第80話:不穏な暗雲
一、 概念消去の白光と崩れゆく奈落
ドォォォォォォォォンッ……!!
一切の音と色彩を奪い去る【純白の神威】が、地下収容施設「奈落」の広大な空間を激しく叩きつけた。
新・聖女セラフィナの指先から放たれた『白銀の葬列』は、爆発や衝撃波を生み出すものではない。光が触れた箇所の金属、岩石、そして空気中に漂うマナそのものを「真っ白な無」へと還元し、風化・消滅させる絶対的な概念攻撃であった。
「くっ……あぁぁぁぁっ……!」
エレナが、壁に叩きつけられながらも血を吐き、再び立ち上がろうと足を踏みしめた。
彼女の白磁の甲冑は、セラフィナの光に触れた右肩から胸元にかけてが真っ白な粉末となって剥げ落ち、その内側の生身の皮膚が苛烈な神聖冷気に晒されて赤黒く腫れ上がっている。
「エレナさん! 無茶しないで!」
アルが、黒鉄の包丁を前に構えながら、傷だらけのエレナの前に駆け寄った。
「アル殿……下がるのだ。あの少女の放つ光は、通常のマナの防壁では防げん……! 触れた存在の『構成概念』そのものを初期化する、悪魔の光だ……っ!」
エレナが激しく咳き込み、聖剣『星霜』を杖にして身体を支える。
「ふふふ、悪魔の光だなんて、失礼な言い草ですこと」
空中にゆったりと浮遊するセラフィナが、頭上の神聖光環を眩く輝かせながら、可憐に首を傾げた。白磁の仮面の目の部分から漏れ出る黄金の光が、暗闇を冷たく照らし出している。
「私はただ、不完全で不潔なあなた様方を、最も美しい『無』へと還して差し上げようとしているだけですのよ? 痛みも、過去の罪も、すべてが消え去る……これ以上の救済がどこにありますの?」
セラフィナが再び華奢な腕を掲げると、その周囲に一〇、二〇と、無数の純白の光球が生成され始めた。
一つ一つが、先ほどエレナの結界を容易く砕いた概念消去の種。それが奈落の天井全体を埋め尽くすように敷き詰められていく。
「さあ、お掃除を続けましょう。……こんな泥とゴミに塗れた場所、一瞬で綺麗に漂白して差し上げますわ」
「止めさせるか……ッ!」
セリアが、破れた純白の甲冑を鳴らし、エレナの隣へと躍り出た。
彼女の胸の神聖マナ回路はエノクによって凍結・破砕されていたはずだった。しかし、アルが差し出した一杯のスープの熱と、自らの過ちに気づいて流した涙が、奇跡的に彼女の止まっていたマナを再び動かし始めていた。
「セリア! 君の身体ではまだ……!」
エレナが制止しようとする。
「いいえ、エレナ先輩! 私は……かつて神の教律に盲従し、この温かい世界を壊そうとした罪人です!……アル様のくれたこの体温を、こんな狂った仮面に消させはしませんッ!」
セリアは、砕けたレイピアの柄を強く握り締め、己の残された全生命力をマナへ変換して練り上げた。
「【絶対教律・神聖連盾・改】ッ!!」
セリアの解き放った青白銀のマナが、エレナの放つ『創世極光』と交差し、二人の騎士のマナが完璧に同調した。
かつては敵として、そして過去のトラウマとして交わらなかった二人の聖騎士の心が、今、アルの作ったスープの熱を介して完全に一つに重なり合う。
ドガガガガガガガガガッ!!
二重の極光防壁が展開され、頭上から降り注ぐセラフィナの無数の概念消去光を受け止めた。
二、 傷だらけの二重防陣と狂信の嘲笑
バリバリバリバリバリッ……!!
光と光がぶつかり合い、凄まじい摩擦音が奈落全体に重低音となって鳴り響く。
「な……なに……!?」
空中から見下ろすセラフィナの仮面の下から、初めて微かな不快感を含んだ声が漏れた。
「セリア……。廃品として捨てられたはずのあなたが、なぜそのような高密度のマナを紡げるのです? あなたの神聖回路は、既にエノク様の手で破砕されていたはずですのに!」
「教えて差し上げましょう、セラフィナ様……!」
セリアが、口から血を垂らしながらも、一歩も退かずに防壁を押し支える。
「私のマナを動かしているのは、神の冷たい教律などではありません!……アル様がくださった、人と人とが温かさを分かち合う『体温』ですッ!」
「体温……? 不潔な感情ノイズのことですか?」
「そうです! あなたがゴミと蔑むこの温かさこそが、人間が生きる意味なのだと……私は知ったのですッ!」
セリアの叫びとともに、二重防壁の強度が跳ね上がり、セラフィナの概念消去光を弾き返していく。
「セリア……よく言った!」
エレナの目にも熱い光が宿り、聖剣から放たれる極光がさらに輝きを増した。
しかし、セラフィナの狂信は、二人の騎士の覚悟すらも冷酷に嘲笑った。
「……あはっ、あははははははッ!」
セラフィナが、頭を仰げ、壊れた鈴のような甲高い笑い声を上げた。
「可哀想に! 本当に可哀想な虫たち! そんな下等なバグの感情に侵されて、自分が強くなったと錯覚なさるなんて……! いいでしょう、その愚かな体温ごと、跡形もなく蒸発させて差し上げますわッ!」
セラフィナが両手を広げた瞬間、彼女の背後に展開されていた【神聖光環】が激しく回転を始めた。
ギュイィィィィィィィィィンッ!!
光環から放たれる神威の波形が跳ね上がり、奈落の広大な空間そのものが、まるで紙くずのように歪み始めた。
天井の崩落跡から巨大な岩塊や鉄骨が次々と落とし込まれてくるが、それらはセラフィナの光に触れた瞬間に音もなく「真っ白な粉末」となって消滅していく。
「くっ……! 抑えきれん……!」
エレナの足元の金属床がバキバキと音を立てて砕け、二人の膝が屈し始めた。
概念消去の光が、二重防壁をじわじわと浸食し、アルや崩れ落ちる亡者たちへと迫る。
オルタが壊れた右腕を庇いながら、アルの前に立ち塞がろうとするが、彼女の機甲素体も限界に達していた。
「みんな……ッ!」
アルは、黒鉄の包丁を両手で握り締め、自らの胸の『炉』の熱を極限まで高めた。
カルムの炎がない今、自分自身が太陽にならなければならない。
この冷たい滅びの光から、仲間たちを、そしてスープを飲んで笑顔を取り戻した人々を護るために。
だが、その時だった。
三、 天を覆う不吉な神威の歪み
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………………ッ!!
突如として。
セラフィナの概念消去の光をも掻き消すほどの、地獄の底から響くような「天地の振動」が聖都ルミナ全体を襲った。
「……っ!?」
空中いたセラフィナが、ぴたりと攻撃の手を止め、ハッと天空を見上げた。
エレナも、セリアも、アルも、その異変の異常さに息を呑んだ。
揺れているのは、奈落だけではない。
教国ルミナの大地、白亜の巨大防壁、そして天を突く超巨大タワー『神座の塔』そのものが、まるで目に見えない巨人に掴んで揺すられているかのように激しく鳴動していた。
さらに異常だったのは、空の「色」であった。
奈落の天井の崩落穴から見上げる聖都の上空。
先ほどまでセラフィナが放つ白銀の神聖光によって満たされていたはずの空が、刻一刻と【黒と銀が不気味に渦巻く漆黒の暗雲】によって覆い尽くされ始めていたのだ。
「何……? なんなの、この圧迫感は……!?」
セリアが、顔色を失って天空を見つめる。
それは、セラフィナの純粋な「白」とは全く異なる気候の変異であった。
大気中に充満する神聖マナが、あまりにも高密度に圧縮された結果、光を透過させることすらできなくなり、空全体が重く、冷たく、不気味な「死の闇」へと変質していたのだ。
雲の隙間から覗くのは、太陽の光ではない。
空間そのものが歪み、千切れかけたかのように明滅する、紫黒色の亀裂(マナの断層)。
「……あぁ」
空中へ浮遊していたセラフィナが、ぽつりと呟いた。
彼女の白磁の仮面が、天空の暗雲を見上げる。その声には、先ほどまでの虐殺の狂気とは違う、狂信者特有の【歓喜と畏怖】が混ざり合っていた。
「主神アルファ様のご意志……。……使徒様の、真の審判が始まりますのね」
「使徒の……真の審判だと……!?」
エレナの背筋に、氷を直接叩きつけられたかのような猛烈な戦慄が走った。
先ほどの第二使徒エノク。
あの男一人だけでも、カルムの命を懸けた滅びの炎を容易く凍らせ、自分たちの防線を完膚なきまでに打ち砕いたのだ。
だが、いま上空から押し寄せてきているこの「暗雲」が孕む神威の質量は、エノク一人の放っていた波形とは比較にならないほど、途方もなく巨大で、圧倒的であった。
「……来ます。地上だけではありません……この世界の『理』そのものを書き換えるための、神罰の渦が降りてきますッ!」
オルタのルビー色の瞳が、エラーログを高速で吐き出しながら絶叫した。
四、 仮死の相棒と少年の誓い
「カルム……ッ!」
空間を押し潰すような不吉な重圧(暗雲の神威)が降り注ぐ中、アルは真っ先に、瓦礫の上に横たわるカルムの元へ駆け寄った。
エノクの【絶対静止】によって全身を黒焦げにされ、心臓の奥底までを青白い氷の棘で貫かれている相棒。
上空から降り注ぐ不不吉な抑圧マナの暗雲は、そのカルムの体内に残された最後の「小さな火種(極光炎の余熱)」すらも、容赦なく押し潰し、消し去ろうと圧力をかけていた。
「ダメだ……! カルムの火が……消えちゃいそうになっている……ッ!」
アルは、包帯で巻かれた己の両手を、カルムの凍りついた胸元へ強く押し当てた。
「消えさせない……! 絶対に、消えさせないぞッ!!」
アルの胸の『炉』が、太陽のごとき黄金のマナを激しく噴出させる。
アルは己の体温とマナを限界まで絞り出し、カルムの心臓を覆う氷の棘へ向かって流し込み続けた。
ジュウゥゥゥゥッ……。
アルの手のひらから、白い湯気が立ち上る。
だが、上空の暗雲から降り注ぐ抑圧マナの冷気はあまりにも重く、アルが温めた分だけ、周囲の空気が瞬時に冷やされ、氷が再び硬度を増していく。
「アル殿! 無駄だ、今はカルム殿にマナを注ぐのはやめろ! 君自身のマナが干上がってしまうぞ!」
エレナが制止しようと手を伸ばす。
「無駄なんかじゃないッ!!」
アルが、血の混ざった涙をポロポロとこぼしながら叫んだ。
「カルムは……僕を護るために、自分の命を燃やしてくれたんだ! 自分の体をボロボロにしてまで、僕に道を作ってくれたんだよッ!」
アルの脳裏に、あの忘却の海でカルムと交わした誓いが蘇る。
『俺のこの拳は、お前の厨房を温めるための火だ。お前がどんなに冷たい神様の前に立とうが……俺のこの拳が、お前の料理を届けるための道を、絶対にこじ開けてやる!』
あんなに温かくて、強くて、頼もしかった相棒の拳。
それが今、冷たい氷の中で寂しく固まっているなんて、絶対に嫌だ。
「僕が……カルムの相棒(コック長)なんだ! カルムが僕の道を切り開いてくれたみたいに、今度は僕が、カルムの氷を溶かす『最高の料理』を作ってやるんだッ!!」
アルの漆黒の瞳に、太陽のごとき黄金の輝きが、怒りと誓いとともに激しく燃え上がった。
アルから放たれた情熱の波形が、暗雲の重圧を一時的に押し返し、カルムの胸の奥底にある小さな火種へと届く。
ドクン……。
仮死状態のカルムの心臓が、本当にかすかに、一度だけ脈動した。
「カルム……聞こえてるんでしょ!? 待っててね……! 僕が絶対に、君を助けて、みんなで一緒に温かい食卓に帰るからねッ!!」
アルの悲痛なまでの誓い。
それは、暗雲が垂れ込める絶望の奈落において、唯一消えない「絶対の太陽」の火種であった。
五、 絶望のカウントダウン
「……ふふ、美しい感傷劇ですこと」
上空に浮遊する新・聖女セラフィナが、白磁の仮面の下で冷酷に囁いた。
「ですが、無駄な足掻きですわ、特異点。……あなた方がどれほど命を燃やそうと、世界は間もなく【絶対の静止】へと還るのですから」
セラフィナがゆっくりと両腕を天へと掲げた。
教国ルミナ全体を覆い尽くした黒銀の暗雲から、雷鳴のような重低音が轟く。
ズドォォォォォォォォォンッ!!
神座の塔の頂上から、巨大な光の柱が天を突いて立ち上り、それが天空の暗雲と交差して、聖都全体を巨大な【神聖抑圧結界】の籠の中に閉じ込めていく。
街を歩いていた無感情な住民たちも、建物も、そして奈落に蠢く亡者たちも、その暗雲から降り注ぐ波動に触れた瞬間、金縛りに遭ったかのようにピタリと動きを止めた。
「空が……死んでいく……」
セリアが、膝をついたまま呟いた。
「これが……主神アルファ様が世界に放つ、真の神罰の予兆……。大氷期の完全展開……」
言葉の通りであった。
これまでの寒気や抑圧マナとは、スケールが根本から異なっていた。
気候としての冬が来るのではない。世界から「時間」と「変化」と「生命活動」そのものを削ぎ落とし、永遠の氷の彫像へと固定するための、巨大な裁きの機動。
そして、その不気味な暗雲の中心――渦巻く紫黒色のマナの断層から。
一つ、二つ、三つ……。
太陽の光を完全に拒絶する、白銀と漆黒の異形なる【絶対の威光】が、音もなく姿を現し始めていた。
「……来た」
エレナが、血に染まった唇を噛み締め、聖剣を握り直す。
第二使徒エノクだけではない。
主神直属の最強くして最凶の配下たち——世界の命運を終わらせるための【使徒の群れ】が、いま、白銀の教国の空を埋め尽くそうとしていた。
絶望の暗雲が世界を覆い、逃げ場のない奈落の底で、アルたちの呼吸すらも凍りついていく。
少年料理人アルと仲間たちの運命を決定づける、最悪にして最大の大災厄が、いま、すぐ頭上まで迫っていた。




