第79話:ほころぶ心
一、 奈落の底の雪解け
光の差さぬ地下収容施設「奈落」。
死と泥と怨嗟の臭いが支配していたその場所に、今やどこか柔らかく、懐かしい湯気の香りが漂っていた。
「……あ、あったかい……」
砕けた白磁の甲冑に身を包んだセリア・ルミナスは、両手で大事に包み込んだ木製のお椀を、震える指先でじっと見つめていた。
アルが渡した『氷解のポタージュ』。その最後の一滴までを飲み干したセリアの胸の奥で、かつて教律という冷酷な楔によって固く閉ざされていた「心」の扉が、ゆっくりと、音を立てて軋み始めていた。
「どう? お腹の底から、ポカポカしてきたでしょ?」
アルが、セリアの前にしゃがみ込み、包帯の巻かれた手を膝の上に置いて笑いかけた。
セリアは、己の頬を伝う濡れた跡——涙の感覚を指先で確かめ、戸惑うように視線を泳がせた。
「……私、は……神の剣として、感情を捨てたはずでした。泣くことも、笑うことも、誰かを慈しむことも……すべては不完全な人間の犯すエラーなのだと教えられてきました。なのに……」
セリアの瞳に、揺らめくような青い光が灯る。
それは、教国の狂信に染まっていた氷の光ではない。人間として己の過ちに気づき、痛みに震える、生身の魂の輝きであった。
「この熱は……何なのですか。スープを一口飲み下した瞬間、私の心臓が、まるで叫び声を上げるように跳ね上がりました。……胸が痛くて、苦しくて、なのに……どうしてこんなに愛おしいと感じてしまうのですか……ッ!」
「それがね、『体温』なんだよ」
アルは、優しく語りかけた。
「人間はね、一人じゃ生きていけないんだ。冷たいところで震えてる時に、温かいものを食べて『美味しいね』って笑い合うために、神様は僕たちに心をくれたんだよ。君の心はね、壊れたんじゃない。……ずっと寒くて眠っていたのが、目を覚ましただけなんだ」
「目を……覚ました……」
セリアは、自身の胸元に両手を当てた。
かつては最高位聖騎士長として、主神アルファの冷酷な意思だけを信奉していた彼女。しかし、敗北して捨てられ、絶望の奈落に叩き落とされた今、彼女の心を救ったのは、神の教律でも聖書の言葉でもなく、目の前の少年が差し出した一杯の熱いスープだったのだ。
「……エレナ先輩」
セリアは、ゆっくりと顔を上げ、傍らに立つエレナを見上げた。
「……セリア」
エレナは、聖剣『星霜』の柄から手を離し、静かにセリアの前に膝をついた。
「……ごめんなさい。私、は……あなたの美しかった言葉を、不浄だと蔑みました。……あなたが教国を裏切り、バグどもと群れているのを見て、憎悪を燃やしました。……ですが、違っていたのは私の方でした……」
セリアの目から、再び大粒の涙が零れ落ちる。
「教国の教律には……こんな温かいお味も、こんな優しい涙の理由も、何一つ書かれていませんでした。……私は、偽りの平和のために、大切なものを見失っていたのです……ッ!」
「責めるな、セリア」
エレナは、傷ついたセリアの肩を、鎧越しに強く、温かく抱きしめた。
「君は悪くない。……君をそんな冷たい場所に縛りつけ、同じ過ちを繰り返させたのは、他でもない元・聖騎士長である私の弱さだ。……だが、君は気づいた。この温かさを知った君は、もう神の操り人形ではない。一人の、気高き騎士だ」
「先輩……っ! あぁぁぁっ……!」
かつて教国の頂点で背中を追いかけた憧れの存在。
そのエレナの腕の中で、セリアは声を忍ばせて泣いた。
冷たい仮面が完全に砕け散り、二人の騎士の間に存在していた怨恨と狂信の壁が、アルのスープの熱によって、綺麗に「ほころび」、解けていった瞬間であった。
二、 亡者たちの変容と繋がる手
その光景を、周囲を取り囲んでいた何百人もの不適合者たちが、無言で見つめていた。
少し前までなら、教国の甲冑を着た者を見れば、誰もが怒りに狂い、石を投げ、血に飢えた獣のように襲いかかっていただろう。
だが、今の彼らの瞳に、あの刺々しい殺意はなかった。
「……あいつらも、かわいそうな奴らだったんだな」
最初にスープを受け取った、片目を失明した初老の男が、ポツリと呟いた。
「俺たちは、体が檻に閉じ込められてた。だが……あの甲冑を着たお嬢ちゃんたちは、心が冷たい箱の中に閉じ込められてたんだ。……どっちが惨めかなんて、分かりやしない」
男は、自分の持つお椀の底に残ったわずかなスープの温もりを慈しむように見つめ、周囲の仲間たちを見回した。
「おい、みんな。もう憎み合うのはやめよう。……この料理人のお坊ちゃんが教えてくれたろう。人は、温かいものを分け合って笑うために生きてるんだってよ」
亡者たちの間から、頷く声が広がっていく。
「そうだ……。俺たちを救ってくれたのは、復讐の血じゃない。この温かいスープだ」
「料理人さん、ありがとう。あんたのおかげで、俺たちは『人間』に戻れたよ」
絶望の奈落。
教国が「価値のない廃棄物」として打ち捨てた人々が、アルの振るう包丁とスープの熱によって、失われていた『体温』と『優しさ』を取り戻していった。
憎しみの連鎖が解け、手と手が繋がっていく。
それこそが、主神アルファが最も恐れ、過剰なまでに排除しようとしていた【人間の感情の奇跡】の真の姿であった。
三、 破滅の影、迫る新・聖女
しかし――。
心温まる雪解けの時間を切り裂くように、奈落の空間全体が、突如として不気味な「軋み」を上げ始めた。
ミシミシ……パキパキパキッ……!
「……っ!? 何ですか、この波形は!?」
オルタが、自身のシステムを緊急再起動させ、悲鳴のような声を上げた。
彼女のルビー色の瞳が捉えたデータは、先ほどの第二使徒エノクの神威すらも過去のものとする、信じがたい狂気の数値を弾き出していた。
「上空より……降下してきます! マナの純度、測定不能!……この光は、空間そのものを『漂白』していますッ!」
「漂白……だと!?」
エレナが、セリアを庇うように立ち上がり、即座に聖剣『星霜』を構えた。
奈落の遥か上空、ペレット製造工場の崩落穴。
そこから降り注いできたのは、暗闇を照らす光などではなかった。
触れたものすべての「色彩」と「存在」を奪い取り、真っ白な虚無へと変えてしまう、おぞましいまでの【純白の神威】であった。
光が奈落の床へと到達した瞬間。
ドォォォォォォォォォンッ……!!
衝撃音すらも、光の圧力によってかき消される。
崩落した鉄屑の山が、一瞬にして「白い粉」へと分解され、周囲の空間が一気に極寒の絶対零度へと叩き落とされた。
「くっ……! 【星霜不滅・絶対極光球】ッ!」
エレナが咄嗟に展開した青白銀の結界。
だが、その結界の表面すらも、降臨した光に触れた先から白く変質し、パリパリと音を立てて侵食され始めたのだ。
「そんな……私の不滅の結界が、触れられただけで分解されている……!?」
光の柱の中心から、一人の少女が優雅に、まるで雲を踏むように降り立ってきた。
純白と黄金の法衣。
頭上に浮遊する、幾何学的な神聖光環。
そして、その顔の上半身を覆う、冷たい【白磁の仮面】。
主神アルファの新たな代行者――【新・聖女セラフィナ】。
「あらあら……まあまあ」
仮面の下から漏れ出る、鈴の転がるような、どこまでも愛らしく、そして底知れぬ狂気を秘めた声。
「ゴミ箱(奈落)の底で、何をしているのかと思えば……虫どもが集まって、何やら不衛生な真似をしておりますのね」
四、 仮面の下の冷酷なる慈愛
セラフィナは、周囲の亡者たち、そしてセリアやアルたちを、まるで道端の泥汚れでも見るかのような清々しい瞳で見渡した。
「セリア。失望しましたわ」
セラフィナの冷ややかな言葉が、セリアに突き刺さる。
「敗北した上に、そのような不浄なバグどもの作った汚物を口にし、あまつさえ『涙』などという不潔なエラーを垂れ流すなんて。……あなたは、神の光を汚す最低の害獣へと成り下がったのですね」
「セラフィナ……様……」
セリアは、エレナの陰からセラフィナを見つめ、全身を激しく震わせた。
かつては教国の象徴として崇め奉っていた新・聖女。だが、今のセリアには、その少女から放たれる光が、どれほど冷酷で、恐ろしい「死の断罪」であるかが痛いほど理解できた。
「セラフィナと名乗ったな」
エレナが、聖剣の切っ先をセラフィナへ真っ直ぐに向けた。
「お前が主神アルファの新たな傀儡か。……これ以上、この奈落の人々を傷つけることは許さん!」
「許さない……? ふふふ」
セラフィナは、可憐に首を傾げ、胸の前で両手を組み合わせた。
「勘違いなさらないで、元・聖騎士長様。私は傷つけになど来ておりませんわ。……私は、あなた様方を『救い』に来たのです」
「救い……だと?」
「ええ。この世界は、あまりにも過ちと苦しみに満ちています。お腹が空いたと泣き、感情に振り回されて怒り、愛する者を失って絶望する。……なんて可愛そうで、救いがたいのでしょう!」
セラフィナの仮面の目の部分から、怪しい黄金の光が輝きを増す。
「だからこそ、私がすべての苦しみを終わらせて差し上げます。……私の【純粋なる光】で、あなた様方の肉体も、感情も、記憶も、すべてを美しく『消去』して差し上げますわ。そうすれば、誰も泣くことも、苦しむこともなくなりますのよ?」
彼女の語る「救い」。
それは、生そのものを全否定し、世界全体を完全な無(死)へと還元しようとする、絶対的な【狂信の論理】であった。
「そんなの……救いなんかじゃないッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を構えて叫んだ。
「泣いたり、怒ったりするから、人は温かくなれるんだ! 苦しい時があるから、美味しいご飯を食べた時に『嬉しい』って思えるんだよ!……それを全部消しちゃったら、ただの石コロと同じじゃないかッ!」
「まあ……『特異点』の異端児さん」
セラフィナの視線が、アルへと向けられた。
「あなたの放つその異物感……確かに、主神アルファ様が警戒なさるのも頷けますわ。……あなたのような存在が、人々に『熱』という名の毒を撒き散らしているのですね。……可哀想に。今すぐその醜い包丁ごと、光の塵にして差し上げますわ」
五、 絶対絶望の開戦
セラフィナが、そっと右手を掲げた。
その華奢な指先の上に、一粒の「純白の光球」が生成される。
魔法の詠唱も、マナの集束運動すらない。ただ神の威光そのものが、絶対の物理現象として存在している。
「【神聖昇華・白銀の葬列】」
シュンッ……。
音もなく放たれた一筋の白光。
それは爆発を起こすのではない。光が通過した軌道上の空気、床の金属、そして空間そのものが、一瞬にして「真っ白な光の粒子」へと分解され、消滅していく。
「アル殿、下がれッ!!」
エレナが前に飛び出し、聖剣『星霜』に全身のマナを注ぎ込んで、最大出力の防壁を展開した。
「【星霜不滅・創世極光壁】ッ!!」
ガギィィィィィィィィィンッ!!!!
エレナの創世極光壁と、セラフィナの白光が激突する。
かつて使徒の攻撃すらもしのぎ切ったエレナの絶対防壁。
しかし――!
ピシッ……パキパキパキッ……!
「な……っ! 結界の構成マナが……光に触れたそばから『概念消去』されていく……!?」
エレナの顔から血の気が引いた。
セラフィナの光は、威力が高いのではない。マナそのものを「無」へと還元する、防ぐことの不可能な概念攻撃であったのだ。
「ぐあぁぁぁぁぁっ……!!」
結界が破られ、衝撃波の余波だけでエレナの身体が吹き飛ばされ、奈落の壁に叩きつけられる。
「エレナさんッ!!」
「ふふ、無駄な足掻きですわ。不完全な命の灯火など、神の光の前にはただの消え残りの煤に過ぎません」
セラフィナが、ゆっくりと空中に浮遊しながら、奈落の全域を見下ろした。
彼女の背後の神聖光環が、眩いばかりの光を放ち、周囲の空間を一つずつ「白い無」へと漂白し始めていく。
「さあ……すべてを光の中に還しましょう。苦しみもない、熱もない、美しき絶対の静寂の中へ……」
仮面の聖女がもたらす、完璧な滅びの光。
カルムは仮死状態で動けず、エレナの絶対防壁すらも概念消去によって打ち破られた。
そして、奈落に生きる何百人もの命と、アルの持てるすべての『熱』が、神の冷酷な光の前に晒されようとしていた。
絶望の境界線を越えた先で、チーム『最高の厨房』に突きつけられる、かつてない【完全なる神罰】。
少年料理人アルは、この圧倒的な滅びの光を前にして、いかにして自らの包丁と『炉』の熱を振るうのか。
聖都ルミナの最深部で、世界の命運を懸けた、真の絶望の戦いが幕を開けようとしていた。




