補佐・真理改変者メリエル。
第二使徒・神罰審判官エノク。
第三使徒・概念封殺者バアル。
彼らは、立ち上がったアルたちを見下ろす。
その瞳にあるのは、敵に対する憎しみでも、屈した者への侮蔑でもない。
ただ、冷徹な「計算」と「処理」のログだけであった。
「……認識を修正します」
第三使徒バアルが、巨大な『無の聖杖』を構え、無感情な合成音を響かせた。
「ターゲット群の『精神的耐久力』、想定数値を四〇〇パーセント超過。……恐怖および絶望による自壊の兆候、なし。……『覚悟』と称される精神活動により、個体の限界耐久時間が延長されているのを確認」
「無意味な数値変動ですね」
第二使徒エノクが、細身の指先を冷ややかに立てた。
「感情や覚悟という精神活動は、生物の神経伝達物質を一時的に過剰分泌させる生化学反応に過ぎない。……それがマナの『絶対的な出力(火力)』を劇的に引き上げる物理法則など、この世界には存在しないのです」
エノクの言葉は、冷酷なまでの「真実」であった。
どれほど心が気高くあろうと。
どれほど仲間を想う気持ちが尊かろうと。
「覚悟」という感情は、魔法の威力を一千倍に跳ね上げる万能の薬ではない。
アルたちの心は一切折れておらず、全員が命を捨てる覚悟で戦いに臨んでいる。
しかし、彼らの体内に残されたマナの絶対量、彼らの肉体が耐えうる物理的な限界出力は、すでに完全に「底」を突いていたのだ。
「……へっ。神様気取りの……計算通りにいったら……苦労はしねぇんだよ……ッ!」
煙の中から、フラフラとした足取りで歩み出してきた男がいた。
相棒、カルムであった。
カルムの全身は、自身の生命を薪にして燃やした先の【全界焦土咆哮】の反動により、皮膚の八割が炭化して黒焦げになっていた。
彼の右腕のマナ回路は完全に焼き切れ、指先からはポロポロと黒い灰がこぼれ落ちている。
右目は塞がり、呼吸をするたびに肺の奥から血と焼きつくような灼熱がこみ上げていた。
それでも、カルムの精神は一微塵も屈していなかった。
潰れていない左目には、地獄の底から這い上がってきた獣のような、不屈の黄金と緋色の輝きが宿っている。
「アルの……シェフの厨房を護る……。そのために俺は……ここに来たんだ……。命なんざ……最初から投げ出す覚悟はできてるんだよッ!!」
カルムが、ガクガクと震える右拳を、バキバキと音を立てて固く握り締めた。
「俺の火が小さくなったら……魂の根源ごと……全部燃やし尽くしてやるだけだァァァァッ!!」
ボワァァァァァァァッ!!
カルムの全身から、再び漆黒と緋色の炎が吹き上がった。
それは、自らの存在そのものを灰へと変えながら放たれる、文字通りの「命の輝き」。
心は折れていない。覚悟は完璧だ。
相棒を護るためなら、今この瞬間に肉体が燃え尽きて消滅しようとも、一微塵の後悔もない。
しかし——。
三、 届かぬ一撃、隔絶された『火力』
「【我流神殺・命断全界拳】ッ!!!!」
カルムが、溶け落ちる奈落の床を蹴った。
自身の命の残滓、魂のコア、存在のすべてを拳の一点に収束させた、カルムの人生史上最も誇り高く、最も覚悟に満ちた究極の一撃。
その拳から放たれた炎は、奈落の全空間を焦がし、先ほどの神聖光柱すらも押し返すほどの爆発的な密度を誇っていた。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
カルムの咆哮が轟き、その絶対の拳が、前方に立つ第三使徒バアルへと一直線に突き刺さる!
カルムの覚悟は100点であった。
命の使い方も、相棒への忠義も、技の精度も、彼という人間が到達しうる最高峰の領域に達していた。
だが——。
「……概念封殺、展開」
バアルの背中に背負われた『白銀の概念鏡』が、不気味な脈動を打った。
バアルが放った防禦マナの総量——『十万』。
これに対し、カルムが自らの命の全てを薪にして引き出した最大火力——『一千』。
数字。
ただの、圧倒的で、理不尽で、絶望的な「出力の数値差」。
チュドォォォォォォォォォン……ッ!!
カルムの命を懸けた炎が、バアルの『概念鏡』の表面に展開された幾重もの神聖防壁に直撃した。
凄まじい熱波が巻き起こり、白銀の鏡の表面が赤く加熱される。
しかし——それだけであった。
亀裂すら、入らない。
先ほどの突撃によって概念鏡に与えたわずかな傷すらも、使徒たちの持つ無尽蔵の神聖マナによって瞬時に自己修復されており、カルムが命を燃やして放った魂の一撃は、バアルの多重防壁の第一層を数ミリ削っただけで、虚しくかき消されてしまったのだ。
「……吸収・相殺、完了」
バアルの無感情な合成音が響く。
「……な……に……っ」
カルムの右拳が、バアルのビクともしない防壁に押し当てられたまま、空しく止まっていた。
燃やせる命は、もう残っていなかった。
細胞は焼き切れ、マナ回路は灰となり、彼の中に残された炎の「薪」は、今の一撃で本当に完全にゼロになってしまった。
覚悟は折れていない。
心は負けていない。
なのに——相手の耐久力と防御出力が、こちらの命の総量を遥かに凌駕していたという、冷酷すぎる物理的な「力不足」。
「が……ハッ……」
カルムの口から、大量の血が噴き出した。
「なんで……だ……。魂だって……命だって……全部……燃やしたのに……。なんで……火力が……届かねぇんだよ……ッ!!」
カルムの血塗れの顔に、溢れ出たのはプライドが砕けた屈辱ではない。
仲間を護りたいという覚悟が100%完了しているのに、純粋な「自分の力の絶対的な足りなさ」に対する、血を吐くような悔しさと絶望感であった。
「……へっ……ごめんな……アル……。俺の火じゃ……ダメみたいだ……」
膝から崩れ落ちるカルム。
彼の身体から、ついに一切の炎が消え去り、彼は黒焦げの肉体のまま、冷たい石畳の上へと転がり落ちた。
四、 喰らいつく牙と、無慈悲な数値差
「カルム殿ッ!!」
エレナが絶叫した。
だが、悲しむ隙すら与えられない。
「バグの個体性能の限界を確認。……続いて、残存個体の処理を実行する」
第二使徒エノクが、音もなく空中で影を滑らせ、倒れかけるカルムの頭上へと肉薄した。
その手に握られているのは、肉体のみならず魂の運動すら凍結させる『絶対零度の氷剣』。
「カルム殿には……触れさせんッ!!」
エレナが、血溜まりを蹴って飛び出した。
彼女の愛剣『星霜』は、すでに柄の根元から粉々に砕け散り、手には何もない。
それでも、エレナは自分の素手——血に染まった白銀の手甲に全マナを集中させ、エノクの氷剣へ向かって突き出した!
「【創世極光・掌打】ッ!!」
「セリア! エレナ先輩に続けッ!」
後ろから、破れた甲冑を引っかけたセリアが飛び出す。
彼女もまた、砕けたレイピアの柄を両手で握り締め、己の胸のマナ回路を破裂させながら、エノクの背後へと回り込んで刺突を繰り出した!
「【神聖連断・改】ッ!!」
かつての最高位聖騎士長と、その副官であった新・聖騎士長。
二人の不屈の騎士による、命を懸けた完全なる肉弾連携。
彼女たちの覚悟もまた、完璧であった。
肉を切らせて骨を断つ。己の命がここで途絶えようと、エノクの喉元を喰らいちぎり、アルとカルムへの攻撃を阻むという、鬼気迫る死兵の覚悟。
二人の攻撃が、エノクの首筋と心臓へと、寸分の狂いもなく同時に迫る!
しかし——。
「……哀れですね」
エノクは、避けることすらもしなかった。
ただ、背後に展開された三つの神聖光輪の回転出力を、通常時の「二倍」へと引き上げた。
ただそれだけの操作。
ピキィィィィィィィィィィンッ!!!!
「……っ!???」
エレナの素手での掌打も、セリアの砕けたレイピアでの刺突も。
エノクの皮膚に触れる直前、彼がただ出力を引き上げただけで発生した【絶対零度のマナの壁】に弾かれ、ピタリと静止させられた。
「な……なに……!?」
セリアの目が見開かれる。
「言ったはずです」
エノクが、冷ややかに二人を見下ろした。
「覚悟という心理活動は、マナの絶対量を増やす魔法ではない。……あなた方がどれほど死を覚悟しようと、私とあなた方との間にある『マナの出力差』は、一ミリも埋まらないのです」
ガキィィィィンッ!!
エノクが、ただ手を横に一振りに払った。
その「ついで」のような一撃の風圧だけで、エレナとセリアの腕の骨がバキバキと音を立てて折れ曲がり、二人の身体は凄まじい衝撃波とともに奈落の壁へと叩きつけられた。
「あぁぁぁぁぁぁっ!?」
「がはっ……っ!!」
壁に激しく激突し、血を吐いて崩れ落ちる二人の騎士。
彼女たちの腕は不自然に曲がり、全身の筋肉は断裂し、もはや指一本動かす力すら残されていない。
心は折れていないのに、覚悟は完璧なのに、肉体とマナの絶対的な「量」が枯渇し、物理的に戦闘を継続することが不可能に叩き落とされたのだ。
「エレナさん! セリアさんッ!」
アルが、叫びながら駆け寄ろうとした。
「ピ……ピィィィ……。アル……逃げ……っ」
機能の九割を失い、床に倒れていたオルタが、最後の補助バッテリーを焼き切りながら、アルの足首を掴もうと壊れた手を伸ばした。
だが、そのオルタの身体すらも、上空からのバアルの重力波によって、メキメキと音を立てて押し潰されていく。
誰も、もう戦えない。
誰も、もう立ち上がれない。
仲間たちの心は、誰一人として屈していなかった。
誰一人として、「あきらめる」という選択肢を選んだ者はいなかった。
それでも——純粋な、絶対的な、理不尽なまでの【戦力差】という現実が、彼らの全力を、全生命を、ゴミのように踏みにじり、奈落の底へとおとしめていたのだ。
五、 絶望の天秤――万策尽き果てた奈落
「……ハァ……ハァ……ハァ……っ」
静寂が、奈落を支配した。
マグマは冷えて固まり、熱気は失われ、ただ使徒たちが放つ冷たく無機質な漂白の神光だけが、空間を満たしていた。
倒れ伏す仲間たち。
黒焦げのまま動かない相棒、カルム。
両腕を折られ、血の海に横たわる不滅の盾、エレナ。
マナ回路を全破砕され、意識を失ったセリア。
素体を砕かれ、沈黙したオルタ。
そして、その惨状の真ん中で。
血だらけの手で『黒鉄の包丁』を握り締め、ガタガタと全身を震わせながら立っている、ただ一人の少年料理人、アル。
「……くっ……うぅぅ……っ」
アルの漆黒の瞳から、ボロボロと血の混ざった涙がこぼれ落ちる。
アルの心もまた、折れてなどいなかった。
仲間たちが命を賭けて見せてくれた覚悟。
彼らが自分を護るために血を流してくれたその想いを受け継ぎ、アルは「絶対に僕がみんなを助けるんだ」と、胸の『炉』を限界まで燃やそうとしていた。
だが——。
「……炉が……動かない……」
アルは、己の胸に手を当てた。
身体の中に、絞り出せるマナが……『熱』が、一滴も残っていなかった。
これまで幾多の奇跡を起こしてきた奇跡の器官『炉』。
それが今、過酷すぎる連続戦闘と、使徒たちの概念封殺の前に、カラカラに乾き切り、冷たい灰の音を立てて沈黙していたのだ。
万策、尽きた。
食材はない。
マナもない。
仲間たちの炎も、盾も、もう存在しない。
相手は、傷一つ追わず、背後の十二枚の光の羽を神々しく輝かせている三体の使徒。
「これで……終わりですね」
第一使徒補佐メリエルが、天空から静かに舞い降り、アルの目前へと着地した。
彼女の手に握られた『創世の法典』が、真白な光を解き放つ。
「あなた方の覚悟は見事でした。……ですが、覚悟だけでは、神の定める『絶対の理』を超えることはできない。……力無き希望は、ただの過ちです」
メリエルが、ゆっくりと指先をアルへ向けて突き出した。
「特異点・アル。……あなたと、あなたの愛した仲間たちの『体温』を、ここで完全に消去します」
逃げ場のない、圧倒的な、完全なる絶望の戦力差。
心は折れていないのに、届く手立てが何一つ存在しないという、究極の力不足。
血塗れの少年料理人は、手にした黒鉄の包丁を震わせながら、目の前に迫る神の絶対の死(消去)を前にして、それでも……それでも諦めることなく、その包丁を真っ直ぐに使徒へと向け直そうとしていた。




