第78話:温かいスープの差し入れ
一、 奈落の休息と、降り注ぐ影
光の届かない教国ルミナの最下層、絶望の地下収容施設——通称「奈落」。
かつては飢餓と憎悪、そして生ゴミの腐臭だけが充満していたその空間に、今は信じられないほどの静寂と、ささやかな温もりが漂っていた。
「……ゆっくりでいいからね。身体が冷え切ってる時は、少しずつ胃袋を動かさないとダメなんだよ」
アルは、手製の木製お椀を持ち、瓦礫の山の上に座り込んでいる不適合者たちに、温かなスープを少しずつ配り歩いていた。
教国の抑圧マナに抗い、この暗闇に何年も閉じ込められていた何百人もの人々。彼らはアルの配った『命を繋ぐ恩返しのスープ』をすすり、その温かさに涙を流しながら、人間としての理性と「体温」を完全に取り戻していた。
「ありがとう……料理人さん。あんたのスープのおかげで、俺たちは自分が人間だったってことを思い出せたよ」
片目を失明した初老の男が、震える両手でお椀を包み込み、深く頭を下げた。
「ううん、僕は当たり前のことをしただけだよ」
アルは額の汗を拭い、満面の笑顔を返した。
少し離れた場所では、エレナが聖剣『星霜』を傍らに置き、仮死状態となったカルムの傍で看病を続けていた。
エノクの【絶対静止】によって全身を青白い氷の棘で貫かれ、黒焦げのまま凍結してしまった最強の相棒。
「オルタ。カルム殿の容態は……?」
エレナが、心配そうに尋ねる。
オルタは、自身の破損した右腕をかばいながら、ルビー色の瞳をカルムの胸部へ向け、深層スキャンを続けていた。
「……絶望的な状況であることに変わりはありません。エノクの冷気は、カルムの細胞活動を完全に『停止』させています。ですが……」
オルタは、ホログラムの波形データを空中に展開した。
「見てください。カルムの心臓の最奥……毛術回路の核の部分だけは、完全に凍りついていません。カルムが最後に放った『群青と緋色の極光炎』の小さな火種が、エノクの絶対零度に抗い、極小の熱を保って自らの命を護り続けているのですッ!」
「本当かッ!?」
エレナの顔がパッと明るくなる。アルも駆け寄ってきて、ホログラムを覗き込んだ。
「カルム……! やっぱりカルムは、負けてなんかないんだね!」
アルの漆黒の瞳に、希望の光が宿る。
「はい。ですが、この火種が自力で燃え上がることは不可能です。外部から、エノクの冷気を完全に打ち破るほどの『究極の熱』……極上のマナを注ぎ込み、彼の火種に薪をくべてやらなければ、いずれ完全に消滅してしまいます」
「究極の熱……。僕の『炉』の熱と、最高の食材があれば……絶対にカルムの氷を溶かせるはずだ。待っててね、カルム」
アルは、カルムの冷たい手をギュッと握り締めた。
その時だった。
ヒュオォォォォォォォォォッ……!!
奈落の遥か頭上、彼らが落ちてきたペレット製造工場の崩落穴から、再び風を切り裂く不気味な落下音が響いた。
「何かが……落ちてきますッ!」
オルタが上空を指差す。
ドガァァァァァァァァァァンッ!!!!
凄まじい衝撃音とともに、瓦礫の山の少し離れた場所に、一つの影が激しく叩きつけられた。
舞い上がった埃が晴れると、そこに横たわっていたのは——純白の細身の甲冑を纏った、一人の女性騎士であった。
「……セリア!?」
エレナが、弾かれたように立ち上がった。
二、 神に捨てられた剣
瓦礫の上に倒れ伏していたのは、間違いなく、先ほど旧地下水路でエレナに敗北した新・聖騎士長、セリア・ルミナスであった。
だが、その姿はあまりにも無惨だった。
純白の甲冑は粉々にひび割れ、顔を隠していた銀のベールは失われている。そして何より、彼女の背中や手足には、エノクが放つものと同じ【絶対零度の氷の棘】が深く突き刺さり、彼女の神聖マナ回路を完膚なきまでに破壊し尽くしていたのだ。
「あ……がぁ……っ」
セリアは、口から血を吐き出しながら、ピクピクと痙攣していた。
「どういうことだ……! なぜセリアが、こんな酷い傷を負って奈落へ落とされたのだ!」
エレナが駆け寄ろうとする。
「待ってください、エレナさん!」
アルがエレナを引き止めた。周囲の空気が、一気に険悪なものへと変わったからだ。
「おい……あれは、聖騎士長の甲冑だぞ」
「エレナの代わりになったっていう、教国の新しい犬じゃねぇか……!」
スープを飲んで落ち着いていたはずの亡者たちが、再び手に鉄パイプや石を握り締め、憎悪に満ちた目でセリアを囲み始めたのだ。
「俺たちをこんな地獄に閉じ込めた教国の人間が……よくもノコノコと落ちてきやがったなッ!」
「殺せ! 教国の悪魔をぶち殺して、復讐してやるッ!」
怒号が飛び交い、亡者たちがセリアへ向かって殺到しようとする。
「やめろッ!!」
エレナが、亡者たちとセリアの間に立ちはだかり、両手を広げた。
「どいてくれ、エレナ! あんたは改心したから許してやるが、そいつは俺たちの敵だ!」
「そうだ! 今こそ教国に一泡吹かせてやるんだ!」
「彼女を殺しても、君たちの救いにはならないッ!」
エレナは、血気盛んな亡者たちに向かって必死に叫んだ。
「彼女もまた、教国の冷たい教律の被害者なのだ! 幼い頃から感情を殺され、神の剣として生きるしか道がなかった、哀れな操り人形に過ぎない!……彼女を殺せば、君たちもまた、教国の冷酷なシステムと同じ『殺戮者』に成り下がってしまうぞ!」
エレナの悲痛な叫びに、亡者たちは足を止めたが、その目にはまだ怒りの炎が燻っていた。
「……ふん。バグ風情が、偉そうに……」
背後から、掠れた、だがどこまでも傲慢な声が響いた。
セリアだった。彼女は氷の棘に貫かれながらも、両腕で必死に身体を支え、半身を起こしていた。
「私を哀れむなど……不愉快の極みです、エレナ先輩。……私を殺したいのなら、殺すがいい」
「セリア! なぜ君がこんな姿でここに……! エノクにやられたのか!?」
エレナが尋ねる。
「エノク様……いいえ、違います」
セリアの顔が、苦痛と、それ以上の屈辱に歪んだ。
「私を……不要なゴミとして処分したのは、新たに主神アルファ様の代行者として擁立された、新・聖女……【セラフィナ】様です」
「新・聖女……!?」
「ええ。彼女は……化け物です。私のような『神の剣』ですら、彼女の目には『世界を汚す不完全な塵』としか映っていなかった。……敗北し、傷を負った私は、彼女の純白の光によって一瞥されただけでマナ回路を凍結され、このゴミ箱へ投棄されたのです」
セリアは、自嘲気味に笑った。
「完璧な神の剣になろうとした私が、最後は神に不用品として捨てられる。……滑稽でしょう? さあ、早く私の首を撥ねなさい。……バグの情けを受けて生き恥を晒すなど、死ぬよりも耐え難い屈辱です」
彼女の青い瞳には、完全に「生きる意志」が失われていた。
教国のために心を殺し、すべてを捧げてきた自分の存在意義が、教国そのものによって完全否定されたのだ。彼女の魂は、すでに死んでいるも同然だった。
三、 料理人の怒りと、まな板の音
「……勝手なことばっかり言うなよッ」
怒りに満ちた声が、奈落に響いた。
アルだった。
アルは、セリアの前にスタスタと歩み寄り、彼女の冷たい青い瞳を真っ直ぐに睨み下ろした。
「死ぬよりも耐え難い屈辱? バグの情けは受けない? ……そんなこと言って、本当はお腹がペコペコで、寒くて寒くて仕方ないくせにッ!」
「な……何を言うのです、この小童が! 私の肉体は教律によって鍛え上げられ、飢えや寒さなど——」
グゥゥゥゥゥ…………。
セリアの言葉を遮るように、彼女の腹の虫が、恥ずかしいほどに大きく、悲しげな音を立てて鳴った。
「……ッ!?」
セリアの真っ白な頬が、一瞬にしてカァァッと赤く染まった。
「見栄を張らなくていいよ。……君はずっと、味のしないペレットしか食べてこなかったんでしょ? そんな冷たいご飯じゃ、身体の芯の寒さは絶対に取れないんだ」
アルは、セリアからクルリと背を向け、瓦礫で作った即席の調理台の前へ向かった。
「エレナさん! みんな! 少しの間、彼女には手を出さないで! 僕が……僕が彼女に、本物の『ご飯』がどういうものか、教えてあげるからッ!」
アルは、黒鉄の包丁を抜き放ち、リュックの中に残っていた最後の食材——干し肉の切れ端と、少しの根菜、そして『海神の涙塩』を取り出した。
トントントントントンッ!!
奈落の底に、軽快で、どこか心地よい包丁の音が響き始める。
亡者たちも、エレナも、そしてセリアも、呆気にとられてその小さな背中を見つめていた。
(このバグは……何を考えているのです? 私を殺すのではなく、私のために……料理を作っているというのですか?)
セリアの常識では、到底理解できない行動だった。
敵を倒せば、排除する。それが世界のルールだ。情けをかけ、ましてや食事を与えるなど、教国の計算式には一行たりとも存在しない【究極の無駄】である。
だが、アルの包丁の手さばきは、怒りに任せたものではなく、極めて繊細で優しかった。
干し肉の筋を丁寧に断ち切り、根菜の繊維を崩さないように切り揃える。
そして、カルムの炎がない今、アルは自身の胸の『炉』の熱を極限まで高め、小さな鉄鍋を自らのマナの熱気で包み込んで、お湯を沸かし始めた。
「冷たい世界で、誰も君を温めてくれなかったから……君の心は、そんな風にカチカチに凍っちゃったんだね」
アルは、鍋の中に食材と涙塩を入れながら、背中越しにセリアへ語りかけた。
「僕が、全部溶かしてあげる。……君の心の中にある、一番冷たい氷をね!」
四、 温かいスープの差し入れ
数分後。
アルの『炉』の熱によってじっくりと煮込まれた鉄鍋から、フワァ……と、極上の香りを放つ黄金色の湯気が立ち上った。
「お待たせ!」
アルは、木製のお椀にその黄金色の液体をたっぷりと注ぎ、セリアの目の前まで持ってきた。
【真理解体・氷解のポタージュ】。
干し肉の旨味と根菜の甘みが完全にスープに溶け込み、海神の涙塩がそのすべての味を一つに結びつけた、アルの魂がこもった究極の一杯。
「さあ、食べて」
アルは、お椀をセリアの顔の前に差し出した。
湯気が、セリアの冷たい頬を優しく撫でる。
「……ふざけないでください」
セリアは、震える手でそのお椀を払いのけようとした。
「私は教国の聖騎士長です! バグの作った、そんな不浄な装飾品(料理)など……口にするわけにはいきませんッ!」
「騙されたと思って、一口だけ飲んでみてよ。美味しくなかったら、吐き出してもいいから」
アルは、払いのけようとするセリアの手をヒョイと避け、木のお匙でスープをすくった。
そして、フーフーと息を吹きかけて熱を冷まし、まるで小さな子供に食べさせるように、セリアの唇へとお匙を押し当てた。
「や、やめ……んっ!」
セリアが口を閉ざそうとしたが、アルが絶妙なタイミングで彼女の顎のツボを軽く押し、開いた口の中にスープを流し込んだ。
「……ッ!!」
セリアの身体が、ビクンッ! と大きく跳ねた。
教国の無味無臭の栄養ペレットしか知らなかった彼女の舌に、強烈な【未知の感覚】が爆発したのだ。
干し肉の濃厚な旨味。根菜のホロリとした優しい甘さ。そして、涙塩がもたらす、清らかで深い海の塩気。
それらの味が、アルの『炉』の圧倒的な熱量と混ざり合い、セリアの凍てついていた喉から食道、そして胃袋へと、まるで温かなマグマのように流れ込んでいく。
「な……なんだ、これは……ッ」
セリアは、両手で自身の喉を押さえた。
毒だ。これは間違いなく、教国が禁じた『感情を狂わせる毒』だ。
そう思考しようとする彼女の冷たいマナ回路を、スープの熱が内側から暴力的なまでの優しさで蹂躙し、溶かしていく。
ドクンッ……! ドクンッ……!
生まれて初めて、セリアは「食事」によって自分の身体が内側から燃えるように温かくなるという現象を体感していた。
指先の末端まで血が巡り、エノクの氷の棘によって引き起こされていた悪寒と激痛が、嘘のようにスゥ……と和らいでいく。
「どう? 美味しいでしょ?」
アルが、満面の笑顔でセリアを覗き込む。
そして、二口目、三口目と、お匙でスープをセリアの口へと運び続けた。
「やめ……もう、やめなさい……ッ! 私は……私は、神の剣……」
拒絶の言葉を口にしようとするが、彼女の身体は、本能が求めるままにアルのお匙を迎え入れ、ゴクリ、ゴクリとスープを飲み込んでしまっていた。
止まらない。
こんなに温かくて、こんなに美味しいものが、この世界に存在していたなんて。
私が今まで信じてきた「完璧なペレット」は、一体何だったというのか。
「あ……ぁ……」
五、 涙の理由
カラン……。
お椀が空になり、アルがお匙を置いた。
セリアは、俯いたまま、ガタガタと肩を震わせていた。
ポタッ……。ポタッ……。
白亜の甲冑の胸元に、透明な雫が次々と落ちていく。
「……な、ぜ……?」
セリアは、震える手で自身の頬に触れた。
そこには、生温かい水滴が伝っていた。
「なぜ……水が、目から出るのですか……? 私は……悲しくなどない。痛くもない。……なのに、どうして……止まらないのですか……ッ!」
幼い頃から感情を殺す訓練を受け続け、「泣く」という機能すらも封印されていたセリア。彼女は、自分の目から溢れ出る液体が『涙』であることすら、理解できずに混乱していた。
「それはね、心が温かくなったからだよ」
アルが、セリアの頭に、そっと優しく手を乗せた。
「冷たかった心が、美味しいご飯を食べてポカポカに溶けたから……その溶けた氷が、涙になって外に出てきたんだよ。……だから、我慢しなくていいんだよ」
アルのその優しすぎる声を聞いた瞬間。
セリアの心の中で何十年も張り詰めていた【絶対零度の糸】が、プツンと音を立てて切れ去った。
「あぁ……ああぁぁぁぁぁぁぁっ……!!」
セリアは、瓦礫の上に突っ伏し、声を上げて号泣した。
「うわぁぁぁぁぁんッ! あぁぁぁぁぁぁっ!!」
それは、聖騎士長の威厳も、狂信者の冷酷さもすべて剥がれ落ちた、ただの十五、六歳の「一人の少女」としての、生まれたての産声のような泣き声であった。
自分が今までやってきたことの恐ろしさ。
神に捨てられたという絶望。
そして何より、アルのくれたスープの、あまりにも残酷なほどの「温かさ」。
それらすべての感情が一気に押し寄せ、セリアの魂を激しく揺さぶっていた。
エレナは、かつての副官が子供のように泣き崩れる姿を見て、静かに目を閉じ、彼女の涙が枯れるのを待った。亡者たちも、アルの料理がもたらした奇跡に言葉を失い、ただ静かにその光景を見守っていた。
「……ごちそう、さま……でした……」
やがて、泣き疲れたセリアが、アルに向かって小さな声で呟いた。
その青い瞳には、もう狂信の氷はなかった。ただ、戸惑いと、アルの温かさに完全に心を解きほぐされた、素顔の少女の姿があった。
「うん! お粗末様でした!」
アルが、ニコッと笑う。
敵味方の壁すらも、一杯のスープで完璧に「下ごしらえ」してしまう少年料理人の底知れぬ愛情。
だが、その心温まる空間に、さらなる絶望の影が迫ろうとしていた。
『――――ア……アル! 大変ですッ!!』
オルタが、自身のシステムを限界まで稼働させながら、悲鳴を上げた。
「エノクに続き……新聖女セラフィナの『純白の神威』が、神座の塔から直接、この奈落へ向かって降下を開始しましたッ!!」
「新聖女が……来る!?」
エレナが、ハッとして聖剣を握り直す。
「逃げて……ください」
セリアが、涙で濡れた顔を上げ、震える声でアルたちに懇願した。
「セラフィナ様は……化け物です。私やエノク様とは次元が違う……すべてを『光』で消滅させる、神の暴走兵器……。あなたたちの温かさでは、絶対に勝てない……ッ!」
セリアの警告を裏付けるかのように、奈落の遥か上空から、空間そのものを白く焼き尽くすような【異常な光の波動】が、ジワリジワリと圧し掛かってきた。
温かいスープの差し入れによって、敵の心をも救い出したアル。
しかし、彼らの前に立ちはだかる次なる敵は、もはや心を持たない「神という名の天災」そのものであった。
極限の絶望が迫る中、チーム『最高の厨房』の、生死を懸けた真の最終防衛戦が幕を開けようとしていた。




