第71話:かつての聖騎士長エレナ・ルミナス
一、 白亜の地下水路と足跡
薄暗い旧地下水路の通路を、四人の足音が反響しながら進んでいく。
地上を覆う狂気的な白さと冷酷な監視網からは逃れたものの、教国ルミナの地下もまた、無機質なコンクリートと神聖金属で完璧に舗装され、生命の気配(苔やネズミの一匹すら)を一切感じさせない死の空間であった。
「……この旧水路を抜ければ、神座の塔の地下区画【第零セクター】へと繋がる搬入ゲートに出る。私が聖騎士団を率いていた頃、極秘の治安維持作戦で一度だけ利用したルートだ。……まだシステムが変更されていなければ、の話だがな」
先頭を歩くエレナが、聖剣『星霜』を杖代わりにしながら、低い声で説明した。
「さっきからすげぇ道順に迷いがねぇな、騎士様。自分の庭みたいなもんなのか?」
カルムが、右手に極光炎を小さく灯して松明代わりにしながら尋ねた。
「……ああ。この街の影は、すべて私が管理していた」
エレナの横顔は、炎の光に照らされながらも、どこか深く暗い影を落としていた。
「感情を持った人間や、教律に疑問を抱いた者たちが、監視の目を逃れてこの旧水路に隠れ住もうとしたことが何度もあった。……私はその度、部下を率いてこの暗闇へ潜り、彼らを教律の名の下に『排除』してきたのだ」
エレナの言葉に、通路の空気がふっと重くなった。
「この床の冷たさも、反響する足音も、すべて覚えている。……かつての私は、この冷たさこそが世界を正しく保つための絶対の正義だと信じ、何の疑問も抱かずに剣を振るっていたのだから」
自らの過去の罪悪感。
ガレアの街でアルに出会う前、エレナ・ルミナスという名は、教国において最も冷酷で、最も完璧な【神の剣】として恐れられ、そして称賛されていた。
感情を殺し、ただ教律のままに命を刈り取ってきた己の過去が、故郷の冷たい空気に触れたことで、刃となって彼女自身の心を容赦なく抉り始めているのだ。
「エレナさん……」
アルが、後ろからトテトテと歩み寄り、エレナの白磁の甲冑の腕をそっと両手で包み込んだ。
「昔のことは、変えられないかもしれない。……でも、今のエレナさんは、僕たちを護ってくれる、すごく優しくて温かい騎士だよ」
アルの真っ直ぐな漆黒の瞳が、エレナを見つめ上げる。
「だから……この地下水路はもう、誰かを傷つけるための場所じゃない。僕たちが、この冷たい国を温めるための『希望の道』だよ」
アルの言葉に、エレナはハッと息を呑み、やがてフッと柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、アル殿。君の言葉は、どんな神の教えよりも私の心を救ってくれる」
「へっ、過去なんて気にしてたらメシがマズくなるからな! 俺だってスラムじゃろくでもねぇことばっかりやってきたんだ。大事なのは、今この拳(剣)を、誰のために振るうかだろ」
カルムも、ニカッと八重歯を見せて笑い飛ばした。
「ワタクシの電子頭脳も、エレナの現在の『優しさ係数』がカンストしていることを証明していますっ!」
オルタが胸を張る。
「君たちは……本当に、私には勿体ないほどの最高の家族だ」
エレナは、アルの頭を優しく撫で、再び前を向いて歩き出そうとした。
しかし、その時。
『――――警告ッ!! 前方より、極めて高密度な神聖マナの接近を検知!……これは、防衛システムではありません。一個体の『人間』ですッ!――――』
オルタのルビー色の瞳が、突如として激しく明滅し、地下水路に警告の赤色光を反射させた。
二、 銀のベールと冷たい再会
「何ッ!?」
エレナが、瞬時にアルを背中へ庇い、聖剣を構えた。
通路の奥。暗闇の中から、コツン、コツンと、金属のブーツが石畳を叩く規則正しい足音が近づいてくる。
カルムの炎の光が届くその境界線から、スゥ……と一つの影が姿を現した。
「……まさか、あなた自らこの『ゴミ捨て場』のような旧水路を這い回って帰ってくるとは。……堕ちたものですね、エレナ先輩」
鈴の転がるような、だが氷のように冷たく、感情の起伏を一切感じさせない無機質な女の声。
現れたのは、純白の細身の甲冑に身を包んだ一人の女性騎士であった。
顔の下半分を銀色のベールで覆い隠し、その瞳には、深い深い【狂信の青い光】が宿っている。
彼女の胸に刻まれているのは、エレナがかつて身につけていたものと全く同じ、教国ルミナの【最高位聖騎士長】を示す十字の紋章であった。
「お前は……セリアか」
エレナの青い瞳が、驚愕に見開かれた。
「セリア・ルミナス。……私の副官であり、教律の体現者として私が見出した、最も優秀だった騎士……」
「ええ。あなたが感情という名の汚物に感染し、この神聖なる教国を裏切って逃亡した後……主神アルファ様の御心により、私が新たな『聖騎士長』に任命されました」
新・聖騎士長セリアは、腰に帯びた白銀の細身の剣の柄に手を添え、ベールの下で氷のような笑みを深めた。
「かつて私は、あなたを誰よりも尊敬していました。常に感情を殺し、いかなるバグの排除にも一微塵の迷いも見せない【完璧な神の剣】。……私は、あなたのように美しく、冷たい刃になりたかった」
セリアの瞳に、ジワリと、しかし強烈な【憎悪】の色が滲み出す。
「ですが……今のあなたは何ですか? そんな薄汚れた子供や、炎を弄る野蛮なバグどもと群れ、あまつさえその顔に『感情』などという醜いノイズを浮かべている。……おぞましい。あなたを見ていると、私のマナ回路まで吐き気でショートしそうです」
「セリア……。君は、何も分かっていない」
エレナは、悲痛な声で首を振った。
「教国が求めている完璧な静止(大氷期)は、平和などではない。それはただの『死』だ。……人間が人間として生きるための『体温』を、主神アルファは奪おうとしているのだ!」
「黙りなさいッ!!」
セリアの怒声が、地下水路に鋭く反響した。
「神の御心に疑問を抱くこと自体が大罪! ……かつての美しく冷たかった聖騎士長エレナ・ルミナスは死んだ。今そこにいるのは、処理されるべき哀れなバグに過ぎませんッ!」
シャウンッ!!
セリアが、白銀のレイピアを抜き放った。
その極細の刀身から、周囲の水分を一瞬で凍りつかせるほどの、凄まじい冷気(神聖抑圧マナ)が爆発的に吹き上がる。
三、 罪悪感をえぐる刃
「排除シークエンス開始。……まずは、その醜いノイズから消し去ります」
セリアの身体が、フッと視界からブレた。
「速いッ!」
カルムが反応するよりも早く、セリアは信じられない速度でアルの目の前へと空間跳躍(神速の歩法)を果たし、その白銀のレイピアをアルの心臓へ向けて冷酷に突き出した!
「アル殿ッ!!」
ガキィィィィィィィィンッ!!!!
火花と氷の破片が激しく散る。
間一髪、エレナがアルの前に割り込み、『星霜の聖剣』の腹でセリアのレイピアの刺突を完璧に弾き返した。
「……さすがは先輩。反射速度の計算式だけは、まだ鈍っていないようですね」
セリアは、弾かれた反動を利用して軽やかに後方へ跳び退き、再び構えを取った。
「アル殿、カルム殿! 下がっていろ! こいつの剣速は尋常ではないぞ!」
エレナが、聖剣を正眼に構え、極光のオーラを放って牽制する。
「へっ、相手が元・後輩だろうが関係ねぇ! 俺の炎でまとめて丸焼きにしてやるよッ!」
カルムが拳に極光炎を灯し、前に出ようとする。
「待て、カルム殿!」
エレナが、手でカルムを制止した。
「彼女は……私が戦う。これは、教国の呪縛と、私自身の過去(罪)の清算だ。……私にやらせてくれ」
エレナの悲壮な覚悟を帯びた声に、カルムは舌打ちをしつつも、拳の炎をわずかに弱めて一歩下がった。
「過去の清算、ですか。笑わせないでください」
セリアが、レイピアの切っ先をエレナへ真っ直ぐに向けたまま、冷酷に嘲笑う。
「あなたが過去の罪を清算したいと言うのなら……ここで自ら首を落としなさい。あなたがこの地下水路で切り捨ててきた、かつての『バグ』たちと同じようにね」
セリアの言葉が、エレナの心臓を鋭く抉る。
「覚えていますか、エレナ先輩。五年前、この水路で教律違反を犯した家族を処刑した時のことを。……子供が泣き叫び、母親があなたに命乞いをしましたね。でも、あなたは一秒の躊躇もなく、その聖剣で彼らの首を落とした」
「やめろ……ッ」
エレナの顔が、苦痛に歪む。
「『感情は罪である。神の教律こそが絶対だ』……そう言って、彼らの血で甲冑を赤く染めながら、あなたは冷たく振り返った。……あの時のあなたの美しさを、私は今でも鮮明に覚えていますよ」
「違う……! あの時の私は、狂っていたのだッ!!」
「狂っているのは今のあなたですッ!!」
セリアのレイピアから、凍てつくような無数の【氷の斬撃(神聖冷刃)】が、機関銃のごとく放たれた!
ズバババババババババッ!!!!
四、 揺らぐ盾と、不滅の決意
「【星霜不滅・絶対極光陣】ッ!」
エレナが咄嗟に青白銀の魔法陣を展開し、氷の斬撃を弾き返す。
だが、その結界の表面は、かつてのような強固な輝きを失い、見る間にミシミシとひび割れ始めていた。
「どうしたのです、先輩? あなたの盾は、そんなに脆かったですか?」
セリアが、冷笑を浮かべながらさらに踏み込み、レイピアによる神速の連続刺突を叩き込んでいく。
ガガガガガガガッ!!
「くっ……!」
エレナが後退を余儀なくされる。
物理的な威力が足りないのではない。
エレナの心――【罪悪感】が、彼女のマナ回路に深刻なノイズ(迷い)を生じさせ、絶対防壁の強度を著しく低下させていたのだ。
自分が過去に、無実の、ただ「家族を愛した」というだけの人々を、この冷たい水路で何人も処刑してきた事実。
その血塗られた過去を持つ自分が、今さら「アルたちを護る不滅の盾」などと名乗っていいのだろうか。
その恐ろしい自己否定の闇が、彼女の足を重くし、剣の軌道を鈍らせている。
(私は……罪人だ。教国に帰ってきたことで……私の過去の血の匂いが、私を許さない……っ)
ズバァァァンッ!!
セリアの重い一撃が結界を突き破り、エレナの白磁の甲冑の肩を浅く切り裂いた。
「がっ……!」
エレナが膝をつく。
「終わりですね。かつて最強の盾と謳われたあなたのマナは、自らの矛盾と罪悪感によって完全に崩壊しています」
セリアが、トドメを刺すべく、レイピアに絶対零度のマナを収束させた。
「さようなら、エレナ先輩。……神の教律の前に、散りなさい」
セリアのレイピアが、エレナの心臓へ向かって真っ直ぐに突き出された、その瞬間。
「エレナさんッ!!」
ダンッ!!
アルが、カルムの制止を振り切り、黒鉄の包丁を構えてエレナの前に飛び出したのだ!
カキィィィィィィィィィィンッ!!!!
アルの包丁から放たれた【金銀の極光】が、セリアのレイピアの絶対零度の刃と正面から激突し、凄まじい衝撃波を地下水路に巻き起こした。
「なっ……! 魔力を持たないただの空箱が、私の『神聖冷刃』を止めた……!?」
セリアの無表情な顔に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
「アル殿ッ! なぜ出た! 下がっていろと言ったはずだッ!」
エレナが血を流しながら叫ぶ。
アルは、セリアのレイピアを包丁でギリギリと押し返しながら、振り返らずに叫んだ。
「エレナさんの過去がどうだったかなんて、僕には関係ないッ!」
アルの漆黒の瞳に、太陽のような『炉』の炎が激しく燃え上がる。
「僕が知ってるエレナさんは、ガレアの街で僕を庇ってくれたエレナさんだ! 深海で、血を吐きながらも絶対の結界を張ってくれたエレナさんだ!」
アルは、包丁にさらに命の熱を込め、セリアの冷気を押し返し始めた。
「エレナさんは、過去の罪を抱えたまま……それでも『護る』って決めたんでしょ! だったら、そんな冷たい言葉(昔のこと)に負けちゃダメだッ!!」
アルの言葉が、温かなスープのように、エレナの凍りついていた心と、罪悪感に苛まれていたマナ回路の奥底へ、スゥ……と優しく染み渡っていった。
五、 蘇る誇り、不滅の騎士
(……そうだ)
エレナは、ハッと目を見開いた。
私は、過去の罪から逃れるために教国を捨てたのではない。
アル殿の作る温かな食卓を守るため、そして、これ以上自分のような「悲しい機械」を生み出さないために、剣を振るうと決めたのだ。
過去の罪が消えないのなら。その罪を一生背負いながらでも、彼らの不滅の盾として生きていく。それこそが、私の見つけた「新しい正義(誓い)」ではないか。
「……アル殿、すまない。私が愚かだった」
エレナは、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の肩の傷から流れる血が止まり、白磁の甲冑から、これまでで最も強く、最も澄み切った【青白銀の極光】が爆発的に吹き上がり始めた。
「エレナさん……!」
アルが笑顔を見せる。
「もう大丈夫だ。……アル殿、カルム殿、オルタ。君たちの居場所(厨房)は、私が絶対に護り抜く」
エレナは、『星霜の聖剣』を上段に構え、冷酷な目でセリアを見据えた。
「な……なんですか、そのマナは。矛盾に満ちたバグの分際で、どうしてそんな澄み切った光を放てるのですかッ!」
セリアが、アルを弾き飛ばし、信じられないというように叫ぶ。
「これが、『体温』だ。誰かを護りたいと願う、人間の心の熱量だ」
エレナの声は、氷のように冷たかったかつての響きを完全に捨て去り、春の陽だまりのような圧倒的な力強さを帯びていた。
「セリア。君はかつての私だ。冷たい計算式の中でしか生きられない、哀れな刃。……だが、私はもう、かつての聖騎士長エレナ・ルミナスではない。私は、チーム『最高の厨房』の、不滅の盾だッ!!」
【星霜不滅・絶対極光剣】ッ!!!!
エレナが踏み込み、聖剣を大上段から振り下ろした。
それは、迷いを完全に断ち切った、物理的な装甲も、神聖なマナの結界もすべてを両断する【不滅の一閃】。
「教律・絶対防禦ッ!!」
セリアが慌ててレイピアを交差させ、最大出力の氷の盾を展開するが――。
ズバァァァァァァァァァァァァンッ!!!!
エレナの聖剣の極光が、セリアの氷の盾をまるで薄氷のように一刀両断し、そのままセリアの純白の甲冑の胸元を浅く、しかし決定的な衝撃をもって切り裂いた!
「がぁぁぁぁぁぁっ……!!」
セリアの身体が、凄まじい衝撃波とともに地下水路の奥へと吹き飛ばされ、石の壁に激突して崩れ落ちた。
「……勝負あったな。それ以上は、命に関わるぞ」
エレナは、聖剣の切っ先を下げ、倒れたセリアを見下ろした。
「くっ……あぁぁぁ……。なぜ……完璧な神の剣である私が、バグに……」
セリアは、砕けた銀のベールの下から血を吐きながら、気絶した。
静寂が戻った地下水路。
「すげぇ一撃だったぜ、騎士様。迷いが吹っ切れたみたいだな」
カルムが、ニッと笑って親指を立てた。
「ああ。アル殿のおかげだ。……過去の罪は消えないが、この剣で護れる未来がある限り、私は二度と迷わない」
エレナは、聖剣を鞘に納め、アルへ向かって優しく微笑んだ。
かつての聖騎士長としての過去の罪悪感を乗り越え、真の意味で「チーム最高の厨房」の不滅の盾として完全覚醒を果たしたエレナ。
彼らの絆は、教国の冷酷な空気に触れても、決して揺らぐことはなかった。
「さあ、行こう! 神座の塔の地下ゲートはもうすぐだね!」
アルが、前を向いて歩き出す。
しかし、彼らはまだ知らなかった。
この教国ルミナには、セリアのような騎士団レベルとは次元が違う、文字通り「神の代行者」たる【最凶の絶望】が、彼らを待ち受けているということを。
白銀の教国の深部へ向けて、アルたちの足音は止まることなく響き続けるのであった。




