第75話:ルミナの焦土
一、 踏みにじられる体温と神の慈悲
ピキィィィィィィンッ……!!
第零セクターの巨大なペレット製造工場。
本来ならば無機質な機械の駆動音が響き渡るはずのその空間は、第二使徒・神罰審判官エノクが降臨したことによって、一切の音と熱を奪われた【絶対の死の静寂】へと変貌していた。
「がはっ……ぁ……っ」
冷たい金属床に叩きつけられた少年料理人アルは、口から血を流し、見えない巨大な氷の塊に全身を押し潰されているかのような激痛に喘いでいた。
肺に空気が入らない。指一本動かすことすら、途方もない抵抗を感じる。
エノクが放つ『絶対静止』の神威は、空間の重力や物理法則そのものを書き換え、アルの体内を流れる血液の循環すらも強制的に停止させようとしていた。
「マスター・アルッ!!」
オルタが悲鳴を上げ、アルを助けようと駆け寄ろうとする。
しかし、彼女がエノクの半径十メートル以内に踏み込んだ瞬間。
『――――ピィィィィッ! エラー! 極低温による駆動系ジョイントの凍結を確認! マナ回路、強制シャットダウンの危機……ッ!――――』
「あ……うぅ……っ」
オルタの小さな身体の表面に真っ白な霜が張り付き、彼女はピタリと動きを止められ、その場に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
「機械人形風情が、神の御前にみだりに近づくものではありませんよ」
エノクは、オルタを一瞥することすらなく、床に這いつくばるアルを見下ろした。
彼の背後で回転する三つの青白い神聖光輪が、冷酷な光を放っている。
「あなたというイレギュラーが世界にもたらしている『熱』……。それは、人々に無駄な希望を抱かせ、やがて取り返しのつかない絶望を生み出すだけの『病』です」
エノクは、氷漬けにされて意識を失っているエレナの方へ、冷ややかな視線を向けた。
「見なさい。あのエレナ・ルミナスの無惨な姿を。……彼女は、妹への『愛情』などという熱を抱いたが故に、心を殺し、罪を重ね、最後にはその妹を自らの足元の燃料にされていた事実を知り、絶望に砕け散った」
エノクが、一歩、アルへ近づく。
その足音すらも、空気を凍らせる鋭い刃のようだった。
「もし彼女に、初めから愛情などというものがなければ……彼女はあのような苦しみを味わうことはなかった。永遠に美しい神の剣として、平穏の中に静止していられたのです。……感情(熱)は、人間を苦しめるだけの毒。すべてを凍てつかせる私の『絶対静止』こそが、彼らを苦痛から解放する唯一の慈悲なのです」
エノクは、右手の人差し指を、アルの心臓へ向けて静かに突き出した。
「あなたのその『炉』も、ここで永遠に凍結らせてあげましょう。……私の慈悲に感謝しなさい」
アルは、薄れゆく意識の中で、必死に胸の『炉』を燃やそうとした。
しかし、エノクの絶対零度は、マナが燃え上がる「運動」そのものを概念から否定する。アルの黄金の熱は、身体の外へ放たれる前に、チリチリと無残に消え去っていく。
(ダメだ……。身体が、動かない……っ)
指先から絶対零度の冷気が放たれようとした、まさにその絶体絶命の瞬間。
「……慈悲だと?」
工場の奥、先ほどカルムが吹き飛ばされ、激突した鋼鉄の瓦礫の山から。
地獄の底から響くような、低く、ドス黒い怒りに満ちた声が轟いた。
二、 命を燃やす覚悟、相棒の誇り
ガコンッ……バゴォォォォンッ!!!!
瓦礫の山が内側から爆発的に吹き飛び、その中から、全身を血に染めたカルムが立ち上がった。
彼の赤銅色の髪は血と煤で汚れ、左腕は先ほどの衝撃で不自然な方向に折れ曲がっている。
だが、彼を突き動かしているのは、肉体の限界を遥かに超えた【怒り】と、相棒への絶対的な【誓い】であった。
「……まだ生きていましたか、野良犬。無駄な足掻きは自身の苦痛を長引かせるだけですよ」
エノクが、アルに向けた指先を止めず、冷たく言い放つ。
「笑わせんじゃねぇぞ、氷野郎……ッ!」
カルムは、折れた左腕を無視し、無事な右腕をだらりと下げたまま、一歩、また一歩とエノクへ向かって歩みを進めた。
「妹を燃料にして燃やすことが、お前らの慈悲か……? 笑わねぇように心を殺すのが、お前らの平和か……? 冗談じゃねぇ。そんなもん、ただの巨大な『生ゴミ処理機』と変わんねぇだろうがッ!!」
カルムの全身の毛術回路(マナ回路)が、危険なほどに赤く、激しく明滅し始めた。
アクアリアの海で、カルムは「敵を破壊する炎」から「仲間を護るための極光炎」へと覚醒を果たした。
その炎は確かに、深海の絶対零度すらも押し返すほどの優しさと強さを持っていた。
しかし、目の前にいる存在は、大自然の冷たさなどではない。
世界の物理法則そのものを書き換える、神の代行者。
(俺の今の火じゃ……こいつの冷気は溶かせねぇ。届く前に、概念ごと凍らされちまう……!)
カルムは、己の無力さを、誰よりも冷静に理解していた。
純粋な『火力(出力)』の絶対値が、あまりにも違いすぎるのだ。
だが、ここで引けば、アルが死ぬ。
俺に「生きる理由」をくれて、俺の炎を「最高の火」だと言ってくれた、たった一人の大切な相棒が。
(……なら、限界を超えて燃やすしかねぇだろうがッ!!)
カルムは、自身の生命力を司る【心臓の奥底】へ向けて、マナを逆流させた。
「カルム……ッ! ダメだ……っ! それ以上マナを燃やしたら……死んじゃうよ……ッ!」
アルが、床に這いつくばりながら、血を吐きながら絶叫した。
アルの『真理の目』には見えていた。カルムが今からやろうとしていることが、マナではなく「自分自身の寿命と肉体」を薪にして燃やす、完全なる自滅行為だということが。
「アル。……俺は、お前の厨房を護るって、あの海で誓ったんだ」
カルムが、ニッと、血だらけの顔で最高の八重歯を見せて笑った。
「俺の炎が届かねぇなら……届くまで、俺の命ごと燃やし尽くしてやるよッ!!」
三、 ルミナの焦土
ボワァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!!!!
カルムの肉体から、これまでに見たこともないほどの、凄まじい炎の柱が吹き上がった。
それは、群青でも緋色でもない。
自らの血を沸騰させ、骨を焦がし、魂そのものを燃料にして生み出された、すべてを焼き尽くす【漆黒と紅蓮の滅びの炎】。
「オオォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!!」
カルムの咆哮とともに、エノクの絶対零度によって凍りついていた工場内の空気が、一瞬にして超高熱に包まれた。
ジュワァァァァァァッ!!
凍結していたパイプが蒸発し、白亜の神聖金属の床が、カルムの足元からドロドロのマグマとなって溶け出していく。
エノクが展開していた『絶対静止』の空間に、カルムの命を燃やした規格外の熱量が強制的に干渉し、空間の法則をバキバキと音を立てて破壊し始めたのだ。
「……狂人ですね。自らの存在そのものを燃やして、一時的な熱量を引き出そうというのですか」
エノクの氷の瞳に、わずかながらの「不快感」が宿った。
「その通りだぜ。俺は……狂ってでも、お前をぶっ飛ばすッ!!」
ドンッ!!!!
カルムが、溶け落ちる床を蹴り、神速を超えたスピードでエノクの懐へと肉薄した!
彼の全身は、自らの炎によって皮膚が焼け焦げ、炭化し始めている。だが、痛みなどとうに超越していた。
「【我流神殺・焦土極光乱打】ッ!!!!」
カルムの右拳から、工場のすべてを消し炭にするほどの、命を削った連撃が放たれる!
「愚かな」
エノクが、指先から絶対零度の盾『コキュートス・ウォール』を展開する。
ドガァァァァァァァンッ!!
バキィィィィィィィィィンッ!!!!
カルムの拳が氷の盾に激突した瞬間、凄まじい水蒸気爆発が巻き起こった。
エノクの氷がカルムの炎を凍らせようとし、カルムの炎がエノクの氷を溶かそうとする、純粋な概念の衝突。
「燃えろッ! 燃えろッ! 燃えやがれ俺の命ィィィィィィィッ!!!!」
カルムの左目から血が噴き出し、視力が失われる。
だが、彼は拳を止まらない。
殴るたびに自身の骨が砕け、肉が焦げるのも構わず、絶対零度の壁へ向かって絶叫とともに炎を叩き込み続ける!
ズガガガガガガガガガガガガッ!!!!
無機質だったペレット製造工場は、カルムの命の炎によって、文字通りドロドロに溶け落ちた【ルミナの焦土】へと変貌していく。
分厚い装甲が溶岩のように流れ落ち、白銀の世界が、おぞましいまでの熱気に支配された。
四、 届かざる究極の熱、そして絶望の差
「オラァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
カルムの最後の一撃、己の魂の残滓すべてを乗せた右拳が、ついにエノクの絶対零度の盾に深い亀裂を走らせた!
パァァァァァンッ!!!!
氷の盾が砕け散る。
カルムの焦げ付いた拳が、エノクの純白の法衣の胸元へと到達した。
「……っ!」
エノクの顔に、初めて「驚愕」の色が浮かんだ。
カルムの放った熱は、物理法則を無視した神の盾を打ち破り、確かにエノクの肉体へと触れたのだ。
ズザザザザッ……!
エノクの身体が、カルムの拳の威力に押され、金属の床を滑るように【後方に一歩、足を踏み出させた】。
「やった……! カルムの炎が、届いたッ!」
アルが、空間の重圧から解放され、かすれた声で叫んだ。
しかし。
カルムの限界を超えた一撃がエノクに与えたダメージは、ただ「法衣の胸元をわずかに焦がし、一歩下がらせた」という、ただそれだけの事実でしかなかった。
「……賞賛に値しますよ。ただの人間のバグが、自らの命と引き換えに、私の盾を割り、一歩下がらせるとは」
エノクは、法衣の焦げ跡を無表情に見下ろし、そして、限界を迎え、拳を突き出したままの姿勢で硬直しているカルムを冷たく見据えた。
「ですが……所詮は、その程度です」
エノクの背後で回転する三つの光輪が、眩いばかりの青白い輝きを放った。
「【神罰・絶対氷結界】」
エノクが、カルムの胸のド真ん中に、指先を軽くトンッと当てた。
その瞬間。
カルムの全身を燃やし尽くしていた漆黒と紅蓮の炎が、まるでビデオを逆再生するように、瞬時にシュンッと掻き消された。
「……がはッ……!?」
カルムの目が見開かれる。
エノクの指先から、文字通り「絶対の死の冷気」がカルムの心臓の奥底――炎の根源たる毛術回路の核へと直接流し込まれたのだ。
バリバリバリバリッ!!!!
カルムの体内から、青白い氷の棘が無数に突き出し、彼の全身の経絡と骨を内側から完全に凍結させていく。
「カルムゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!」
アルの絶叫が焦土に響き渡る。
「温かさなど、所詮は一時的なエントロピーの無駄遣い。……絶対の静止の前に、身の程を知りなさい」
エノクが指を離すと、カルムの身体は、完全に力尽き、黒焦げの肉体に青白い霜を纏ったまま、崩れ落ちるように床へと倒れ伏した。
ピクリとも、動かない。
その胸から、あの力強かった生命の鼓動は、微塵も感じられなくなってしまった。
「ああ……ああぁぁぁっ……!」
アルが、涙をボロボロと流し、包丁を杖にして必死に立ち上がろうとする。
だが、エノクの神威が再び空間を圧し潰し、アルを床に縫い留めた。
カルムの命を燃やした究極の炎でさえ、神の代行者にはただ「一歩下がらせた」だけ。
これが、人間と神の、絶望的な次元の違い。
純粋な火力において、カルムの存在は完全に【敗北】を突きつけられたのだ。
五、 奈落への脱出
「さて。これで五月蝿いノイズは消え去りました。……特異点よ、あなたもその炎の残骸と共に、永遠の静寂に沈みなさい」
エノクが、再びアルへ向けて冷たい指先を突き出そうとした、まさにその時。
『――――システム・オーバーライド! 非常用パージ・プロトコル、実行ッ!!――――』
凍りついて動けなくなっていたはずのオルタが、自身の演算コア(心臓部)から強制的に発熱処理を行い、身体の氷を強引に砕いて叫んだ。
オルタは、エノクを攻撃するのではなく、焦土と化してボロボロになっていた【ペレット製造工場の巨大プレス機群】の制御システムへ、自らのサブプロセッサを焼き切る覚悟で直接ハッキングを仕掛けたのだ。
ガコンッ! ギュイィィィィィィンッ!!!!
巨大な何十台ものプレス機が、一斉に安全装置を解除され、工場のド真ん中――アルやカルム、そしてエノクの足元の金属床へ向けて、一斉に暴走して激突した。
魔法ではない。完全な「物理的質量」による大暴走。
ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
カルムの炎でドロドロに溶け、強度が限界に達していた金属床が、巨大機械の激突の衝撃に耐えきれず、轟音とともに崩落を始めた。
「な……っ」
エノクが、予期せぬ物理的な足場の崩壊に、わずかに体勢を崩す。
床にぽっかりと開いた、巨大な大穴。
その下は、先ほど彼らが覗き込んだ――何千人もの人々が幽閉されている、光の届かない絶望の地下収容所【奈落の底】へと直結していた。
「アルッ! 今ですッ!!」
オルタが、凍結したエレナの身体と、倒れたカルムの身体をマナの糸で強引に引き寄せながら、自らその崩れゆく大穴へ向かって身を投げ出した。
「オルタッ!」
アルは、エノクの神威が床の崩落によって一瞬途切れた隙を突き、エプロンをなびかせながら、オルタたちを追って真っ逆さまに奈落の闇の中へと飛び降りた。
ヒュオォォォォォォォォッ……!
凄まじい風切り音とともに、四人の身体が、一切の光が届かない地下の底なしの暗闇へと吸い込まれていく。
エノクは、崩落した床の縁に静かに降り立ち、冷ややかな瞳で、奈落へと落ちていくアルたちの姿を見下ろしていた。
追撃しようと思えば、できたはずだ。
だが、エノクは、それ以上自らの手を下すことはしなかった。
「……あの『廃棄施設(ゴミ箱)』に落ちて、生きて帰ってきたバグは歴史上存在しません。……死の冷気と、飢えた亡者たちの中で、己の無力さを呪いながら凍りつくがいいでしょう」
エノクは、背後の光輪を静かに明滅させ、崩落した工場に背を向けた。
神座の塔への潜入。
それは、彼らの予想を遥かに超える、最悪の形での【完全敗北】という結果で幕を閉じた。
不滅の盾たるエレナは凍りつき、最強の相棒カルムは命の炎を打ち砕かれ、生死の境を彷徨っている。
そして、彼らは希望の光すら届かない、教国の最も深く暗い絶望のどん底へと、ただ落ちていくことしかできなかったのである。




