第84話:立ち向かうエレナ
一、 法則を越える魂の熱
「バカな……! 私の書き換えた法則領域内で、なぜマナが熱を帯びるのですかッ!」
奈落の空中に浮遊する第一使徒補佐メリエルが、常に張り付けていた冷徹な美貌を歪ませ、驚愕の声を上げた。
彼女の持つ『創世の法典』は、この空間における熱力学の法則を完全に停止させたはずだった。いかなるエネルギー運動も、この領域では物理的な「熱」を発生させることはできない。それは神が定めた絶対の理であり、先ほどアルの黄金の炎を瞬時に消し去った絶対的な権能である。
だが。
血に染まった石畳の上に立ち上がり、折れた聖剣『星霜』を天へと掲げるエレナ・ルミナスの身体からは、間違いなく、周囲の絶対零度を押し返すほどの【青白銀の極光の熱】が噴き上がっていた。
「……メリエル様。あの女が放っているのは、物理的な熱エネルギーではありません」
第二使徒エノクが、細めた瞳でエレナを冷酷に分析した。
「あれは……魂の共鳴。自らの生命力と、精神の根源にある『意志』を無理やり直結させ、概念的な熱量として放出しているのです。……自らの存在そのものを削りながら燃やす、狂気の沙汰だ」
「精神の根源……感情のノイズで、神の法則に抗おうというのですか!」
メリエルが忌々しげに光の羽を羽ばたかせた。
「抗うのではない。……打ち砕くのだッ!」
エレナの澄み切った声が、奈落の絶望的な空気を震わせた。
彼女の白磁の甲冑はすでに半分以上が砕け落ち、美しい白銀の髪は血と煤に汚れ、全身からは夥しい量の血が流れ落ちている。
客観的に見れば、彼女の肉体はすでに限界を通り越し、死の淵に立っているも同然だった。
しかし、その青い瞳に宿る光だけは、かつて最高位聖騎士長として君臨していた時よりも遥かに気高く、眩く輝いていた。
「アル殿が私にくれたスープは、ただ空腹を満たすためのものではなかった。……心を殺し、過去の罪に囚われていた私に、人間としての『体温』を取り戻させてくれた、命の恩寵だ!」
エレナは、アルの前にしっかりと立ち塞がり、背中で彼を庇った。
「その温かさを知った私の魂は、もう二度と教国の冷たい教律になど縛られない! お前たちがどれほど世界から熱を奪おうと……私の胸の中で燃え続けるこの『誇り』までは、絶対に消せはしないッ!!」
「……エレナ、さん……ッ」
アルは、石畳に這いつくばりながら、エレナの頼もしい背中を見上げた。
血だらけで、ボロボロで、それでも誰よりも美しい不滅の盾。
「アル殿。君はそこで見ていてくれ。……君が灯してくれたこの命の熱が、いかにして神の理不尽を打ち払うかをな!」
二、 不滅の盾、極限の防衛戦
「下等なバグが……吠えるなッ!」
エノクが、苛立ちを露わにして指先を振り下ろした。
アルを切り刻んだ『絶対零度の氷剣』が数十本に分裂し、エレナへ向かって豪雨のように殺到する。
「【星霜不滅・魂の創世極光壁】ッ!!」
エレナは、折れた聖剣の刀身に己の命の熱を注ぎ込み、前方へ巨大な極光の防壁を展開した。
物理法則の書き換えにより、通常のマナでは熱を持たない。だが、エレナの結界は、彼女自身の「アルを護る」という強烈な祈りと体温によって構成された、完全なる概念防壁であった。
ガガガガガガガガガガガガッ!!!!
絶対零度の氷剣が、極光の結界に激突して次々と砕け散る。
エノクの氷は、エレナの魂の熱に触れた瞬間、その「護る」という圧倒的な意志の前に氷解させられていく。
「エノクの氷を……凌いでいるだと!?」
上空のセラフィナが息を呑んだ。
「驚くのはまだ早いぞ、使徒ッ!!」
エレナは、結界を維持したまま、自ら前方へ踏み込んだ。
「対象の接近を検知。概念封殺による圧壊を実行」
第三使徒バアルが、無感情な合成音とともに『無の聖杖』を大上段から振り下ろす。
アルを地面にめり込ませた、エネルギーそのものをゼロへと還元する見えない重力波。
だが、エレナは逃げなかった。
「私の命は、すでに一度終わっていたもの! 今更、お前の虚無など恐るるに足らずッ!!」
エレナは、バアルの放つ圧壊の波動に対し、折れた聖剣を下から斬り上げた。
「【極光奥義・星断ち】ッ!!!!」
バアァァァァァァァァァァァンッ!!!!
聖剣から放たれた極光の刃が、バアルの『無の聖杖』の軌道に真正面から衝突する。
バアルの杖は、触れたエネルギーを吸収し、無効化する。
しかし、エレナが放ったのは物理的なマナの質量ではない。「絶対にここを通さない」という、騎士としての強烈な【概念の刃】であった。
吸収しきれないほどの精神エネルギーの奔流が、バアルの杖の機能を一瞬だけショートさせた。
「……ッ!? 概念鏡の吸収回路に、原因不明のエラー発生……」
巨人の使徒バアルの腕が、エレナの一撃によって上空へと大きく弾かれた。
「嘘でしょう……!? あの巨神の杖を、折れた剣で弾き返したというの……!?」
セリアが、気絶する寸前の薄れゆく意識の中で、その信じられない光景を目に焼き付けていた。
三、 氷と虚無を砕く気高き光
「まだだッ! 私の体温は……こんなものではないッ!!」
エレナは、バアルの巨体がバランスを崩した一瞬の隙を見逃さなかった。
彼女は、折れた聖剣を両手で強く握り締め、地を蹴った。
ドゴォォォォンッ!
奈落の石畳が爆発し、エレナの身体が青白銀の彗星となって宙を舞う。
狙うは、空中で彼女を見下ろす第一使徒補佐、メリエル。
世界の法則を書き換え、アルの炎を封じた諸悪の根源。
「……身の程を知りなさい、旧式の神の剣」
メリエルが、冷酷な瞳で迫り来るエレナを見据え、『創世の法典』のページを捲った。
「空間法則の再上書き。……領域内の『運動エネルギー』を、即時停止状態へと固定化」
メリエルの声とともに、エレナの周囲の空間そのものが、不可視のゼリーのようにドロリと重くなり、彼女の突進速度を強制的に殺しにかかる。
空中で、エレナの身体が目に見えて減速していく。
「ぐっ……おぉぉぉぉぉぉっ!!」
身体の骨が軋み、筋肉が引き裂かれる激痛。
動けば動くほど、空間の法則が彼女の肉体を押し潰そうと牙を剥く。
「無駄です。あなたがどれほど魂を燃やそうと、世界があなたの『運動』を拒絶しているのです。……そのまま空中で停止し、無力に散りなさい」
「……断るッ!!」
エレナの口から、鮮血が噴き出した。
それでも、彼女は止まらなかった。
「私が……ここで止まれば! アル殿の作る、あの優しくて温かい食卓が……世界から消えてしまうのだッ!」
エレナの脳裏に、スラムの泥水の中で震えていたアルが、海神の涙塩を使って作ってくれた『恩返しのスープ』の味が蘇る。
あの時、自分の凍りついていた心を溶かしてくれた、黄金色の輝き。
そして、今自分の背後で、血を流しながらも自分を信じて見つめてくれている少年の眼差し。
「私はッ! 『最高の厨房』の、不滅の盾だァァァァァッ!!!!」
エレナの魂が、限界を超えた臨界点へと達する。
彼女の身体から放たれる極光が、青白銀から、アルの炎と同じ【黄金色】を帯びた輝きへと変異した。
法則の重圧を、純粋な意志の力だけで強引に突破し、エレナは再び神速の速度を取り戻した!
「なっ……法則の固定を、力業で破っただと……!?」
メリエルの顔が、初めて明確な驚愕に歪んだ。
「メリエルッ!!」
エレナが、メリエルの目前へと到達し、折れた聖剣を大上段から振り下ろす!
「エノク! バアルッ!」
メリエルが、珍しく余裕を失った声で仲間の使徒を呼んだ。
瞬時に、エノクが『絶対零度のコキュートス・シールド』を、バアルが『概念封殺の絶対装甲』をメリエルの前に展開し、三使徒による多重防壁が構築される。
四、 誇り高き騎士の証明
「おおおおおおおおおおおッ!!!!」
ガギィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!
エレナの渾身の一撃が、三使徒の多重防壁に激突した。
奈落の底から天空へと突き抜けるほどの、凄まじい閃光と衝撃波が爆発する。
「ぐぁぁぁぁっ……!」
地上で気絶していた亡者たちの氷の彫像が、その余波だけで吹き飛ばされていく。
「……くっ……! このバグが……! どれだけ命を削れば気が済むのですッ!」
エノクが、歯を食いしばりながら結界にマナを注ぎ込む。
エレナの折れた聖剣から放たれる黄金の極光は、エノクの絶対零度を溶かし、バアルの虚無を切り裂き、ついにメリエルの目の前まで刃を届かせようとしていた。
「過去の私は……教国の言いなりになり、無実の人々を切り捨てるだけの冷たい機械だった……!」
エレナの目から、血の涙がこぼれ落ちる。
「妹を救うためだと言い訳をし……本当は、教国の冷酷なシステムに立ち向かう勇気がなかっただけの、臆病者だったのだッ!」
ギリ、ギリギリギリッ……!
エレナの聖剣が、防壁をミリ単位で押し込んでいく。
「だが、アル殿が教えてくれた! 自分の過ちから逃げず、誰かを護るために何度でも立ち上がるのが、本当の勇気なのだと!……この熱こそが、人間の持つ最も気高き力なのだとッ!!」
エレナの絶叫。
それは、彼女自身の過去との決別であり、真の騎士として生まれ変わった【魂の証明】であった。
バキィィィィィィィンッ!!!!
ついに、三使徒の多重防壁に巨大な亀裂が走った。
「バカな……! 我々三体の使徒の防壁が……たった一人の人間の、しかも折れた剣によって割られるだと……!?」
メリエルの瞳が、信じられないというように見開かれる。
「押し通るッ!! 【星霜不滅・絶対極光剣】ッ!!!!」
エレナが、残されたすべての生命力を聖剣に込め、最後の一押しを放とうとした。
この一撃が通れば、少なくともメリエルには致命傷を与え、法則の書き換えを解除できる。
そうすれば、アルの熱が戻り、カルムの氷を溶かす希望が繋がる!
五、 軋む聖剣、決死の踏み込み
だが。
相手は、主神直属の最強の使徒たち。
彼らは、エレナの気迫に押されながらも、神としての冷酷な演算を瞬時に行っていた。
「……賞賛に値する意志の力です、エレナ・ルミナス」
防壁の向こう側で、エノクが冷ややかに囁いた。
「ですが……あなたの『心』がどれほど強靭であろうとも。……あなたが振るっている『剣』は、所詮、神聖金属で作られた物理的な物質に過ぎない」
ピキッ……。
その時。
エレナの耳に、絶望的な音が響いた。
「え……?」
エレナが手にした愛機——『星霜の聖剣』。
かつて最高位聖騎士長に任命された際、主神アルファより賜った、教国最高の神聖武装。
すでにメリエルの神威によって刀身の半ばから折れ曲がっていたその剣が。
エレナの命を削る『魂の熱』の異常な出力と、三使徒の放つ『神の威光』による絶対的なプレッシャーの板挟みになり。
刀身の根元から、蜘蛛の巣のような無数の【致命的な亀裂】を走らせ始めたのだ。
「……っ! 星霜……ッ!」
「剣そのものが、あなたの異常な熱量と我々の神威の衝突に耐えきれず、限界を迎えているのです。……あなたの意志は届かない」
バアルの『無の聖杖』から、防壁越しに凄まじい反発エネルギーが放出される。
「くっ……ぁぁぁぁぁぁっ!!」
エレナは、聖剣が砕け散るのを本能で悟った。
だが、ここで剣を引けば、アルが殺される。
引くわけにはいかない。絶対に、この一撃を貫き通さなければならない!
「折れるな……! お願いだ、折れないでくれッ!!」
エレナは、血を流す両手で聖剣の柄を握り潰さんばかりに力を込め、己の命の残滓をすべて注ぎ込んだ。
ピキィィィィィィィンッ……!!
亀裂が、剣の柄まで到達する。
青白銀の刀身が、まるで悲鳴を上げるように激しく明滅し、光の粒子をまき散らし始めた。
「アル殿を……私たちの希望を……お前たちには、絶対に渡さないッ!!」
エレナの最期の突進。
三使徒の神威の反発。
そして、悲鳴を上げる『星霜の聖剣』。
圧倒的な神の理不尽と、人間の誇り高き魂の激突は、最も残酷な結末へ向けて、臨界点を超えようとしていた。




