第74話:孤高の騎士の過去
一、 空間を圧壊する神威
天井の分厚い神聖金属の装甲が、まるで熱せられた飴細工のようにドロドロと溶け落ちる。
第零セクターの広大な地下工場に、太陽の光すらも遮断するほどの【漆黒と白銀が混ざり合った異様な光】が、滝のように流れ込んできた。
その光が空間に満ちた瞬間。
「がっ……!?」
カルムが、突如として何十倍にも跳ね上がったかのような凄まじい重圧に襲われ、膝をガクンと折った。
「な……なんだ、この空気の重さは……! 息が、できねぇ……ッ!」
カルムだけではない。アルも、そして絶対の不滅の盾として覚醒したばかりのエレナでさえも、聖剣を杖にして立っているのがやっとというほど、空間そのものが目に見えない巨大なプレス機で押し潰されようとしていた。
『――――ピィィィィィィンッ! 警告……警告! 空間の構成概念が、強圧的なマナによって強制上書き(オーバーライド)されていますッ!――――』
オルタが、自身のシステムがシャットダウンしそうになるのを必死に堪えながら、悲鳴のようなアラートを上げた。
「第一使徒ガラテアのデータとは、次元が違います! この存在は……この場の『物理法則』そのものを、己の都合の良いように書き換えていますッ!」
「物理法則を書き換えるだぁ……!? 神様気取りも大概にしろよ……ッ!」
カルムが、右拳に『群青と緋色の極光炎』を燃え上がらせ、必死に立ち上がろうとする。
だが、溶け落ちた天井の穴――降り注ぐ白銀の光の中から【その姿】がゆっくりと降下してきた時、カルムの炎は、まるで恐怖に怯えるようにチロチロと弱々しく萎縮してしまった。
光の中から現れたのは、一人の男だった。
純白の豪奢な法衣を纏い、背中まで届く銀色の長髪を流した、年齢不詳の美貌を持つ男。
彼の背後には、天使の羽ではなく、幾何学的に明滅する【三つの青白い神聖光輪】が、不気味なほどの神々しさを放って回転している。
男が、音もなく工場の金属床に足をついた瞬間。
ピキィィィィィィィィンッ……!!
男の足元を中心にして、絶対零度の冷気が爆発的な速度で広がり、巨大な工場内のコンベアやパイプ、そして空気中の水分が一瞬にして【青白い氷】へと凍結したのだ。
「……虫の羽音が、随分と耳障りですね」
男の口から発せられた声。
それは、怒りも、殺意も、一切の感情の揺らぎも含まれていない、ただ事実のみを告げる無機質な響きであった。だが、その声が鼓膜を震わせただけで、アルたちの心臓は氷の刃で撫でられたような根源的な恐怖に竦み上がった。
「まさか……。あなたが、直々に降りてくるとは……」
エレナが、震える唇から、絶望に染まった声を漏らした。
「エノク……卿……!」
「お久しぶりですね。……出来損ないの裏切り者、エレナ・ルミナス」
主神アルファ直属の最上位使徒にして、教国のすべての罪を裁く絶対の執行者。
【第二使徒・神罰審判官エノク】。
彼の氷のように透き通った瞳がエレナを捉えた瞬間、エレナの全身から血の気が完全に引き、彼女の脳裏に、鍵をかけて封印していた【最も残酷な過去の記憶】が、激痛とともにフラッシュバックした。
二、 ルミナス家の秘密と双子の妹
エレナ・ルミナス。
『ルミナス』という姓は、教国ルミナにおいて、主神アルファの威光を最も濃く受け継ぐ特別な名門貴族にのみ許された称号であった。
彼女の一族は代々、感情を完全に殺し、神の盾(聖騎士長)として国に命を捧げることが義務付けられていた。
幼い頃から、エレナはその過酷な抑圧マナの環境下で、泣くことも笑うことも禁じられ、完璧な『氷の刃』となるための訓練を受け続けていた。
しかし、エレナには、たった一人だけ、その冷たい世界で『温かさ』を共有できる存在がいた。
双子の妹、ルシアである。
エレナと瓜二つの顔を持ちながらも、ルシアは生まれつき抑圧マナへの耐性が低く、どうしても『感情』を抑え込むことができなかった。
花を見ては綺麗だと微笑み、小鳥が死ねばポロポロと涙を流す。
教国においては最大の罪とされるその振る舞いを、エレナは姉として必死に隠し、誰にも見つからないようにルシアを庇い続けていた。
(エレナお姉ちゃん。……いつか、外の世界の『海』っていうのを見てみたいな。しょっぱくて、温かいお水なんだって!)
ルシアのその無邪気な笑顔だけが、冷たい教国で生きるエレナにとって、唯一の『心の体温』だった。
だが、そのささやかな秘密は、教国の冷酷な監視網を逃れ続けることはできなかった。
ある日、ルミナス家の屋敷に踏み込んできたのが――他でもない、神罰審判官エノクであった。
『……残念です。名門ルミナス家から、このような致命的なエラー個体が発生するとは。……この娘は、直ちに分解処分の刑に処します』
エノクが冷たく宣告し、ルシアを捕縛しようとした時。
エレナは、生まれて初めて教律に逆らい、エノクの前に立ちはだかって妹を庇った。
『お待ちください! ルシアは……私のたった一人の妹です! どうか、命だけは……っ!』
涙を流し、土下座をして懇願するエレナを見下ろし、エノクは氷のような瞳で一つの【残酷な契約】を突きつけたのだ。
『……では、取引をしましょうか、エレナ』
エノクは、エレナの顔を冷たく持ち上げた。
『あなたが今後一切の感情を殺し、誰よりも冷酷な【不滅の盾(聖騎士長)】として、この教国のすべての異端者を切り捨てるマシーンとなることを誓うのなら。……妹のルシアの命だけは、処刑せずに「地下の収容所」で生かしておいてあげましょう』
『地下の……』
『ええ。あなたが完璧な教国の剣として働き続ける限り、妹の心臓は動き続ける。……ですが、あなたが少しでも感情を見せ、バグを庇うような素振りを見せれば、その瞬間に妹は灰になります。……どうしますか?』
エレナに、選択肢などなかった。
愛する妹を生かすため。それだけの理由で、エレナは自らの心を完全に殺し、冷血な殺人鬼として、無実の人々を次々と地下へ送る【教国の処刑人】へと成り果てたのだ。
三、 凍てつく絶対零度の言葉
(私は……ルシアを生かすために、心を殺した。自分がどんなに恨まれようとも、あの地下の檻の中で、ルシアが生きていると信じていたから……っ!)
エレナの回想が現実へと引き戻される。
先ほど、床ガラスの向こうに見た、あの地獄のような地下の檻の群れ。
自分が切り捨てた人々だけでなく、愛する妹のルシアもまた、あんなおぞましい環境で何年間も家畜のように扱われていたのだという事実が、エレナの胸を狂おしいほどに引き裂いていた。
「エノク……! ルシアは……私の妹は、どこにいるッ!」
エレナが、血を吐くような声で絶叫した。
「私が聖騎士を裏切って逃亡したあの日、あなたがルシアを殺そうとしたのは分かっている! だが、ルシアは……!」
エノクは、激昂するエレナを見下ろし、一切の感情を交えずに、まるで天気を語るような口調で言った。
「ああ、あの不良品ですか。……安心しなさい、エレナ。彼女は処分などしていませんよ」
「……えっ?」
エレナの動きが止まる。
「彼女の感情マナは、非常に燃焼効率が良かった。……ですので、この第零セクターの『ペレット抽出炉』の生体燃料として、特別に長期間、使用させてもらいました」
エノクの言葉の意味を理解するのに、エレナの脳は数秒の時間を要した。
「……先月でしたかね。彼女の生命マナは一滴残らず絞り尽くされ、最後は黒い灰となって燃え尽きました。……彼女の命は、教国の何万人もの栄養ペレットの『成分』として、この街の人々の胃袋へと有意義に再利用されましたよ。喜ばしいことでしょう?」
「――――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
エレナの口から、声にならない、凄まじい絶望の悲鳴が迸った。
「あぁぁぁぁぁぁっ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
妹を護るために、自分の心を殺し、何千人もの命を奪ってきた。
その結果が、妹を生きたまま燃料として搾取し、最後は灰にして他人に食わせるという、悪魔すら思いつかないほどの非道な結末。
エレナの精神は、完全に崩壊の淵へと叩き落とされた。
彼女の身体から吹き上がっていた青白銀の極光が、黒く濁った絶望のオーラへと変質し、彼女は聖剣を取り落として床に倒れ伏した。
「てめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
カルムの怒声が、工場内に轟いた。
「どこまで人の心をコケにすりゃ気が済むんだッ! てめぇら神様は、そこまで腐ってやがるのかッ!!」
カルムが、激怒のあまり極光炎を全身から吹き上がらせ、エノクへ向かって砲弾のように突進した!
四、 開戦、次元の違う絶望
「死ねェェェェェェッ!!」
【我流神殺・太陽紅蓮乱舞・最大出力】ッ!!!!
カルムの放った、これまでのすべてを凌駕する威力の炎の乱れ打ち。
深海の絶対零度をも温めた、彼が辿り着いた『最強の火力』が、エノクの純白の法衣へ向かって凄まじい勢いで殺到する。
だが。
「……五月蝿いと言っているのです、野良犬」
エノクが、迫り来る炎の壁へ向かって、冷たく、ただ『一瞥』した。
ピタッ…………。
その瞬間。
カルムの放った極光炎が、エノクの目の前わずか数十センチの空中で、時間そのものが停止したかのように【完全に静止】したのだ。
「……なっ!?」
カルムが驚愕に見開く。
「炎とは、マナの激しい運動によって生じる熱。……私の前では、あらゆる分子の運動(感情の揺らぎ)は、静止を強制されます」
パリンッ……!!
エノクが指を軽く弾くと、空中で静止していたカルムの炎が、まるで【赤いガラス細工】のようにカチンコチンに凍りつき、そのまま粉々に砕け散って床に落ちたのだ。
「炎が……凍って、砕けただと……!?」
カルムは、信じられない光景に言葉を失った。
エノクの能力。
それは、単なる氷の魔法ではない。
マナの運動、熱エネルギー、そして人間の感情の揺らぎ……そのすべての『動くもの』を概念レベルで強制的に停止(凍結)させる、【絶対静止】の神威であった。
「がはっ……!!」
次の瞬間、カルムの身体が、見えない巨大な氷の塊で殴られたかのように空高く吹き飛ばされ、工場の鋼鉄の壁に深々と叩きつけられた。
「カルムッ!!」
アルが悲鳴を上げる。
「カルム殿……っ!」
エレナが、絶望の淵から這い上がり、怒りと悲しみに血の涙を流しながら、再び『星霜の聖剣』を握り締めた。
「エノク……! 貴様だけは……貴様だけは、私がこの手で八つ裂きにするッ!!」
エレナは、全身のマナを限界まで振り絞り、かつてないほどの鋭い踏み込みでエノクの懐へと飛び込んだ。
「【星霜不滅・絶対極光剣】ッ!!!!」
妹を弄ばれた怒り、自らの罪への懺悔。そのすべてを乗せた、渾身の一撃。
空間を切り裂く極光の刃が、エノクの首筋へと迫る。
しかし。
ガシッ。
「……っ!?」
エレナの聖剣の切っ先を、エノクは【素手の指二本】で、まるで羽虫でもつまむように軽々と受け止めていた。
「感情に任せた刃など、何の脅威にもなりません。……あなたの剣は、私に対する復讐心で酷く濁っていますよ、エレナ」
「あ……ああ……っ」
エレナが、信じられない力で固定された聖剣を引き抜こうとするが、ピクリとも動かない。
「あなたは、妹の命という安い人質のために心を殺すような、中途半端な欠陥品だった。だから私は、あなたを神の剣から外し、セリアを後任に据えたのです。……あなたは、初めからこの教国には不要なバグだったのですよ」
エノクが、冷酷な言葉とともに、指先に絶対零度のマナを込めた。
ピキィィィィィィィンッ!!!!
「あぁぁぁぁぁぁっ!!」
エレナの『星霜の聖剣』の刀身が、エノクの指先から瞬く間に青白く凍りつき、その絶対的な冷気はエレナの両腕から全身へと伝播し、彼女の肉体をその場に【氷の彫像】のように凍結させ始めたのだ。
五、 絶望の境界線
「エレナさんッ!!」
アルが、黒鉄の包丁を構え、エノクへ向かって走り出した。
「アル、やめてくださいッ! その者に近づいては……っ!」
オルタが絶叫するが、アルの足は止まらなかった。
「僕の家族を……これ以上、傷つけるなァァァァッ!!」
アルが、金銀の極光を放つ包丁を振り下ろそうとした、その時。
「……あなたが、『特異点』ですね」
エノクの氷のように透き通った瞳が、初めてアルを正面から捉えた。
ズドォォォォォォォォォォォンッ!!!!
アルの小さな身体が、エノクから放たれた目に見えない【神威のプレッシャー】だけで、床に激しく叩きつけられた。
「がはっ……!」
アルの口から血が飛び散り、包丁が手から弾け飛ぶ。
「魔力を持たず、ただ奇妙な『熱』だけで周囲のバグを活性化させるイレギュラー。……主神アルファ様は、あなたという存在の完全消去を望んでおられます」
エノクは、凍りついたエレナをゴミのように蹴り飛ばし、倒れ伏すアルの頭上へと静かに歩み寄った。
「あなた方の旅は、ここで終わりです。温かな食卓などという下等な幻想は、この絶対の静止の前に、跡形もなく消え去る運命なのです」
第一使徒ガラテアとは比べ物にならない、次元の違う圧倒的な戦闘力。
カルムの最強の炎は凍りつき砕け散り、エレナの不滅の剣は指二本で止められた。
そして、アルの包丁すらも届かない、完全なる【絶対絶望】の領域。
かつてない完全敗北の影が、チーム『最高の厨房』の四人を、逃れようのない死の冷気で包み込もうとしていた。




