第73話:冷たい戒律と罪悪感
一、 奈落の檻と、暴かれる教国の闇
「ああ……ああぁぁぁっ……!!」
第零セクター、栄養ペレット製造工場の冷たい金属床の上。
元・最高位聖騎士長エレナ・ルミナスは、自身の白磁の兜と肩当てをガタガタと打ち鳴らしながら、その場に崩れ落ちていた。
分厚い床ガラスの向こう側――暗黒の奈落に広がる、何千、何万という鉄の檻の群れ。
そこに閉じ込められているのは、教国の冷たい抑圧マナに抗い、「感情」を消し去ることができなかった人々。神の教律に従えぬ不適合者として、陽の光すら届かぬ地下に投獄され、ペレット製造の実験体、あるいは神座の塔を維持するための『生体マナの燃料』として搾取され続けている犠牲者たちであった。
「そんな……。こんなの、拷問より酷いじゃないか……っ!」
アルは、両手で分厚いガラスを叩いた。
ガラスの向こう側にいる、ガリガリに痩せこけた子供が、虚ろな瞳でゆっくりと首を上げ、アルの方を見つめてくる。だが、その瞳には光がなく、助けを求める声すら出せないほど、心も肉体も磨り減らされていた。
「教国ルミナは……争いも飢えもない『完璧な平和』を謳っていたはずだ……!」
カルムが、怒りで全身の毛術回路を赤く発光させ、握り締めた拳から血を滲ませた。
「その『平和』の裏側で、感情を捨てきれなかった奴らをこんなゴミ溜めに閉じ込めて、マナを搾り取ってたってのかよッ! どこが神の救済だ! ただの酷ぇ地獄じゃねぇかッ!!」
「……私が、やったのだ」
エレナの口から、掠れた、今にも消え入りそうな声が漏れ出た。
「エレナさん……?」
アルが振り返る。
エレナは、己の白銀の手袋をはめた両手を見つめていた。その美しい手は、激しい恐怖と罪悪感によって、止まることなく小刻みに震えている。
「『感情は罪である。不適合者は世界の安定を脅かす悪魔である』……。私は、主神アルファ様のその教えを、一微塵も疑わなかった。……彼らを捕らえ、鎖で縛り、この第零セクターの暗闇へ引き渡した最後の命令を下したのは……他でもない、この私なのだ」
エレナの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、冷たい金属床に弾けた。
「ガレアの街でアル殿に出会うまで……私は自分の職務を誇りに思っていた。教国の秩序を守る『不滅の盾』だと胸を張っていた。……だが、私が守っていたのは、平和などではない! 多くの人々の尊厳と命を足蹴にし、この暗闇の地獄の上に成り立っていた、冷酷な偽りの正義だったのだ……ッ!」
罪悪感。
それは、どれほど強力な魔導障壁よりも重く、深く、エレナの魂を内側から引き裂いていく。
セリアとの戦闘で振り払ったはずの過去の影。それが、今目の前で何千人もの「生きている犠牲者」という動かぬ証拠となって突きつけられたことで、彼女のマナ回路は自己嫌悪と絶望によって不全を起こし始めていた。
二、 冷たい戒律の真実
『――――警告。エレナのマナ出力、急激に低下。……精神的ショックによるマナの自己崩壊シークエンスを検知――――』
オルタが、自身のルビー色の瞳を激しく明滅させながら、エレナの背中に小さな手を当てた。
「エレナ……落ち着いてください。マナ回路を自己遮断すると、エレナの生命維持に危険が及びますっ!」
「……いっそ、壊れてしまえばいいのだ」
エレナは、膝を折ったまま、虚ろな目で床を見つめた。
「私は……アル殿やカルム殿のそばに立つ資格など、最初からなかったのだ。不滅の盾などと……どの面下げて名乗っていたのだろうな。私はただの、命を踏みにじる側の、冷血な殺人鬼に過ぎなかったというのに……」
エレナの全身から、青白銀の神聖マナがスーッと勢いを失い、代わりに冷たく不吉な「死の気配」が彼女を包み込み始める。
「エレナさんッ!!」
アルが、エレナの前に身を投げ出すようにして座り込み、その震える両肩を強く掴んだ。
「そんなこと言わないでッ! エレナさんは、殺人鬼なんかじゃないよッ!」
「アル殿……私を庇うな……」
エレナは、泣き顔で首を振った。
「見ただろう、あの地下の人々を。彼らをここに追いやったのは、私の手だ。私の下した命令だ。……この罪は、一生拭うことなどできない。私のような罪人が、君の作るあの温かいスープを『美味しい』と笑って味わっていたなど……あまりにもおこがましい……っ!」
エレナの激しい吐露。
冷たい戒律の中で教育され、正義だと信じ込まされて犯してしまった過ち。そして、心を獲得してしまったからこそ生じる、狂おしいまでの自責の念。
教国ルミナの真の恐ろしさは、単に敵を攻撃する強さだけではない。
こうして、人間が「心(良心)」を取り戻した瞬間に、過去に背負わせた罪の重さによって、その魂を内側から自滅させる【倫理の毒針】を仕込んでおいたことなのだ。
三、 少年の怒りとスープの熱
「罪があるなら……僕が全部、下ごしらえしてあげるッ!!」
アルの叫びが、無機質な工場内に響き渡った。
「アル殿……?」
アルの漆黒の瞳には、かつてないほどの激しい『炉』の熱が宿っていた。
アルは、エプロンのポケットから、大事に持ち歩いていた一合ほどの『海神の涙塩』と、小さな木製のお椀を取り出した。
「過去のことは、消えないよ! エレナさんがしたことも、ここで苦しんでる人たちの痛みも、全部本当のことだよ!」
アルは、手の中の包丁で、自分の腕に巻かれた包帯をサッと切り裂いた。
そして、その小さな手をエレナの冷え切った両手にしっかりと重ね合わせた。
「でもね! エレナさんが自分の罪に気づいて、こんなに苦しくて涙を流してるのは……エレナさんが『温かい心』を取り戻したからでしょ! 冷たい命令に従うだけの機械じゃなくなったからでしょッ!」
アルの体内にある命の火『炉』が、太陽のごとき黄金のマナとなって爆発的に燃え上がる。
その熱量は、アルの手を通じて、エレナのマナ回路へとダイレクトに流れ込んでいった。
「僕がスラムで出会ったエレナさんは……僕のご飯を、泣きながら『美味しい』って食べてくれた! ガレアの街で、自分が傷ついても僕を庇ってくれた!……僕にとっては、それが全部なんだよッ!」
アルは、持っていたお椀に、先ほど仕込んだ『海神と大地の決戦スープ』を注ぎ分け、エレナの唇へ強引に押し当てた。
「飲んで、エレナさん! 自分のことを嫌いになりそうな時は……僕のスープを飲んで! 僕のスープにはね、エレナさんが今まで僕たちを護ってくれた『体温』が、いっぱい入ってるんだからッ!!」
「アル殿……っ」
温かな湯気。海神の涙塩がもたらす清らかな海の匂い。
エレナの口内に、極上のスープの熱が流れ込んできた。
ズズッ……。
その瞬間、エレナの全身の細胞が、歓喜の震えを上げた。
罪悪感によって凍りついていた彼女の魂(マナ回路)に、アルの温かな情熱がすーっと浸透し、自己崩壊を起こしそうになっていた冷たい死の気配を、圧倒的な「生の体温」で包み込み、溶かし去っていったのだ。
四、 相棒の喝と、盾の再起
「へっ、そうだぜ、騎士様」
カルムが、ドスンと大きな足音を立ててエレナの横にしゃがみ込んだ。
カルムは、己の右拳に宿る『群青と緋色の極光炎』を優しく灯し、エレナの背中をバシッと力強く叩いた。
「昔やったことが消えねぇなら……これからやることで返せばいいだろうがッ!」
「カルム殿……」
「ここに閉じ込められてる奴らが哀れだと思うなら、教国の神様をブッ倒して、この檻を全部ブチ壊してやればいい! お前が逃げ出して自分を責めてたって、この地下の奴らは一人も救われねぇんだぞッ!」
カルムの荒々しくも、真理を突いた『喝』。
「俺だってスラムでクソみたいなことばっかりやってきた。だがな、アルと出会って、自分の拳の使い道を知ったんだ。……お前のその盾は、過去の罪を抱えて死ぬためにあるのか? 違いだろ! アルを、俺たちを、そしてこの世界を救うためにあるんだろッ!!」
カルムの言葉が、アルのスープの熱と重なり合い、エレナの胸の奥底にあった最後の迷いを完全に吹き飛ばした。
「……カルム殿。アル殿……」
エレナは、涙を拭った。
青白銀の瞳に、かつての迷いはもうなかった。そこにあるのは、罪を背負い、それでも『命の盾』として生き抜くことを決意した、真の不滅の光。
「ああ……君たちの言う通りだ。私がここで絶望に伏しても、誰一人救われはしない。……私は、自分の犯した罪から逃げない。この命が燃え尽きるまで、主神アルファの理不尽と戦い、この地下の者たちを……すべて救い出してみせる!」
エレナが、聖剣『星霜』を握り直し、力強く立ち上がった。
彼女の身体から吹き上がったのは、過去の教国の抑圧マナではなく、仲間たちの「体温」によって再創生された、圧倒的な【不滅の創世極光】であった。
「よくぞ……立ち上がりました、エレナ」
オルタも、涙を浮かべて笑顔を見せた。
五、 降り注ぐ絶望の足音
しかし――。
チーム『最高の厨房』が、エレナの心の壁を乗り越え、再び一つに結ばれたその感動の瞬間。
ド・ス・ン………………。
第零セクター全体を激しく揺らす、地鳴りのような重低音が響き渡った。
「な……なんだ!?」
カルムが即座に拳を構える。
工場内の巨大な鉄パイプやコンベアが、その一音だけでミシミシと悲鳴を上げ、天井から白亜の粉塵がパラパラと舞い落ちる。
それは、地震などではない。
何かが、圧倒的な質量と存在感をもって、この地下工場へと『歩いて近づいてきている』音であった。
『――――ツ……ツツッ……! 警告……! 警戒レベル……測定不能ッ!!――――』
オルタのルビー色の瞳が、これまでに見たこともない狂暴な速さで真っ赤なアラートを明滅させ始めた。
彼女の小さな身体が、機械としてのエラーを起こすほど激しく震え出す。
「オルタ!? どうしたんだ!」
アルがオルタの肩を抱きしめる。
「駄目です……! 逃げてください……っ! アル、エレナ、カルム……全員、今すぐここから逃げてくださいっ!!」
オルタの声は、完全にパニックに陥っていた。
「上空の神座の塔より……空間を歪めて『何か』が降りてきます! マナの出力、第一使徒ガラテアの……一〇倍以上! 空間の構成概念そのものが、押し潰されようとしていますッ!!」
「一〇倍以上だと……っ!?」
カルムの顔から、血の気が引いた。
天井の白亜の装甲が、まるで温めたバターのようにドロドロと溶け始め、その隙間から、太陽の光すら遮るほどの【漆黒と白銀の神威の光】が、ドッと流れ込んできた。
冷たい。
息ができない。
肌が触れただけで、魂が凍りついて砕け散りそうなほどの、絶対的な神の威光。
罪悪感を乗り越え、再起を果たしたエレナ。
だが、彼女たちの前に現れようとしているのは、これまでの旅で遭遇したどんな試練とも次元が違う、主神直属の【真なる神罰の使徒】であった。
第零セクターの暗闇の中で、チーム『最高の厨房』を待ち受ける【完全なる敗北】へのカウントダウンが、いま、容赦なく刻まれ始めていた。




