第72話:交わらぬ正義
一、 敗者の問いと、冷徹なる理想
薄暗い旧地下水路の石畳に、砕け散った氷の破片と、白磁の甲冑の破片が散乱していた。
エレナの放った『星霜不滅・絶対極光剣』の直撃を受け、壁に叩きつけられた新・聖騎士長セリア・ルミナス。
彼女の顔を覆っていた銀のベールは無惨に引き裂かれ、その下から現れた白蝋のように美しい顔が、苦痛と、それ以上の「理解不能な現実」に対する混乱で歪んでいた。
「……あり得ません」
セリアは、口元から一筋の血を流しながら、壁に手をついて必死に身体を起こそうとした。しかし、エレナの一撃は彼女の神聖マナ回路を完全に切断しており、彼女の足はもはや立ち上がる力を失っていた。
「私は……感情というノイズを完全に排除し、主神アルファ様の教律と完全に同化していたはず。……完璧な神の剣である私が、なぜ、迷いに満ちたバグに後れを取るのですか……ッ!」
セリアの青い瞳が、信じられないというようにエレナを見上げた。
「それが、教国の教律の限界だ、セリア」
エレナは、聖剣を鞘に納め、静かにセリアを見下ろした。その眼差しには、かつて異端者を切り捨てていた時の冷酷さはなく、ただ哀れむような、深い悲哀が宿っていた。
「感情は、計算式を乱すノイズではない。誰かを護りたいと願う強い想いは、時にマナの出力を、神が定めた限界値すらも超えて引き上げる。……君の冷たい剣には、その『底力』がないのだ」
「詭弁ですッ!!」
セリアが、血を吐きながら激しく叫んだ。
「誰かを護りたいと願う想い? 愛情? ……笑わせないでください。そんな不確かな熱のせいで、かつてこの世界は何度滅びかけたか、あなたは知っているはずだ!」
セリアの瞳の奥で、狂信の炎が冷たく燃え上がる。
「愛情があるから、それを奪われた時に『憎しみ』が生まれる。豊かさを求めるから、『貧困』と『争い』が生まれる。……感情とは、人間同士を殺し合わせるための疫病です! 主神アルファ様は、その疫病を根絶するために【大氷期】という完璧な救済をもたらしたのではないですかッ!」
セリアの言葉が、地下水路に鋭く反響した。
「この教国ルミナに、悲しむ者は一人もいません。飢えて苦しむ子供もいません。なぜなら、誰も『何かを欲する』という感情を持たないからです。すべてが平等で、すべてが静止している。……これこそが、絶対の『正義』であり、究極の平和です!」
セリアは、アルやカルムを激しく睨みつけた。
「それを、あなた方のような野蛮なバグが、わざわざ『温かい食卓』などという毒を持ち込み、再び世界を争いと混沌の地獄へ引き戻そうとしている。……あなた方こそが、世界を滅ぼす悪魔なのです!」
二、 交わらぬ正義と少年の怒り
セリアの主張。
それは単なる狂人の戯言ではなかった。教国ルミナという巨大なシステムが、何千年もかけて構築してきた、一つの冷徹な【真理(正義)】であった。
悲しみや争いをなくすために、その原因である「感情(心)」そのものを人間から切除する。
確かに、この教国にはスラム街のような飢えもなければ、物を奪い合う血みどろの暴力もない。完璧に管理され、配給される栄養ペレットによって、肉体だけは生かされている。
「……ふざけんな」
重苦しい沈黙を破ったのは、カルムの低い声だった。
彼は、右拳に極光炎をチラつかせながら、セリアを睨み下ろした。
「悲しむ奴がいねぇ? 飢える奴がいねぇ? ……上等だ。だがな、誰も『笑わねぇ』世界なんて、ただの巨大な墓場と変わんねぇだろうが」
「墓場で結構!」
セリアが即座に言い返す。
「愚かな感情に振り回され、互いを傷つけ合いながら生きるより、何も感じずに永遠に静止している方が遥かに美しい。……あなたのように怒りに身を任せる獣には、一生理解できないでしょうね」
「てめぇ……ッ!」
カルムがカッとなって一歩踏み出そうとした時、彼の前に、小さなエプロン姿の少年がスッと進み出た。
アルだった。
アルは、セリアの冷たい青い瞳を、逃げることなく真っ直ぐに見つめ返した。
「悲しいことや、痛いことがなくなるなら……心がなくてもいいって、本気で思ってるの?」
「ええ。それが神の教えですから」
「……間違ってるよ」
アルの漆黒の瞳に、激しい、だがどこまでも澄み切った『炉』の熱が燃え上がった。
「お腹が空いて、すごくひもじい思いをしたから……誰かと一緒に食べるご飯が、あんなに美味しくて、温かいって気づけるんだ」
アルの脳裏に、スラムの泥水の中で震えていた記憶が蘇る。
あの絶望的な飢えと寒さがあったからこそ、恩人がくれた一杯のスープの熱を、これほどまでに愛おしく、尊いものだと感じることができたのだ。
「誰かと喧嘩して、痛い思いをして、いっぱい泣いたから……仲直りして、一緒に笑い合う時間が、宝物になるんだよ!」
アルは、両手をギュッと握り締めた。
「教国のやってることは、平和なんかじゃない。……みんなから『美味しい』って笑うための心を奪って、ただ無理やり息をさせてるだけだ。そんなの、料理でもなんでもない……ただ箱の中にゴミを詰め込んでるのと同じだッ!!」
アルの言葉は、料理人としての根源的な怒りであった。
食べることは、生きること。味を感じ、温かさを分け合い、命に感謝すること。
それを「不要なノイズ」として切り捨てる教国の正義とは、絶対に交わらない。
「……愚かな。底辺のバグの感傷など、聞く耳を持ちません」
セリアは、アルの言葉を冷笑で切り捨てた。
「私たちは決して交わらない。……殺しなさい。神の剣として敗北した以上、私に生きる価値などありません。あなたのその薄汚い炎でも包丁でも、好きにするがいい」
セリアは、ゆっくりと目を閉じ、自らの死(排除)を静かに受け入れようとした。
三、 騎士の慈悲と、残された火種
しかし、いつまで経っても、彼女の首を刎ねる刃の感触も、焼き尽くす炎の熱も訪れなかった。
「……何をしているのです。早く殺しなさい」
セリアが目を開けると、そこには、彼女を見下ろすエレナの静かな姿があった。
「私は、君を殺さない」
エレナは、聖剣をカチャリと腰の鞘に完全に納めた。
「な……なぜですか! それは教国への侮辱だ! 反逆者のくせに、私に情けをかける気ですかッ!」
「情けではない。これは、私の『誇り』だ」
エレナは、セリアの前にしゃがみ込み、その冷たい銀色の甲冑の肩にそっと手を置いた。
「かつての私なら、君を教律に従って一秒の躊躇もなく切り捨てていただろう。……だが、私はもう、不要なものをただ排除するだけの『冷たい剣』ではない。誰かを護り、命を繋ぐための『盾』なのだ」
エレナの青い瞳に、春の陽だまりのような温かさが宿っていた。
「セリア。君はここで生きて、見届けるがいい。……我々が神座の塔の頂点へ至り、主神アルファの凍てついた玉座を、アル殿の温かなスープで溶かし尽くす瞬間をな」
「……っ!!」
セリアの瞳が、屈辱と、それ以上の「理解できない温もり」に対する恐怖で激しく揺らいだ。
「やめろ……。私を、生かすな……。そんなバグの体温に触れさせないで……ッ!」
彼女にとって、感情を持った者に情けをかけられ、命を救われること。それは、神の教えを根底から否定される、最も恐ろしい『罰』であった。
「……行きましょう、アル殿、カルム殿、オルタ。この水路の奥に、神座の塔の地下区画への扉があるはずだ」
エレナは立ち上がり、セリアに背を向けた。
「エレナさん……うん」
アルが頷く。
「へっ、せいぜいそこで頭冷やしてな、元・後輩のお嬢ちゃん」
カルムが鼻で笑い、一行は再び地下水路の奥へと歩き出した。
暗闇の中に取り残されたセリア。
彼女は、遠ざかる四人の背中と、カルムが灯す極光炎の温かな光を見つめながら、自身の胸の奥底で、これまで一度も感じたことのない「チリッ」とした奇妙な熱(悔しさと、かすかな憧憬)が芽生えていることに気づき、激しく首を振ってそれを否定し続けた。
四、 第零セクター・無機質な「厨房」
セリアとの戦闘を終え、さらに地下水路を奥へと進むこと数十分。
『――――皆様、この先です。厚さ二メートルの神聖金属防壁が検知されました。神座の塔の地下区画【第零セクター】への搬入口です――――』
オルタが、壁面の一角を指差した。
そこには、教国の紋章が刻まれた巨大な鉄の扉が、威圧的に閉ざされていた。
「ここは本来、塔の維持に必要な物資を運び込むための搬入口だ。私が知る暗号がまだ生きていれば……」
エレナが、扉の横にある操作パネルに手を触れ、高速でマナのパスワードを入力していく。
ピピピピッ……ガコンッ!!
重々しい機械音とともに、巨大な鉄の扉が横へとスライドし始めた。
「開いたぞ。……中へ入ろう」
エレナを先頭に、四人は【第零セクター】の内部へと足を踏み入れた。
「……なんだこりゃ」
中に入ったカルムが、眉をひそめて周囲を見渡した。
そこは、想像を絶するほど巨大な【自動化された地下工場】であった。
見渡す限りの広大な空間に、無数の金属製のパイプとベルトコンベアが張り巡らされ、規則正しい機械の駆動音が絶え間なく響き渡っている。
コンベアの上を、大量の「白い粉」や「液状のマナ」が流れていき、巨大なプレス機のような機械によって、次々と親指大の【真っ白な固形物】へと圧縮・成形されていく。
「これが……」
アルが、その白い固形物を見つめて息を呑んだ。
「そうだ。これが、教国ルミナの住人十五万人に毎日配給されている食事……【栄養ペレット】の製造工場だ」
エレナが、冷たいコンベアを指差した。
「忘却の海から吸い上げた生命マナから『感情(味覚)を刺激する成分』を完全に濾過・漂白し、ただ肉体を維持するためだけの無機質な栄養素へと変換している。……教国にとっての『厨房』とは、この無機質な工場のことを指すのだ」
アルは、コンベアからこぼれ落ちていた一つの一つの白いペレットを手に取った。
匂いも、温もりも、何もない。
ただの石ころのように、冷たく硬い塊。
これを、毎日、毎日、何十年も食べ続けさせられている人々がいる。
「こんなの……ご飯なんかじゃない」
アルの手が、プルプルと震え始めた。
料理人としての誇りが、命への冒涜とも言えるこの光景を前にして、激しい怒りへと変わっていく。
「命を、ただの数字と成分にしか見てない。……こんな機械で、人の心が満たされるわけないじゃないかッ!」
アルが、黒鉄の包丁を抜き放ち、目の前の巨大なプレス機を一刀両断しようと振りかぶった、その瞬間だった。
五、 闇に沈む「廃棄物」と蘇る罪
『――――ピーッ!! アル、待ってくださいッ! 攻撃しないでッ!――――』
オルタが、突然悲鳴のようなアラートを上げ、アルの腕にしがみついた。
「オルタ? どうしたの?」
アルが驚いて動きを止める。
「この……この工場の下ですッ! ワタクシの深層生体センサーが、信じられない数の生命反応を捉えましたッ!」
オルタのルビー色の瞳が、恐怖に激しく震えている。
「下だと……? この第零セクターのさらに地下があるというのか?」
エレナが顔色を変える。
「はい! このペレット工場の床下……巨大な空間に、無数の『人間』が……生きたまま閉じ込められていますッ!」
オルタが、コンベアの脇にある、分厚いガラスで覆われた床下点検口を指差した。
カルムが炎の光を近づけ、四人でその分厚いガラスの向こう――工場の真下の奈落を覗き込んだ。
「……なっ!?」
四人の息が、完全に止まった。
光の届かない巨大な地下の暗闇。
そこには、無数の檻が吊るされ、その中には、ボロボロの衣服を纏い、やせ細り、虚ろな目をした【何千人もの人々】が、まるで家畜のように重なり合って閉じ込められていたのだ。
「なんだよ……これ……」
カルムの声が、震えていた。
「どうして……こんなにたくさんの人が、こんな暗いところに……」
アルが、ガラスに手をつき、信じられない光景に顔を青ざめさせる。
エレナの全身が、ガタガタと激しく震え始めた。
彼女の青い瞳が、極限の恐怖と、押し寄せる圧倒的な【罪悪感】に見開かれる。
「……『不適合者』だ」
エレナの口から、血を吐くような声が漏れた。
「教国の抑圧マナによる洗脳を受け付けず……感情を持ち続けてしまった人間。あるいは、教律に疑問を抱き、反逆の意志を見せた者たち。……私は、彼らを処刑していたのではない。……生け捕りにし、この塔の地下へ『廃棄処分』として送り込んでいたのだ……」
エレナの脳裏に、かつて自分が冷たい剣で切り伏せ、連行させた人々の顔がフラッシュバックする。
子供を庇って泣き叫んでいた母親。
自由を求めて立ち上がった若者たち。
彼らは殺されたのではなく、この光の届かない地下工場の下で、文字通り【生ける屍】として何年間も幽閉され続けていたのだ。
「ああ……ああぁぁぁっ……!!」
エレナが、自身の頭を抱え、床に崩れ落ちた。
先ほどセリアを前にして振り払ったはずの罪悪感が、その何百倍もの巨大な絶望の塊となって、彼女の心を完全に押し潰そうとしていた。
「私が……私が、彼らをこんな地獄に……っ!!」
完璧な白亜の教国の裏側に隠されていた、おぞましき闇の全貌。
交わらぬ正義の果てにある、神の教律の真の残酷さが、チーム『最高の厨房』の前に最悪の形で姿を現した。
悲鳴を上げるエレナ。
無力な怒りに震えるアルとカルム。
そして、彼らがこの「隠された大罪」の間に足を踏み入れたその時。
神座の塔の最上階から、これまでのどんな敵とも比較にならない、次元の違う【絶対的な死の神威】が、音もなく彼らの頭上へと降り注ぎ始めていたのであった。




