第76話:蘇る過去のトラウマ
一、 奈落の底と、凍てつく身体
ヒュオォォォォォォォォッ……!!
どれだけの時間、暗闇の中を落下し続けたのだろうか。
永遠にも思える風切り音の後、四人の身体は、積み重なった大量の鉄屑と、生ゴミのようなおぞましい悪臭を放つクッションの山へと激しく叩きつけられた。
「がはっ……!!」
アルは、全身の骨が軋むような衝撃に肺の中の空気をすべて吐き出し、そのまま意識を失いかけた。
だが、胸の奥底で燃え続ける『炉』の熱が、ギリギリのところで彼の生命線を繋ぎ止めた。
「ゲホッ……コホッ……! オルタ……カルム……ッ!」
アルは、埃と悪臭にまみれた暗闇の中で、必死に身を起こした。
見上げれば、遥か頭上、米粒ほどの大きさに思える小さな四角い光が見える。あそこから、彼らは落下してきたのだ。教国のペレット製造工場の、分厚い床下から。
ここは、主神直属の第二使徒エノクが「廃棄施設(ゴミ箱)」と呼んだ、光の届かない地下収容所のどん底であった。
「アル……ご無事、ですか……」
瓦礫の山から、バチバチと青白い火花を散らしながら、オルタが這い出してきた。
彼女の白磁の身体は至る所が破損し、特にエノクの冷気から強引にシステムを再起動させた代償で、右腕の機能が完全に停止してぶら下がっていた。
「オルタ! 動いちゃダメだ!」
アルが慌てて駆け寄る。
「ワタクシは、平気です……。それよりも、カルムとエレナを……ッ!」
アルは、瓦礫の山を必死に手で払い退けた。
そこには、絶望的な光景が横たわっていた。
「カルム……ッ!!」
カルムの身体は、完全に黒焦げになっていた。
彼の命の炎『漆黒と紅蓮の滅びの炎』によって皮膚は炭化し、さらにエノクの指先から流し込まれた『絶対静止』の冷気によって、心臓の奥底までが青白い氷の棘に貫かれて凍結している。
呼吸は止まり、脈も感じられない。
「嘘だ……。カルム! 目を開けてよカルムッ!」
アルが、火傷も構わずにカルムの身体に抱きつき、必死に胸の『炉』の熱を注ぎ込もうとする。
だが、エノクの神威である絶対零度の呪いは、アルの熱を容赦なく弾き返し、カルムの心臓を完全に沈黙させたままだった。
「マスター・アル……。カルムの生体活動は、極限の仮死状態で固定されています。……エノクの冷気が、彼の細胞が崩壊する直前で、時間を停止させているのです」
オルタが、ルビー色の瞳を悲痛に明滅させて告げた。
「仮死状態……。じゃあ、まだ……カルムは死んでないんだね!?」
「はい。ですが……この絶対零度の呪いを解呪し、彼の心臓を再び動かすことができるほどの『究極の熱』を与えなければ、彼は二度と目覚めることはありません」
「究極の、熱……」
アルは、カルムの黒焦げの手をしっかりと握り締めた。絶対に諦めない。この氷を溶かす最高のスープを、必ず作ってみせる。
「アル殿……」
カルムの隣の瓦礫から、微かな、掠れた声が聞こえた。
エノクの冷気によって、全身を氷の彫像のように凍結させられていたエレナだった。
落下時の衝撃で、彼女を覆っていた氷の結界が一部ひび割れ、かろうじて意識を取り戻したのだ。
「エレナさんッ!」
アルは、エレナの元へ這い寄り、彼女の顔を覆う氷を素手で必死に掻き落とした。手のひらが凍傷で皮が剥けても、アルは止めなかった。
「やめろ、アル殿……。私のために、君の手を傷つけるな……っ」
エレナの青い瞳から、涙がこぼれ、それもすぐに凍りついて氷の粒となる。
「どうして……どうして君たちは、私のような罪人を……まだ庇うのだ……」
妹を人質に取られ、心を殺して処刑人として生きた過去。そして、その妹がすでに生体燃料として灰にされていたという、あまりにも残酷な真実。
エレナの魂は、すでに完全な崩壊の淵にあった。
二、 蠢く奈落の亡者たち
「エレナさん、そんなこと言わないで! 僕は、絶対にみんなで地上に帰るんだから!」
アルが、エレナの冷たい手を両手で包み込み、懸命に温める。
だが、その時だった。
ザッ……。ズリッ……。
光の届かない奈落の闇の奥から。
まるで地を這う虫のような、不気味な足音と衣擦れの音が、四方八方から湧き上がってきたのだ。
「……何かが、近づいてきます。多数ですッ!」
オルタが、機能の低下したセンサーで周囲を警戒する。
暗闇から、無数の青白い眼光が浮かび上がった。
「あ……あぁ……」
「光だ……。上の世界から、光が落ちてきた……」
瓦礫の山を囲むようにして姿を現したのは、ボロボロの布切れを纏い、ガリガリにやせ細り、理性を失いかけた【何百人もの人間たち】であった。
教国の抑圧マナに抗い、感情を捨てきれなかったために、不適合者としてこの地下収容所に投獄された人々。
彼らは長年、光も十分な食料も与えられず、ただ神座の塔のエネルギー源として生体マナを微量ずつ搾り取られ続けるだけの、生ける屍と化していた。
「お腹が……空いた……」
「温かい……温かいものが、欲しい……」
亡者たちは、アルの胸から漏れ出す微かな『炉』の黄金の熱と、倒れているカルムやエレナの肉体に宿る僅かなマナ(体温)を求め、ゾンビのように手を伸ばしてにじり寄ってきた。
「待って! 近づかないで!」
アルが、カルムとエレナを背中で庇うようにして両手を広げた。
亡者たちの目は、飢餓と絶望で完全に濁っていた。
アルの制止の声など耳に入っていない。彼らは、ただ本能のままに、「温かい命」を貪ろうとアルたちに飛びかかろうとした。
その瞬間。
「……ま、待て。……その顔……」
亡者たちの一番前にいた、片目を失明した初老の男が、ピタリと動きを止めた。
男の残された片目が、瓦礫に寄りかかっているエレナの顔――氷が割れ、素顔があらわになったその白蝋のような横顔を、信じられないものを見るように見開いていた。
「間違いない……。あの、白銀の髪……あの冷たい目……ッ!!」
初老の男の口から、飢餓とは別の、どす黒い【憎悪】が混じった声が漏れ出た。
「エレナ・ルミナス……ッ!! 聖騎士長エレナ・ルミナスだァァァァァッ!!!!」
三、 怨嗟の嵐と抉られる傷
初老の男のその叫びは、暗黒の奈落に、凄まじい衝撃波となって伝播した。
「エレナ・ルミナスだと……!?」
「あの、悪魔の女騎士かッ!?」
感情を失いかけていた亡者たちの瞳に、一瞬にして猛烈な怒りと憎悪の炎が宿った。
「お前のせいだッ! お前が、俺の妻を『教律違反だ』と言って、俺の目の前で切り捨てたんだッ!」
一人の男が、瓦礫の破片を握り締め、血走った目でエレナを指差した。
「私の息子を返せッ! 泣き叫ぶあの子を、お前は冷たい目で連れ去って、この地獄に放り込んだじゃないかッ!!」
髪を振り乱した女が、狂ったように叫び、石を投げつけた。
ガンッ!
投げられた石が、エレナの肩の甲冑に命中し、鈍い音を立てた。
「殺せ……! 俺たちの人生を奪い、家族を殺した、教国の犬を殺せェェェェッ!!」
「悪魔ッ! 人殺しッ!!」
怨嗟の嵐。
それは、エレナが教国の『不滅の盾』として心を殺し、神の剣として振るってきた過去の業の、紛れもない【真実の報い】であった。
亡者たちは、飢えを忘れ、激しい憎悪に突き動かされて、エレナを八つ裂きにせんと一斉に襲いかかってこようとした。
「やめてッ!!」
アルが、必死にエレナの前に立ち塞がる。
「エレナさんは、もう教国の人じゃない! 僕たちの仲間だッ!!」
だが、亡者たちの耳に、アルの言葉は届かない。
「どけ、子供! そいつは人間の心を持たない悪魔だ! 俺たちがどれだけ泣いて命乞いしても、一秒も立ち止まらずに首を撥ねた女なんだぞッ!!」
「……アル殿、もういい」
アルの背後から、死人のように冷たく、虚ろな声が響いた。
エレナだった。
彼女は、アルの肩を優しく押し退け、自ら亡者たちの前へと進み出た。
「エレナさん! ダメだよッ!」
アルが止めようとするが、エレナの瞳からは、すでに「生きる意志」の光が完全に失われていた。
「彼らの言う通りだ。……私は、彼らの人生を壊し、彼らの愛する家族の命を、この冷たい手で奪ってきた。……その事実は、私が今何を想おうと、決して消えることはない」
エレナの脳裏に、かつての光景がフラッシュバックする。
血に染まった聖剣。泣き叫ぶ人々。
妹のルシアを生かすためだけに、自分はどれほど多くの無実の命を踏みにじってきたのか。
そして、そのルシアすらも、すでにエノクの手によって燃料として灰にされていたという絶望。
自分が剣を振るってきた意味など、初めからどこにもなかったのだ。
ただの、神に操られた哀れな殺人鬼。
それが、自分という存在の正体。
「……撃て。石を投げ、私を殺すがいい」
エレナは、己の腰にある『星霜の聖剣』の柄から手を離し、無防備に両腕をだらりと下げた。
「私は……彼らの命を奪い、ルシアをも救えなかった、無価値な罪人だ。……ここで、彼らの恨みの刃に引き裂かれることこそが、私に相応しい……唯一の報いだ」
エレナのその姿は、かつて最高位聖騎士として君臨していた者の威厳など微塵もない、ただ過去の罪悪感に完全に心を折られ、死を望む哀れな一人の女性の姿であった。
四、 小さな盾と、繋がる熱
「殺せェェェェッ!! 悪魔に裁きをォォォォォッ!!」
亡者たちが、錆びた鉄パイプや尖った瓦礫を手に、エレナへ向かって殺到する。
エレナは目を閉じ、自らの身体を引き裂くであろう刃の痛みを静かに待った。
だが。
ドスッ……!!
「……っ!?」
エレナの耳に届いたのは、自分が肉を切り裂かれる音ではなかった。
目を開けたエレナの視界に映ったもの。
それは、エレナの前に飛び出し、亡者が振り下ろした錆びた鉄パイプを、その小さな『背中』で真っ向から受け止めた、少年料理人アルの姿であった。
「ア、アル殿ッ!?」
エレナの顔から、一気に血の気が引いた。
「がはっ……!」
アルは、鉄パイプの重い一撃を背中に受け、口から血を吐きながらも、両足を踏み締めて一歩も退かなかった。
「邪魔をするな、小僧ッ! そいつは俺たちの家族を殺したんだぞッ!!」
鉄パイプを握る男が、怒りに狂った目でアルを睨みつける。
「……だからって、エレナさんを殺していい理由にはならないッ!」
アルは、血を流しながらも、真っ直ぐに亡者たちを睨み返した。
彼の漆黒の瞳に宿る『炉』の熱が、暗黒の奈落に、圧倒的な太陽の光となって燃え上がった。
「エレナさんは、ずっと苦しんでたんだ! 自分の心を殺して、泣くことも許されずに、ずっと一人で冷たい場所にいたんだよッ!!」
アルは、エレナの方を振り返らず、亡者たちに向かって叫び続けた。
「過去にエレナさんがしたことは、許されないことかもしれない。……でも! エレナさんは、自分が間違ってたって気づいて、僕たちのために、あの冷たい海の中で血を吐きながら結界を張ってくれたんだッ! 自分を犠牲にして、僕の居場所を護ってくれたんだよッ!」
アルの目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「エレナさんは……もう、冷たい機械なんかじゃない。僕の、大事な家族だッ! だから……僕の家族を、これ以上傷つけるなァァァァッ!!」
アルの叫び。
それは、どんな分厚い神聖金属の盾よりも強く、そして温かく、エレナの凍りついた魂の最奥へと突き刺さった。
五、 絶望の底に灯る、一杯のスープの匂い
アルの必死の叫びと、彼から放たれる黄金のマナ(体温)の波動に当てられ、亡者たちの動きが一瞬、ピタリと止まった。
教国の抑圧マナによって感情を消されかけていた彼らにとって、アルの放つ純粋な「誰かを護りたいという熱量」は、あまりにも眩しく、そして懐かしいものであったからだ。
「……家族、だと……」
鉄パイプを握っていた男の腕から、力が抜ける。
彼自身も、かつては家族を愛し、その愛のために教国に逆らってここに投獄されたのだ。
だが、極限の飢餓状態にある彼らの狂乱は、言葉だけで完全に収まるものではない。
「うるさい……! そんなことより、腹が減った……! 食い物を……命の熱を寄越せェェッ!!」
別の亡者たちが、再びアルとエレナへ向かってよろぼいながら手を伸ばしてくる。
「アル! 離れてくださいッ! 彼らは極限の飢餓で理性を失っています!」
オルタが警告する。
しかし、アルは逃げなかった。
「……お腹が、空いてるんだね」
アルは、エプロンのポケットに手を入れた。
そして、彼がそこから取り出したのは――先ほど、地上に出る前に隠し洞窟で作った、『海神と大地の決戦スープ』の残りが入った水筒と、干し肉の予備であった。
アルは、黒鉄の包丁を構えるのではなく、まな板代わりの平らな瓦礫の上に、干し肉を並べ始めた。
「待っててね。……今、僕がご飯を作るから!」
アルは、自身の胸の『炉』の熱を、包丁の刀身へと集めた。
そして、極限の集中力で、干し肉を極薄にスライスし、水筒に残っていたスープを温め直し始めたのだ。
「【真理解体・命を繋ぐ恩返しのスープ】……!」
アルの包丁の手さばきは、暗黒の奈落にあっても、一切の迷いがなかった。
ジュワァァァァァァッ……!
カルムの炎がない今、アルは自身の命のマナを直接熱に変換して、スープを煮立たせた。
その瞬間。
信じられないほど芳醇で、甘く、そして力強い【命の香り】が、生ゴミとカビの臭いしかしない絶望の地下収容所全体に、爆発的に広がっていった。
「な……なんだ、この匂いは……」
「温かい……。すごく、いい匂い……」
殺意と憎悪に狂っていた亡者たちの目から、ふっと狂気が消え去った。
彼らは、武器を取り落とし、アルの足元でコトコトと煮立つ小さな鍋の周りに、まるで光に群がる虫のように、フラフラと引き寄せられていった。
「少しずつ飲んでね。いきなりたくさん飲むと、胃がびっくりしちゃうから」
アルは、持っていた小さな木のお椀にスープを注ぎ、鉄パイプを振り下ろそうとしていた男へ、そっと両手で差し出した。
男は、震える手でそのお椀を受け取った。
信じられないものを見るように、スープの湯気を見つめる。
そして、ゆっくりと、一口、口へ運んだ。
ズズッ……。
「――――――――――――ッ!!」
男の目から、滝のような涙が溢れ出した。
「あぁ……っ。あぁぁぁっ……!! うまい……! うまいよぉぉぉぉぉぉっ!!」
男は、子供のように声を上げて泣き崩れた。
何年間も、味のしないペレットすらろくに与えられず、暗闇で絶望を噛み締めていた彼らにとって。アルのスープがもたらした「味」と「温かさ」は、失われていた人間としての尊厳を、一瞬にして魂に呼び戻す【究極の救済】であった。
他の亡者たちも、アルが配るスープを一口飲むたびに、次々とその場に崩れ落ち、声を上げて泣き始めた。
憎悪も、狂気も、アルの一杯のスープがもたらした「体温」の前に、完全に解きほぐされてしまったのだ。
六、 涙と、不滅の盾の再生
その光景を。
エレナは、信じられない思いで、ただ呆然と見つめていた。
自分が奪い、地獄へ突き落とした人々。
一生許されることのない、自分の罪の被害者たち。
彼らが今、アルの作ったスープを飲み、涙を流しながら、人間としての『温かな心』を取り戻している。
「……アル殿」
エレナの目から、もう氷ではない、温かな大粒の涙がとめどなく溢れ出た。
自分がどんなに過去を悔やんでも、彼らを救うことはできなかった。
だが、アルは、武器ではなく、包丁とスープの熱で、彼らの憎しみの連鎖を断ち切り、命の尊厳を救い出してしまったのだ。
「僕は……料理人だから。お腹が空いて泣いてる人がいたら、絶対に放っておけないんだ」
アルは、血を流す背中をかばいながら、エレナに向かって最高の、太陽のような笑顔を向けた。
「エレナさんも……もう自分を許してあげて。エレナさんが過去に犯した罪の分まで……僕が、世界で一番美味しいご飯を作って、みんなを笑顔にしてあげるから!」
アルの言葉が、エレナの胸の奥底――過去のトラウマによって完全に砕け散っていた騎士の誇りの破片を、一つに繋ぎ合わせ、圧倒的な光の熱で修復していく。
「あぁ……っ」
エレナは、両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
神の剣として、感情を殺し続けてきた彼女が、生まれて初めて見せた、子供のような号泣であった。
罪悪感から逃げるのではない。
過去の罪を背負い、それでも、アルの作るこの「温かな食卓」を、世界中の人々に届けるために。
自分の命と盾は、そのためにこそ存在しているのだと、エレナの魂は完全なる【再起】を果たしたのだ。
「ありがとう……アル殿。君は、私の……私の、光だ……ッ!」
エレナは、涙で顔を濡らしたまま、再び立ち上がった。
彼女の腰にある『星霜の聖剣』が、主の魂の復活に呼応し、暗黒の奈落の底で、再び眩いばかりの青白銀の極光を放ち始めた。
絶対絶望の敗北から、奇跡の生還。
そして、過去のトラウマを乗り越え、真の意味で【不滅の盾】としての存在意義を取り戻したエレナ。
だが、彼らの戦いは終わっていない。
カルムの命の炎は凍りついたままであり、頭上の神座の塔には、主神アルファと最凶の使徒エノクが君臨している。
絶望の底から立ち上がった少年料理人と騎士は、仲間を救い、世界を温めるため、再び不可能へと挑むための過酷な反撃の狼煙を、静かに上げようとしていた。




